三浦の乱(読み)サンポノラン

デジタル大辞泉 「三浦の乱」の意味・読み・例文・類語

さんぽ‐の‐らん【三浦の乱】

1510年(永正7年)朝鮮の三浦で、日本人居留民が起こした暴動事件。李朝の中宗が即位して強化された密貿易の取り締まりに反発したもの。庚午の倭変。

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精選版 日本国語大辞典 「三浦の乱」の意味・読み・例文・類語

さんぽ【三浦】 の 乱(らん)

永正七年(一五一〇)朝鮮の三浦(乃而浦富山浦塩浦)で起こった日本人の暴動事件。日朝貿易に対する李朝政府の圧迫に対して起こしたもの。朝鮮では「庚午の倭変」と呼ぶ。

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改訂新版 世界大百科事典 「三浦の乱」の意味・わかりやすい解説

三浦の乱 (さんぽのらん)

1510年,朝鮮の三浦で起きた日本人の反乱。1426年,日本船の朝鮮での停泊地は富山浦(釜山)・薺浦せいほ)(熊川)・塩浦(蔚山)の三浦とされ,朝鮮側はここに倭館を置いたが,はじめ日本人の三浦居住は認めなかった。しかし日本からの渡航船が増大するにつれ,三浦の長期滞在日本人が増大し,1436年,李朝政府は日本人の三浦居住を認め恒居倭人と呼んだ。恒居倭人は日本船の入港に伴ってさまざまの商取引に従事し,60戸(206名)までとされたが,実際には制限数の7~8倍にものぼるようになった。李朝は公貿易のほかに私貿易も認めており,恒居倭人は私貿易で莫大な利益を得ていたが,私貿易の際に禁制品を扱う密貿易が絶えないため,1494年,私貿易を禁止した。私貿易が禁止されて一番困ったのは対馬島民であり,生活に窮した彼らは恒居倭人と結び密貿易に走るが,李朝政府がこれを厳しくとりしまると,三浦の恒居倭人は対馬島主宗氏の応援を求め,反乱を起こした。宗氏は200余隻の軍船を送って応援し,反乱日本人は富山浦・薺浦の軍事拠点を占領役人を殺害したりしたが,朝鮮軍の反撃をうけ,日本側の敗北に終わった。これが三浦の乱である。この結果,対馬と朝鮮の通交はいっさい断絶し,宗氏発行の文引をもつ船もいっさい渡航不可能となった。1512年,壬申約条で通交は再開されたが,対馬からの歳遣船半減,交易も薺浦のみとされ,日本人の三浦居住は禁止された。
日朝貿易
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「三浦の乱」の意味・わかりやすい解説

三浦の乱
さんぽのらん

朝鮮の三浦に居住していた日本人が1510年に起こした反乱。1426年以来、日本と朝鮮の貿易は三浦(富山浦(ふさんぽ)=釜山(ふさん)、薺浦(せいほ)=熊川、塩浦(えんぽ)=蔚山(うるさん)の3港)で行われ、三浦には貿易などに従事する日本人が多数居住していた(恒居倭人(こうきょわじん))。当時、日朝貿易には、外交使節の贈答品、政府買上げの公貿易、政府監督下の私的貿易(私貿易)の3形態があり、なかでも私貿易は利益が大きく、盛んであった。しかし私貿易は禁制品の密貿易を伴いがちであり、種々の弊害が生まれたため、朝鮮政府は1494年、私貿易を最終的に禁止した。すると、対馬(つしま)島民や三浦の恒居倭人は密貿易に走り、朝鮮政府がそれを厳しく取り締まると、1510年、三浦の恒居倭人が反乱を起こした。このとき、対馬島主の宗(そう)氏は200余隻の軍船を送ってこの反乱を支援したが、朝鮮軍の反撃を受け、反乱は鎮圧された。これが三浦の乱である。この反乱のあと、対馬と朝鮮の通交はまったく断絶した。その後、対馬側の要請で1512年壬申(じんしん)約条を結び、対馬と朝鮮の通交は再開されたが、対馬の貿易船は半減され、三浦の恒居倭人もいっさい禁止され、貿易港も薺浦だけとされた。

[矢澤康祐]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「三浦の乱」の意味・わかりやすい解説

三浦の乱
さんぽのらん
Samp'o waeran; Sam-pho ǔi Nan

中宗5 (1510) 年,朝鮮の三浦 (薺浦〈せいほ〉,富山浦〈ふざんぽ〉,塩浦〈えんぽ〉) に起った日本人居留民の暴動事件。庚午の倭変ともいう。これより前,朝鮮王朝 (李朝) は海防を強化して倭寇にそなえ,懐柔や武力討伐などの倭寇壊滅策をとる一方,日本に使臣を送り倭寇禁圧を要請した。日本でも室町幕府の統制が強まり,西国の有力守護や豪族などが倭寇禁圧と倭寇に拉致された朝鮮人捕虜の送還に努力した。こうして朝鮮王朝と幕府,西国の封建領主間に交易関係が結ばれ,使節の相互往来も盛んとなった。朝鮮は薺浦 (現慶尚南道昌原郡熊川面) ,富山浦 (現慶尚南道釜山市) ,塩浦 (現慶尚南道蔚山市) に限定して日本人の貿易を許し,倭館を設けた。三浦に住む日本人は恒居倭 (こうきょわ) と呼ばれ,世宗 18 (1436) 年に 60戸の居住が許されたが,15世紀末には薺浦 347戸,2500名,富山浦 147戸,453名,塩浦 51戸,152名に達した。その人数が次第に増加するにつれて,密貿易など違反,非行者が続出した。片貿易や国庫の欠亡に苦しむ朝鮮王朝では中宗が即位すると諸政改革の一環として,日本貿易にも厳重な統制を加え,恒居倭の居住権も制限した。これに憤慨した恒居倭は,対馬からの兵船数百隻の応援を得て反乱を起したが,朝鮮の圧倒的な軍事力の前に敗退。その結果,日朝間の通交貿易関係は断絶した。2年後に壬申条約が結ばれ修交関係の復活をみたが,薺浦1港に限られ,歳遣船,歳賜米も減少し,恒居倭は認められなかった。

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百科事典マイペディア 「三浦の乱」の意味・わかりやすい解説

三浦の乱【さんぽのらん】

李朝中期の1510年朝鮮の三浦で起こった日本人暴動。朝鮮側では庚午(こうご)の倭変と呼ぶ。三浦とは乃而浦(ないじほ)(薺浦(せいほ),熊川),富山浦(釜山),塩浦(蔚山(うるさん))の3港で,1426年以降日本からの渡航船の往来は朝鮮側によってこの3港に限られ,ここに倭館が置かれた。1436年から日本人の三浦居住が認められ恒居倭人と呼ばれたが,その人数が制限数を大幅に超え,密貿易も横行したため,政治刷新を目ざす中宗が圧迫を加えたので,恒居倭人は対馬島主宗盛順(もりのぶ)の助けをたのんで三浦の役人らを殺害したが,暴動は鎮圧された。この後日朝の交渉は断絶,1512年壬申(じんしん)約条が結ばれたが日本人の三浦居住は以後禁止され,交易も乃而浦のみとされた。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「三浦の乱」の解説

三浦の乱
さんぽのらん

庚午(こうご)の変とも。1510年(永正7)朝鮮の三浦(薺浦(せいほ)〈乃而浦(ないじほ)〉・富山浦(ふざんほ)〈釜山〉・塩浦(えんぽ))で日本人のおこした争乱。15世紀末,朝鮮側の公貿易制限に対する密貿易が増加し,三浦は無法に近い状態になった。朝鮮国王中宗は,三浦を管轄する官人を刷新し,貿易の諸規定を厳守させるが,官人は三浦の恒居倭人(こうきょわじん)の実情を無視した施策をとって不満を増大させた。10年4月4日,薺浦・富山浦の恒居倭人は,対馬島主宗盛順の代官宗盛親の指揮する対馬からの援軍をえて蜂起。熊川(ゆうせん)・巨済(きょさい)島(ともに現,慶尚南道)などを攻撃して朝鮮に和平を求めるが,4月19日薺浦,6月末に安骨浦(あんこつほ)(現,慶尚南道)で朝鮮軍に大敗。この乱により,朝鮮・対馬関係は断絶し,12年の壬申約条の成立で再開。

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旺文社日本史事典 三訂版 「三浦の乱」の解説

三浦の乱
さんぽのらん

室町後期,朝鮮の三浦でおこった日本人の暴動事件
16世紀初め朝鮮の中宗が即位すると,政治刷新のため日本貿易の制限を強化し,三浦居留の日本人(恒居倭 (こうきよわ) という)を圧迫。1510年日本居留民は対馬の島主宗盛順 (もりのぶ) の応援を得て三浦を襲ったが鎮定された。この結果日本人の三浦居留は認められず,貿易は極度に制限され港も薺浦 (せいほ) 1港に限られ,日朝貿易は衰微した。

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