三浦(読み)みうら

精選版 日本国語大辞典 「三浦」の意味・読み・例文・類語

みうら【三浦】

[一] 神奈川県南東部の地名。三浦半島南端にある。遠洋・沿岸漁業の基地の三崎港海水浴場三浦海岸、城ケ島・油壺などの観光地がある。昭和三〇年(一九五五)市制。
[二] 神奈川県、三浦半島の中西部を占める郡名。古くは御浦と書き、三浦半島のほぼ全域を占めていた。
※二十巻本和名抄(934頃)五「相模国 〈略〉御浦〈美宇良〉」

さん‐ぽ【三浦】

朝鮮の李朝の世宗の時(一四一九‐五〇)に定めた、日本と通商を行なう朝鮮の三つの港。乃而浦(ないじほ)(=現在の熊川)、富山浦(ふざんぽ)(=現在の釜山)、塩浦(えんぽ)(=現在の蔚山)の三港をいう。

みうら【三浦】

姓氏の一つ。

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デジタル大辞泉 「三浦」の意味・読み・例文・類語

みうら【三浦】[姓氏]

姓氏の一。
[補説]「三浦」姓の人物
三浦按針みうらあんじん
三浦清宏みうらきよひろ
三浦乾也みうらけんや
三浦梧楼みうらごろう
三浦朱門みうらしゅもん
三浦みうらしをん
三浦環みうらたまき
三浦樗良みうらちょら
三浦哲郎みうらてつお
三浦梅園みうらばいえん
三浦周行みうらひろゆき
三浦泰村みうらやすむら
三浦雄一郎みうらゆういちろう
三浦義明みうらよしあき
三浦義澄みうらよしずみ
三浦義村みうらよしむら

みうら【三浦】[地名]

神奈川県三浦半島南端の市。中心の三崎は大規模な漁港。城ヶ島油壺など観光地が多い。人口4.8万(2010)。

さん‐ぽ【三浦】

李氏朝鮮、世宗の時(1418~1450)に定められた日本との通商港、乃而浦ないじほ(現在の熊川)・富山浦(現在の釜山)・塩浦(現在の蔚山)の3港。

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日本歴史地名大系 「三浦」の解説

三浦
みうら

城の北側、城下北東端瀬戸内海に面した御供所ごぶしよ北平山きたひらやま・西平山の三町をいう。東西の細長い通りに沿って形成され、東端は御供所町が東汐入ひがししおいり川と、西端は西平山町が西汐入川と接した。慶長六年(一六〇一)の生駒氏の丸亀城築城の際、鵜足うた土居どい村および那珂なか柞原くばら郷に属した当地に、宇多津うたづ平山ひらやま(現綾歌郡宇多津町)と御供所村(現坂出市)の浦人を水夫として移住させ町が成立した。「西讃府志」は寛永一七年(一六四〇)聖通しようつう(現宇多津町)願書文中の「鵜足郡宇多津同三浦之内聖通寺」という記述から、三浦の呼び名がもとからあったとする説をとる。

当初から加子浦として二八〇軒、年間五千四〇人分の加子役が課せられた。

三浦
みうら

[現在地名]紀伊長島町三浦

道瀬どうぜ浦の南西にあって、三浦峠を境とする。東は海に面し出崎に囲まれ、北より豊浦といら・三浦・玉津たまつの三浜がある。豊浦・玉津は現在無住である。「北牟婁郡地誌」に「古老ノ口碑ニ曰ク、本浦古昔玉津浦・中野浦・豊浦ノ三部落ナリシカ、村民漸ク中野浦ニ移住シ、終ニ三ケ浦ヲ併セテ三浦ト名ツケシナリ」とある。島七郷のうちで、伊勢神宮領として木本このもと御厨(現海山町)荘司の支配を受けた。貞和二年(一三四六)四月二〇日の荘司文書(荘司都盛氏旧蔵)に「尾鷲の浦の三浦のくぼの豊浦左衛門次郎との」とみえる。

慶長六年(一六〇一)検地帳(徳川林政史蔵)に「ミうら村」と記される。

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改訂新版 世界大百科事典 「三浦」の意味・わかりやすい解説

三浦[市] (みうら)

神奈川県南東部,三浦半島先端部の市。1955年三崎町を中心に市制。人口4万8352(2010)。遠洋漁業基地三崎港をもつことで知られる。三崎港は東京湾口の浦賀水道に臨み,江戸時代は風待港,避難港であった。漁港としても早くから利用されたが,遠洋漁業基地となったのは大正後期の動力船の時代からである。昭和初期には岸壁,魚市場などが整備され,京浜の大市場をもつことからマグロはえなわ漁業基地として東日本随一の漁港となった。第2次大戦後,出漁する漁場は拡大されたが,陸上交通路の不備などのため,水揚高は伸びなやんでいる。三崎港背後の台地は三浦ダイコンの産地として知られたが,いまはスイカ,キャベツの生産で知られる。三崎港の南には城ヶ島大橋で結ばれる城ヶ島があり,相模湾岸にはヨットハーバーやマリンパークのある油壺の入江がある。京浜急行線が1966年には三浦海岸駅まで延長され,75年には三崎口駅まで通じて,京浜への通勤圏内に入ったため,住宅地化も急速に進んでいる。
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山川 日本史小辞典 改訂新版 「三浦」の解説

三浦
さんぽ

李氏朝鮮の前期に日本船の来航を許可した三つの港。慶尚道南岸の薺浦(せいほ)(乃而浦(ないじほ))・富山浦(ふざんほ)(釜山)・塩浦(えんぽ)の3港。15世紀初頭,興利船(こうりせん)の入港地を薺浦・富山浦の2港に限定,1423年(応永30)には使送船の出入りも2港に制限された。対馬からの浦所の増設要求に対して,26年に塩浦を開港。各浦に倭館(わかん)が設置され,対馬島民を中心とする恒居倭人が居住し,対馬からの代官による徴税・検察が行われた。密貿易の舞台にもなり,港湾都市として発達した。「海東諸国紀」は74年(文明6)当時の各浦の地図を収めている。1510年(永正7)の三浦の乱後,12年の壬申(じんしん)約条により薺浦1港のみ,ついで富山浦を開港したが,47年(天文16)以降は富山浦のみとなる。

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旺文社日本史事典 三訂版 「三浦」の解説

三浦
さんぽ

室町時代,朝鮮で日本船の入港を指定した,薺浦 (せいほ) (乃而浦 (ないじほ) )・富山浦 (ふざんぽ) ・塩浦 (えんぽ) の3港
15世紀初めから16世紀初めまで続いた。李朝では倭寇をしずめるために,日本人の来航者を優遇し,自由に貿易が行われていたが,1426年この三浦に限定し,送使船接待のための倭館が常設され,居留する日本人も多かった。しかし1510年三浦の乱によって薺浦1港に限られるようになった。

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世界大百科事典(旧版)内の三浦の言及

【世宗】より

…また高麗時代に勢力をもった仏教を統制して禅・教2宗に統合する一方,儒学をすすめ,《治平要覧》《五礼儀》《三綱行実》などを編纂させた。対外政策も積極的に進め,豆満江,鴨緑江まで領土を拡大して南部地方の住民を移住させ,さらに倭寇の本拠地を壊滅させるべく対馬を攻撃(応永の外寇)したが,のちに三浦(さんぽ)(乃而(ないじ)浦,富山浦,塩浦)を開港し,対馬島主宗氏を介して日本との勘合貿易を開始した。【吉田 光男】。…

【日朝貿易】より

…日本からの渡航者は,はじめ南沿岸の浦所に随時停泊して交易を行うことを許されていたが,これもやがて朝鮮側が開港場を指定し,そこに応接所兼交易所(倭館)を設けて,他港への出入りを禁じた。開港場は,富山浦,薺浦(せいほ),塩浦の3ヵ所で,これを三浦(さんぽ)と称する。ところが1510年(永正7)ここの日本人定住者による暴動事件(三浦の乱)が起こり,日朝貿易は一時的に断絶した。…

【李朝】より

…また,投降する倭寇(投化倭人)には朝鮮内に土地・家財を与えて安住させ,通商を求める西日本の諸大名・豪族層(使送倭人)や商人(興利倭人)には富山浦(釜山),薺浦(せいほ)(乃而浦(ないじほ)。熊川),塩浦(蔚山(うるさん))の三浦(さんぽ)を開港して貿易を認めた。その結果,倭寇は急速に減少し,1404年には日本国王(足利将軍)と朝鮮国王との対等な善隣関係として日朝間の国交が開かれた。…

※「三浦」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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