新撰 芸能人物事典 明治~平成 「上 真行」の解説
上 真行
ウエ サネミチ
- 職業
- 雅楽師 チェロ奏者 漢詩人
- 肩書
- 宮内省式部職楽部楽長
- 旧名・旧姓
- 上 真裕(ウエ サネミチ)
- 別名
- 雅号=上 夢香(ウエ ムコウ),善愁人
- 生年月日
- 嘉永4年 7月2日
- 出生地
- 京都府
- 経歴
- 雅楽を専業とする南都方の楽人の家に生まれ、4歳で雅楽の唱歌の手ほどきを受ける。11歳で仕官し、宮中の楽事に奉仕。明治3年宮内省雅楽局の設置に伴い、その伶員となる。7年式部寮伶人。同年洋楽の伝習を命ぜられ、フェントンの下で吹奏楽を学び、テナー・トロンボーンを担当。9年には宮中の天長節宴会における初の欧洲楽演奏にも参加した。10年東京女子師範学校附属幼稚園の委嘱により、「寒夜」「神之道」「雪降」などの保育唱歌を作曲。12年芝葛鎮や小篠秀一らが設立した西洋管絃楽協会(洋楽協会)の幹事となり、エッケルト、メーソンに師事し、はじめバイオリン、次いで日本ではじめてチェロを習得した。13年音楽取調掛に第1回伝習生徒として入学し、メーソンからピアノや唱歌、和声を教わった。14年文部省御用掛兼勤。同年宮中における初めての管弦楽演奏ではチェロ奏者として「富士山」「蛍の光」などを披露した。またメーソンを助けて東京師範学校や東京女子師範学校、学習院に出講した他、音律研究や唱歌集の選曲・編纂にも携わった。19年には奥好義、鳥居忱らと神田猿楽町に唱歌会を興し、民間の唱歌教育にも力を注いだ。同年より23年まで高等女学校教授嘱託。22年東京音楽学校(東京芸術大学)教諭を経て、23年同教授となり、唱歌や和声、音楽教授法を担当。28年に退官したのちも引き続き教務嘱託として和声などを教えた。この間、同校内に作曲攻究会を設置し、小山作之助、幸田延、安藤幸、滝廉太郎らを育てた。一方で唱歌や軍歌などの作曲も進めており、中でも26年に祝日大祭日唱歌の一曲として官報公示された「一月一日」(詞・千家尊福)は、正月の定番曲として今なお歌い継がれている。31年市歌の嚆矢といわれる京都市歌「京都(愛郷歌)」(詞・黒川真頼)を作曲。33年には大和田建樹の作歌で「鉄道唱歌」が作られ、歌い手が好きな方の旋律で歌えるようにとの配慮から、多梅稚との競作という形でこれに曲を付けたが、現在では多の曲の方が定着している。44年東京音楽学校邦楽調査掛調査嘱託。そのほか教員検定委員や音楽教科書の編纂委員、小学校唱歌作曲委員なども歴任し、初期の音楽教育に貢献した。大正6年宮内省楽部楽長に就任。9年には正倉院収蔵の楽器の調査研究にも従事した。夢香と号して書家・漢詩人としても活躍、「花月新誌」「桂林一枝」などに投詩し、「万朝報」の漢詩欄の選者も務めた。他の作品に「将棋の盤」「日本男子」「あすは千里」「自然の友」「国民」「亜細亜の海」「旅の四季」「富士唱歌」「決死隊」「日本海海戦 対馬の沖」「よき友」などがある。
- 没年月日
- 昭和12年 2月28日 (1937年)
出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報