三浦市(読み)ミウラシ

デジタル大辞泉 「三浦市」の意味・読み・例文・類語

みうら‐し【三浦市】

三浦

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

日本歴史地名大系 「三浦市」の解説

三浦市
みうらし

面積:三一・一六平方キロ

西の相模湾と東の東京湾を分ける三浦半島の南端に位置する。半島南端にじようヶ島がある。東の金田かねだ湾を除いて海岸線は崖をなし、相模湾側の小網代こあじろ油壺あぶらつぼ諸磯もろいそなどには溺れ谷の地形がみられる。ほとんどが標高四〇―六〇メートルの海食台地で、最高部の岩堂いわど山や引橋ひきばし付近でも標高八〇メートルほどである。市域はかつて三浦郡に属し、「日本書紀」持統天皇六年五月七日条に「御浦郡」とある。古代には御浦、中世以降三浦と記される。

〔原始〕

先土器時代の水谷戸みずやと遺跡が小網代の谷奥の高台にある。縄文時代早期遺跡として大浦山おおうらやま三戸みと島台しまだい、前期遺跡として諸磯などが標式遺跡となっており、田鳥原たどりばら金堀塚かなほりづかなどにも縄文時代の遺跡が多数ある。弥生時代の遺跡は赤坂あかさか内込うちごめ才京込さいきようごめにあり、いずれも大きな集落をなしていた。弥生時代遺跡として注目されるものに海食洞穴遺跡があり、大浦山・間口まくち毘沙門びしやもんなどの洞穴遺跡から卜骨・貝包丁・骨製釣針などの漁労具などの遺物が多数発掘された。古墳時代の遺跡として埴輪を出土したむこうさき(大椿寺山)や金堀塚があり、横穴古墳群や祭祀遺跡なども多く、遺物も豊富である。

〔古代〕

「日本書紀」持統天皇六年五月七日条に「相模国司、赤烏の雛二隻を献れり。言さく、「御浦郡に獲たり」とまうす」とみえ、さらに七月二日条に「相模国司布勢朝臣色布智等・御浦郡少領姓名を闕せり。と、赤烏獲たる者鹿嶋臣樟とに、位及び禄賜ふ。御浦郡の二年の調役服す」とある。天平七年(七三五)閏一一月一〇日の相模国封戸租交易帳(正倉院文書)には、御浦郡に氷蛭ひひる郷と走水はしりみず(現横須賀市)の二郷がみえる。このうち従四位下檜前女王の食封であった氷蛭郷南下浦みなみしたうら金田かねだ蛭田ひるたの地名があり、この地域を中心としたとする説がある。「和名抄」には御浦郡に田津たづ・御浦・安慰あい・氷蛭・みさきの五郷がみえる。御郷を中心に一一世紀には三崎みさき庄が成立する。

初声はつせ和田の天養わだのてんによう院の薬師三尊は平安中期のものといわれる。また行基伝説が城ヶ島に残り、諸国遊歴の折城ヶ島で薬師如来を彫刻し、神宮寺を創設したという。現在白石しらいし町の見桃けんとう寺にある薬師如来像がこれで、神宮寺跡は今の薬師やくし山という。初声町三戸の光照みとのこうしよう寺にあるかめくり観音も古様を示す。三崎の海南かいなん神社の祭神は藤原資盈で、縁起によれば資盈は九州大宰府だざいふ(現福岡県太宰府市)にいたが、伴善男の讒言により九州を逃れて三崎に漂着したという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「三浦市」の意味・わかりやすい解説

三浦〔市〕
みうら

神奈川県南東部,三浦半島の南部を占める市。1955年南下浦町,三崎町,初声村が合体して市制。低平で開析の少ない隆起海食台地上にあり,台地先端には縄文時代の諸磯貝塚,および弥生時代の遺跡や古墳群がある。中心市街地の三崎は遠洋マグロ漁業の一大基地。台地上は三浦大根スイカキャベツなどの畑地で,京浜市場へ出荷される。三浦海岸は 1966年京浜急行電鉄久里浜線が通じ,海水浴場として脚光を浴びた。ほかに城ヶ島油壺剣崎などがあり,海岸美とヨット,釣りなどが楽しめる。諸磯の隆起海岸は国の天然記念物。三崎の海南神社に奉納される舞のチャッキラコは国の重要無形民俗文化財に指定され,2009年世界無形遺産に登録された。国道134号線が通る。面積 32.05km2。人口 4万2069(2020)。

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