出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
落語家。
(1777―1833)もと江戸・馬喰町(ばくろちょう)の櫛(くし)工で、素人(しろうと)落語家として山生亭花楽と名のり、友人と開いた寄席(よせ)興行に失敗。職業落語家になって三笑亭可楽と改名し、三題噺(さんだいばなし)で人気を得た。寄席興行の基を開き、多数の門弟を育成した。『山(さん)しょ味噌(みそ)』『東都真衛(えどまえ)』など十数部の噺本を残した。以後、2代(?―1847)は初代門人芝楽(しばらく)が初代翁家(おきなや)さん馬から、3代(?―1857)は2代さん馬が、4代(?―1869)は5代さん馬が、5代(生没年不詳)は4代門人が芝楽から、そして6代(?―1924)はさん馬から、それぞれ襲名した。
[関山和夫]
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
…落語家が聴客に物品,地名,事件,人物などの中から任意に三つの題を出させて一席の落語をつくり,そのうち一題は〈落ち〉に用いなければいけないとされる。1804年(文化1),初代三笑亭可楽が江戸下谷の広徳寺門前,孔雀茶屋で〈弁慶,辻君(つじぎみ),狐〉の3題を得て一席の落語にまとめたのに始まる。文久年間(1861‐64)には大いに流行し,多くの愛好家グループが生まれた。…
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[江戸の寄席]
寄席は,江戸時代の初めごろに,寺社の境内などで葭簀(よしず)張りの辻咄(つじばなし)や講釈を行ったものがあり,天和・貞享(1681‐88)のころには,江戸落語の祖といわれる鹿野(しかの)武左衛門(1649‐99)が,江戸の中橋広小路で葭簀張りの小屋掛けで興行をしているし,また安永・天明(1772‐89)のころから噺家(はなしか)の自宅や寺院,茶屋の座敷などで〈咄(はなし)の会〉を興行するものもあったが,現在の寄席のような形ができたのは,1798年(寛政10)6月に大坂から江戸に来た岡本万作が,神田豊島町藁店(わらだな)に〈頓作軽口噺(とんさくかるくちばなし)〉という看板を掲げ常設の寄席を作ったのが最初である。これに対抗して意欲を燃やしたのが初代三笑亭可楽(さんしようていからく)(1777‐1832)であり,彼は下谷柳町の稲荷神社の境内に寄席を開いた。のちに可楽は本格的な寄席興行の基礎を作り,多数のすぐれた寄席芸人を育成した。…
…江戸の寄席興行創始者は,大坂下りの落語家岡本万作で,1791年(寛政3)日本橋橘町の駕籠(かご)屋の二階で夜興行をし,98年,神田豊島町藁店(わらだな)に看板を掲げ,辻々にビラを貼って客を招いた。同年,江戸で山生亭花楽(さんしようていからく)(のち初代三笑亭可楽)が下谷(したや)稲荷社で,大坂では初代桂文治が座摩(ざま)社内で寄席興行を開催した。三笑亭可楽は,職業的落語家の祖として重要な存在だが,前記の寄席興行に失敗して芸道修業の旅ののち,1800年(寛政12),江戸柳橋で落語会を開き,04年(文化1),下谷広徳寺門前の孔雀(くじやく)茶屋で,客が出した〈弁慶,辻君,狐〉の三題を即座に一席の落語にまとめたことから人気を得た。…
※「三笑亭可楽」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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