上杉顕定(読み)うえすぎ・あきさだ

朝日日本歴史人物事典 「上杉顕定」の解説

上杉顕定

没年:永正7.6.20(1510.7.25)
生年享徳3(1454)
戦国時代の武将山内上杉氏の当主関東管領。通称四郎。法名可諄。越後(新潟県)守護上杉房定の次男。文正1(1466)年に関東管領上杉房顕が病死すると,越後から迎えられて山内上杉氏の当主となり,関東管領も務める。当初は武蔵五十子に在陣して古河公方足利成氏の軍と対峙。文明8(1476)年に家臣長尾景春反乱を起こすと一時敗れて五十子から逃亡するが,まもなく同地を回復して攻勢に転じ,同10年には成氏と講和し,景春の居城の武蔵鉢形城(埼玉県大里郡)を落としてここに入り,反乱を鎮圧した。こうして長年の内乱が終わると,顕定は鉢形を拠点として関東の政治を主導した。しかし自立の動きを強めた扇谷上杉氏(定正)と対立し,長享1(1487)年には山内・扇谷両上杉氏の戦闘が開始され,関東は再び内乱に突入した。顕定は実家の越後上杉氏の協力を得て次第に扇谷方を圧倒し,永正2(1505)年には勝利を収めた。同7年,越後で長尾為景と戦い敗死。13歳で関東に入ってから40年余の間,慢性的戦乱状況のなか,上杉氏の中心として秩序維持に努めた力量は評価されるべきであろう。

(山田邦明)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「上杉顕定」の意味・わかりやすい解説

上杉顕定
うえすぎあきさだ
(1454―1510)

室町後期の武将。享徳(きょうとく)3年越後(えちご)守護上杉房定の次男として生まれる。1466年(文正1)関東管領(かんれい)の山内(やまのうち)上杉房顕が古河公方(こがくぼう)足利成氏(あしかがしげうじ)と武蔵(むさし)の五十子(いかつこ)(埼玉県本庄(ほんじょう)市)で対陣中に病没したのち、幕府の命により房顕の遺跡を継ぎ、関東管領となって対古河公方抗争の中心人物となる。執事長尾(ながお)景信の死後、その子景春を差し置いて弟の忠景(ただかげ)を執事に起用したため景春に背かれたが、やがて成氏と和を結び、幕府と成氏との和睦にも発展した。のち扇谷(おうぎがやつ)上杉定正と争い、また伊勢宗瑞(いせそうずい)(北条早雲(そううん))をも敵としたが、定正の死後しばらくして扇谷上杉氏と和した。しかし、まもなく実弟房能(ふさよし)が長尾為景に攻め殺されたため、憲房とともに越後で為景と戦ったが、永正(えいしょう)7年6月20日同国長森原で敗死した。法名海竜寺可淳皓峯。

[佐脇栄智]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「上杉顕定」の解説

上杉顕定 うえすぎ-あきさだ

1454-1510 室町-戦国時代の武将。
享徳3年生まれ。上杉房定の次男。上杉房顕の養子。山内上杉家をつぎ関東管領となり,上野(こうずけ)(群馬県)平井城を本拠に古河公方(こがくぼう)足利成氏(しげうじ)とたたかう。家臣長尾景春の反乱も,文明10年成氏と和睦し鎮圧。のち扇谷(おうぎがやつ)上杉定正とあらそう。永正(えいしょう)6年弟の房能(ふさよし)が長尾為景に殺されたため越後(えちご)に出兵,7年6月20日敗死した。57歳。通称は四郎。

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