下田(読み)げでん

精選版 日本国語大辞典 「下田」の意味・読み・例文・類語

げ‐でん【下田】

〘名〙 地味のやせた下等の田地。痩田。→上田中田
続日本紀‐延暦一〇年(791)五月戊子「国郡司、及殷富百姓、或以下田易上田」 〔呂氏春秋‐上農〕

しもだ【下田】

静岡県伊豆半島の南東部の地名。半島第一の良港として古くから繁栄。元和二年(一六一六)以後、幕府の直轄地となり、下田奉行船改番所が置かれた。安政元年(一八五四日米和親条約締結によって開港場となり、アメリカ合衆国領事館が置かれ、下田条約の締結地となった。史跡に富む観光地。昭和四六年(一九七一)市制。

しもだ【下田】

(「しもた」とも) 姓氏の一つ。

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デジタル大辞泉 「下田」の意味・読み・例文・類語

しもだ【下田】

静岡県、伊豆半島の南東端にある市。近世以後、東西交通の要港。安政元年(1854)日米和親条約によって開港され、同6年横浜開港までアメリカ総領事館が置かれた。現在は観光都市。人口2.5万(2010)。

げ‐でん【下田】

地味がやせていて収穫の上がらない田地。⇔上田じょうでん

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改訂新版 世界大百科事典 「下田」の意味・わかりやすい解説

下田[市] (しもだ)

静岡県,伊豆半島南東部にある市。1971年市制。人口2万5013(2010)。下田の地名の由来は,本郷(旧稲生沢(いのうざわ))に対して下手の海辺にあたり,〈低田〉の意味から〈下田〉になったといわれる。稲生沢川河口の下田港は江戸と大坂を結ぶ航路の要衝にあり,廻船の風待港,避難港として重視され,江戸時代には下田奉行所が置かれた。1854年(安政1)日米和親条約の締結によって開港場となり,59年の閉鎖まで下田は日本外交の中心となった。また周辺は江戸城の築城に用いられた伊豆石の産地で,幕末には品川の台場の築造に使われるなど大正期まで下田の主要産業であった。1961年伊東~下田間の伊豆急行の開通により南伊豆の観光基地として大きく発展した。現在は観光と結びついた商業・サービス業などの従業者が就業人口の約7割を占める。大旅館は下田,蓮台寺,柿崎に,民宿は白浜,須崎,田牛(とうじ)に多い。市内各地区の温泉旅館に湯を供給する蓮台寺温泉は泉温54℃の単純泉で,源泉数は河内地区も含め55である。水産業は沿岸・沖合漁業でサバなどの水揚げが多く,農業はミカン,花卉などが中心である。《延喜式》の名神大社伊古奈比咩命(いこなひめのみこと)(白浜)神社,下田条約締結の舞台となった了仙寺(史),長楽寺,アメリカ総領事館が置かれた玉泉寺(史),唐人お吉の墓がある宝福寺など史跡が多い。
執筆者:

江戸~大坂間の海上交通の要地として発展した。地名の初出は1399年(応永6)。戦国期は後北条氏の支配下にあり,1588年(天正16)豊臣秀吉の進攻に備え築城された。90年後北条氏滅亡,徳川家康関東入部により戸田忠次の知行となった。1616年(元和2)下田奉行が置かれ,海の関所として栄えるが,1720年(享保5)浦賀に移されたため,飢人2000人余を出すなど衰微した。一方海防の急が叫ばれるに従い脚光を浴び,開国にともない,1854年開港場となり,アメリカ領事館の設置,下田条約の締結など欧米諸国との外交交渉の地となった。これも横浜開港により鎖港。下田町は18ヵ町からなり,1760年(宝暦10)には高279石余,家数805,人別2895。1837年(天保8)は家数831,人別3485であった。
執筆者:

下田[温泉] (しもだ)

熊本県天草市,天草下島西海岸にある温泉。建武年間(1334-38),下津深江(しもつふかえ)川でシラサギが傷をいやしているのを見て発見したという伝承から,白鷺(しらさぎ)温泉ともよばれる。泉質は重曹を含む弱食塩泉,泉温40~52℃。天草市の旧本渡(ほんど)市および苓北(れいほく)町富岡からバスが通じている。一帯は雲仙天草国立公園に属し,妙見浦,十三仏崎,天草海中公園などの景勝地がある。
執筆者:

下田(青森) (しもだ)

下田 (しただ)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「下田」の意味・わかりやすい解説

下田
しただ

新潟県中部,魚沼丘陵北部から越後山脈にある三条市南部の旧村域。 1955年長沢村,森町村,鹿峠村の3村が合体して下田村が発足。 2005年三条市,町と合体して三条市となった。信濃川支流五十嵐川沿岸にあり,かつては三条の鍛冶炭の産地であった。おもに米作,畜産,野菜・山菜栽培を行ない,県立畜産試験場がある。笠堀には国の天然記念物であるカモシカ生息地があるほか,県営発電ダムがある。守門川沿いに越後長野温泉がある。一部は越後三山只見国定公園奥早出粟守門県立自然公園に属する。

下田
しもだ

青森県南東部,おいらせ町西部の旧町域。三本木原の南東部に位置する。 1969年町制。 2006年百石町と合体して,おいらせ町となった。南部に奥入瀬川が東に流れ,その流域には水田地帯が開けている。米作,ナタネ,ジャガイモの栽培のほか,養豚も行なわれている。北部では農業,八戸市に隣接する南東部では工業の振興がはかられている。

下田
しもだ

高知県南西部,四万十川河口部左岸に位置する四万十市の集落。 1954年に近隣町村と合体して中村市となるまでの旧町域。中世末期以来,中心集落の中村および四万十川流域の外港として発達。上流の江川崎まで船便があったが,陸運が発達し土砂堆積で河口が浅くなり,港としての機能は弱まった。

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旺文社日本史事典 三訂版 「下田」の解説

下田
しもだ

静岡県,伊豆半島南端にある良港
1616年以後江戸幕府の直轄地,下田奉行が置かれた。菱垣・樽両廻船はもとより東廻り航路の船も入港,風待ちをして江戸へ向かった。1854年日米和親条約により開港。'56年ハリスが玉泉寺に総領事館を開設した。安政条約により港を閉鎖した。1971年市制施行。

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世界大百科事典(旧版)内の下田の言及

【石盛】より

…斗代の決定は,田畑の優劣によって上,中,下,下々などに位付けし,上田と見立てた場所2~3ヵ所で1坪(約3.3m2)ごとの坪刈りをし,もし坪当り平均籾1升(約1.8l)があれば1反(約991.7m2)で3石(約541.2l)あり,それを五分摺りすれば玄米1石5斗を得るから,1斗(約18l)の15倍ということで〈15の盛〉または〈1石5斗代〉といった。中田以下は二つ下りで中田は13,下田は11,下々田は9,畑は上畑が12,以下二つ下り,屋敷地は12の盛とするのが普通であった。太閤検地段階ではまだ斗代はかなり多様で,1594年(文禄3)の島津分国検地では,同じ上田でも1石6斗代から1石代まで村によって4段階の差があり,屋敷地も1石3斗代と1石代との2種があった。…

【四万十川】より

…高知県高岡郡東津野村北部の不入(いらず)山(1336m)の東斜面に源流部をもち,中村市下田で土佐湾に注ぐ川。幹川流路延長196km,全流域面積2270km2。…

※「下田」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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