上総秀胤(読み)かずさ・ひでたね

朝日日本歴史人物事典 「上総秀胤」の解説

上総秀胤

没年:宝治1.6.7(1247.7.10)
生年:生年不詳
鎌倉中期の武士。常秀の子。寛元1(1243)年に従五位上となり,翌年に鎌倉幕府評定衆に任じられて幕政に参加する。将軍藤原頼経に仕えて,4年の執権北条時頼による頼経勢力排除の事件(宮騒動)では後藤基綱,三善康持らと共に評定衆を除かれたうえ,上総国(千葉県)に追放された。その翌宝治1(1247)年6月の宝治合戦で三浦泰村が北条時頼に攻撃されると,泰村の娘婿となっていた秀胤は上総一宮大柳の館を攻撃されて滅ぼされた。その所領下総国の埴生荘は没収されて足利泰氏や金沢実時らに与えられた。

(五味文彦)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「上総秀胤」の解説

上総秀胤 かずさ-ひでたね

千葉秀胤(ちば-ひでたね)

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android