上杉憲実(読み)ウエスギノリザネ

デジタル大辞泉 「上杉憲実」の意味・読み・例文・類語

うえすぎ‐のりざね〔うへすぎ‐〕【上杉憲実】

[1410~1466]室町中期の武将関東管領。将軍足利義教あしかがよしのりと鎌倉公方足利持氏の調停に努力したが、持氏と不和となった。永享の乱で持氏が死んだのち伊豆の国清寺で出家、諸国を行脚した。学芸を好み、足利学校を再興。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「上杉憲実」の意味・読み・例文・類語

うえすぎ‐のりざね【上杉憲実】

室町中期の武将。房方の子。山内上杉憲基の養子。字は高岩。関東管領として幕府と足利持氏との間の調停に努めたが、持氏が討たれてのち、出家し諸国を行脚した。学芸を好み、足利学校を再興。応永一七~文正元年(一四一〇‐六六

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「上杉憲実」の意味・わかりやすい解説

上杉憲実 (うえすぎのりざね)
生没年:1411-66(応永18-文正1)

室町前期の武将。越後上杉房方の子。山内上杉憲基の養子となる。1419年(応永26)憲基の跡を受けて関東管領となった。上杉禅秀の乱以後,鎌倉公方(くぼう)足利持氏が幕府からの自立と公方権力の専制化をはかったのに対して,憲実は幕府との協調と妥協を主張したので,両者の間でしばし対立が生じた。とくに36年(永享8)持氏が信濃内紛に介入しようとしたことに憲実が反対したこと,また38年持氏が慣例を無視して子義久の元服式を鶴岡八幡宮で強行したことなどで,両者の対立は深まった。その直後に憲実が守護分国上野に帰ったのに対し,持氏はその追討の軍を進めた。将軍義教はこの機をとらえて憲実援助のために駿河の今川氏らの軍勢を関東に遣わし,各所で持氏の軍勢を破り,鎌倉を占領した。敗れた持氏は,剃髪し謹慎した。憲実は,将軍義教に持氏の助命を哀願したが,聞き入れられず,持氏は自害せしめられた。憲実は以後出家して長棟と称し,伊豆国清寺に隠退したが,永享の乱後の関東に隠然たる影響力を持ちつづけた。その後,関東を離れて諸国を巡歴し,長門深川の大寧寺に入って看経行道の日々を送り,同地で没した。憲実は,関東管領在職中下野の足利学校の再興につとめ,漢籍等の寄付を行いその学問の復興に尽くした。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

百科事典マイペディア 「上杉憲実」の意味・わかりやすい解説

上杉憲実【うえすぎのりざね】

室町時代関東管領。越後(えちご)上杉房方(ふさかた)の子。上野(こうずけ)の守護。越後上杉家から養子に入り,山内(やまのうち)上杉家を継ぐ。永享の乱には幕命に従って主君鎌倉公方足利持氏を滅ぼした。後しばらく関東の執政に当たったがまもなく出家し,諸国行脚(あんぎゃ)の末西国で没した。学問を好み,足利学校を再興した。
→関連項目上杉氏結城合戦

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

朝日日本歴史人物事典 「上杉憲実」の解説

上杉憲実

没年:文正1.閏2.6(1466.3.22)
生年:応永17(1410)
室町時代の武将。関東管領。四郎,安房守。越後守護上杉房方の子で,山内上杉憲基の跡を継ぎ10歳の若年で関東管領となる。当時鎌倉公方足利持氏は,室町幕府からの独立の姿勢を強め関東の反対派の掃討を進めていたが,憲実はこれに従いつつも幕府と通じ,持氏の独走を牽制する役割を果たした。しかし結局持氏に疎んぜられ,永享10(1438)年,持氏の攻撃を避けて上野に退去し,直ちに派遣された幕府の救援軍と呼応して逆に鎌倉に迫り,ついに持氏を降伏させた。しかし将軍足利義教は憲実の嘆願を容れずに翌11年に持氏を自殺させ,憲実は主人を死に追い込んだ悔悟の念から出家して伊豆に隠退した。同12年に結城合戦が起きると一時復帰して下野小山の陣まで進んだが,その後また隠退を望み,幕府の命令も拒んで再び伊豆に入り,さらに周防に赴き長門大寧寺で死去した。幕府の絶大な信任を得,関東の武士からも信頼された人物でありながら,関東の政治の中心に立つことを拒み続け,流浪の人生を選んだその個性と行動は極めて特異である。儒教や易に通じ,鎌倉円覚寺の快元を招いて下野の足利学校を再興したことは有名である。<参考文献>『神奈川県史』通史編1巻

(山田邦明)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「上杉憲実」の意味・わかりやすい解説

上杉憲実
うえすぎのりざね

[生]応永18(1411)
[没]文正1(1466).閏2. 長門
室町時代の武将。越後上杉房方の3男。幼名は孔雀丸,のち四郎。号は高岩長棟雲洞庵主。山内上杉憲基の養子となって山内上杉家を継ぎ,安房守を称する。応永 26 (1419) 年関東管領として足利持氏の執事となり,上野,伊豆,越後を領した。永享8 (36) 年持氏が信濃守護小笠原政康を討とうとしたが,これを諫止したことや,さらに同 10年持氏の嫡子賢王丸の元服問題で対立するなど,持氏との関係が悪化して上野国に帰った。持氏は憲実追討の兵を起したが,持氏討伐を企てた将軍足利義教に攻められ,永享の乱となった。憲実も京軍に加わり武蔵分倍河原に出陣。同 11年持氏敗死ののち,一時関東の政務をとったが,家督を弟清方に譲り,宝徳1 (49) 年伊豆の国清寺で出家,諸国行脚の旅に出た。のち大内氏を頼り,長門大寧寺に住んだ。また鎌倉在住の頃,所領下野の足利学校を再興し,書籍を集め学徒を養成している。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「上杉憲実」の意味・わかりやすい解説

上杉憲実
うえすぎのりざね
(1410―1466)

室町中期の武将。関東管領(かんれい)。越後(えちご)守護上杉房方(ふさかた)の子。山内上杉憲基(やまのうちうえすぎのりもと)の養子となる。1419年(応永26)伊豆、上野(こうずけ)守護に補任(ぶにん)され、関東管領に就任した。4代将軍足利義持(あしかがよしもち)の死(1428)後、次期将軍を期待していた関東公方(くぼう)足利持氏(もちうじ)が、将軍の後継者となった義教(よしのり)を攻めんとしたとき、憲実はこれを諫止(かんし)した。以後幕府に反抗し続ける持氏をつねに諫(いさ)め、やがて持氏と憲実の間は不穏なものとなった。38年(永享10)持氏による憲実討伐の風聞に、憲実は領国上野へ出奔、幕府の命を受けて翌年持氏を自殺させた。やがて出家し(永享(えいきょう)12年3月以前)伊豆国清寺に籠居(ろうきょ)したが、幕命により俗界に復帰し、一時関東の政務をみた。その後鎌倉を去り諸国行脚(あんぎゃ)ののち、長門(ながと)(山口県)大寧寺(たいねいじ)で文正(ぶんしょう)元年閏(うるう)2月に没した。下野(しもつけ)(栃木県)の足利学校を再興している。

[田辺久子]


出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

山川 日本史小辞典 改訂新版 「上杉憲実」の解説

上杉憲実
うえすぎのりざね

1410~66.閏2.-

室町中期の武将。房方の子。山内上杉憲基の養子。関東管領,伊豆・上野両国守護。1419年(応永26)関東管領となる。鎌倉公方足利持氏(もちうじ)は幕府を敵視し,両者の関係はつねに緊張状態にあったが,憲実は持氏を諫め関係改善に努めた。しかし持氏との関係はしだいに険悪となった。38年(永享10)鎌倉から管国上野に退去,ついで幕府の命令に従って持氏を攻め,翌年鎌倉で自殺させた(永享の乱)。これを罪悪として出家・隠退したが,のち政治に復帰し結城合戦の処理などにあたった。この間,鎌倉円覚寺の僧快元(かいげん)を招いて足利学校を再建し,これを保護した。49年(宝徳元)以後諸国を流浪し,晩年は大内氏に保護されて長門大寧寺(現,山口県長門市)に住した。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「上杉憲実」の解説

上杉憲実 うえすぎ-のりざね

1410-1466 室町時代の武将。
応永17年生まれ。父は越後(えちご)守護上杉房方。山内上杉憲基の養子となり,応永26年関東管領をつぐ。将軍足利義教と鎌倉公方(くぼう)足利持氏との融和をはかる。やがて公方と対立。永享10年幕府連合軍と持氏をほろぼす(永享の乱)。のち出家し諸国をめぐり,長門(ながと)(山口県)大寧寺で文正(ぶんしょう)元年閏(うるう)2月6日没した。57歳。下野(しもつけ)(栃木県)の足利学校を再興したことで知られる。法号は高巌長棟。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

旺文社日本史事典 三訂版 「上杉憲実」の解説

上杉憲実
うえすぎのりざね

1410〜66
室町中期の武将。関東管領
1438年,鎌倉公方足利持氏と不和になり上野 (こうずけ) (群馬県)に退去。持氏はこれを討とうとしたが,将軍足利義教 (よしのり) が憲実を応援したため,'39年持氏は敗れて自殺した(永享の乱)。'49年出家引退し,晩年は大内氏を頼って周防 (すおう) に住んだ。好学の人で,下野 (しもつけ) (栃木県)の足利学校を再興したことで有名。

出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報

世界大百科事典(旧版)内の上杉憲実の言及

【永享の乱】より

…1438年(永享10)8月から翌年2月にかけて,鎌倉公方足利持氏と関東管領上杉憲実,憲実を援護する将軍義教との間の抗争に端を発した東国の内乱。幕府と鎌倉府の関係は両府の成立以来必ずしも良好といえるものではなかった。…

【鎌倉公方】より

…持氏は,義持の猶子の扱いを受けて将軍職に望みをかけていたといわれ,それゆえか義教の将軍就任を喜ばず,京都の改元に従わず旧年号を襲用したり,将軍の保持する鎌倉五山住持の任命権を無視して,勝手に住持を任命したり,また足利荘などの幕府の御料所を押領するなどの行動をとった。この段階の対立は,32年(永享4)にともかくも京・鎌倉間の無事を願う管領斯波義淳・前管領畠山満家と関東管領上杉憲実という双方の管領の努力によって一時的な解消をみた。しかし,その後も将軍義教は,周囲の反対を押し切って駿河に下り富士遊覧を決行するなど持氏に威圧を加え続けた。…

【下野国】より

…上杉禅秀の乱に勝利した足利持氏は,宇都宮,那須など将軍に直結した京都扶持衆といわれる北関東の国人層の弾圧に乗り出し,京都の改元にも従わず,幕府の直轄領足利荘を押領するなど,専制権力の確立につとめた。穏健派の関東管領上杉憲実は持氏と不和になり,38年(永享10)永享の乱が勃発した。上杉=幕府方の下野武士は小山持政や小野寺通朝らで,持氏側には那須資重や長沼,茂木の各氏が味方した。…

【図書館】より

…旧金沢文庫所蔵本には国宝,重要文化財に指定された貴重書も少なくない。足利学校は,関東管領上杉憲実(のりざね)が15世紀半ばに一門の子弟のための教育機関として再興したもの。初代の庠主(しようしゆ)(校長)快元は易学の大家で,教育内容は儒学中心であったが,とりわけ周易を重んじ,部将たちに卜筮(ぼくぜい)をもって仕える者を養成したといわれる。…

【平井城】より

…平井は伊勢皇太神宮領高山御厨の内にあり,室町時代には関東管領で上野守護の山内上杉氏の拠点となった。築城の時点は明らかでないが,15世紀前半の永享の乱上杉憲実はここに拠っており,このころには城が築かれていたことが想定される。15世紀中葉の享徳の乱において,古河公方足利成氏と下総,下野の勢力に対抗するために,上杉方の本城として平井城の縄張りが著しく拡張されたと思われる。…

※「上杉憲実」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android