中先代の乱(読み)ナカセンダイノラン

デジタル大辞泉 「中先代の乱」の意味・読み・例文・類語

なかせんだい‐の‐らん【中先代の乱】

建武2年(1335)北条時行鎌倉幕府再興を図って起こした反乱。鎌倉を征圧した20日後に足利尊氏に滅ぼされた。二十日先代の乱。

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精選版 日本国語大辞典 「中先代の乱」の意味・読み・例文・類語

なかせんだい【中先代】 の 乱(らん)

建武二年(一三三五)、北条時行が鎌倉幕府の復活をはかって起こした反乱。七月に挙兵し、足利直義を破ったが、八月東上した足利尊氏の軍に敗北した。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「中先代の乱」の意味・わかりやすい解説

中先代の乱
なかせんだいのらん

1335年(建武2)、北条高時(たかとき)の遺児時行(ときゆき)が鎌倉幕府再興を企図し、建武(けんむ)政府に対して起こした乱。鎌倉時代の北条氏を「先代(せんだい)」、室町幕府足利氏を「当代(とうだい)」とよぶのに対し、時行を「中先代」ということから、このように称される。鎌倉幕府滅亡の直後から北条氏与党の反乱が各地で頻発した。そのようななかで33年(元弘3・正慶2)6月、後醍醐(ごだいご)天皇を暗殺しようとする北条高時の弟泰家(やすいえ)(時興(ときおき)と改名)、西園寺公宗(さいおんじきんむね)の陰謀が発覚した。この計画に呼応するはずであった時行は、翌月諏訪頼重(すわよりしげ)らとともに信濃(しなの)で挙兵。守護小笠原貞宗(おがさわらさだむね)の軍を破り、女影原(おなかげはら)(埼玉県日高市)、小手指ヶ原(こてさしがはら)(埼玉県所沢市)、府中(ふちゅう)(東京都府中市)において足利軍と戦い、井出沢(いでのさわ)(東京都町田市)においては、直義(ただよし)軍を撃破した。25日、故地鎌倉を奪還、公文所(くもんじょ)を設置した。しかし直義軍の援助のため京都から下ってきた尊氏(たかうじ)に、橋本(静岡県浜名郡)、箱根、相模(さがみ)川などの戦いに敗れ、8月19日、わずか20日ばかりで鎌倉を奪われた。このことから、「二十日先代の乱」ともよぶ。諏訪頼重は自刃。時行は逃れた。これにより鎌倉入りした尊氏は、たび重なる後醍醐天皇上洛(じょうらく)命令に従わず、征夷(せいい)大将軍を自称し、建武政権に謀反、足利政権樹立の第一歩を踏み出した。

[奥富敬之]

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改訂新版 世界大百科事典 「中先代の乱」の意味・わかりやすい解説

中先代の乱 (なかせんだいのらん)

1335年(建武2)7月北条高時の次男北条時行が建武政権に抗して起こした反乱。当時執権北条氏を先代と呼んだので,その再興を図った時行を中先代と称した。この年6月,北条氏と親密であった公卿西園寺公宗の建武政権転覆の陰謀が発覚したが,公宗と呼応するはずであった時行は,旧北条氏御内人(みうちびと)諏訪頼重らに擁せられて信濃に挙兵し,武蔵に進んで女影原,小手指原,府中に足利軍を破った。当時成良親王を奉じ鎌倉にあって関東を治めていた足利直義は,武蔵井出の沢に時行軍を防いだが敗れ,幽閉中の護良親王を斬らせ,成良親王を擁して東海道を西走し,時行軍は鎌倉を占拠した。8月,在京の足利尊氏は征夷大将軍を後醍醐天皇に望んだが許されず,大軍を率いて京都進発後,征東将軍に任ぜられた。尊氏は三河で直義と合流し,遠江,駿河,相模に時行軍を連破して鎌倉を奪回した。時行は逃れ,諏訪頼重は自殺して乱は平定された。この乱は,諸国武士の建武政権に対する不満の高まりを示すとともに,尊氏が鎌倉に拠って建武政権にそむく前提となった。
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百科事典マイペディア 「中先代の乱」の意味・わかりやすい解説

中先代の乱【なかせんだいのらん】

1335年北条高時の子時行が起こした反乱。時行は鎌倉幕府の復活をめざし諏訪氏に擁せられて信濃(しなの)で挙兵,足利直義を追って鎌倉を占領したが,東下した足利尊氏軍と戦って敗死。先代北条氏と足利氏の中間の意味で北条時行を中先代と呼ぶ。→護良親王
→関連項目佐夜ノ中山橋本宿北条時行

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「中先代の乱」の解説

中先代の乱
なかせんだいのらん

1335年(建武2)北条高時の子時行(ときゆき)が,北条氏の再興をはかって挙兵した事件。名称は北条氏の先代,足利尊氏の後代に対していう。信濃の諏訪氏のもとにいた時行は,6月西園寺公宗(きんむね)らの建武政権打倒計画が破綻すると,7月挙兵,南下し,加勢をえて月末には鎌倉にいた足利直義(ただよし)を破り鎌倉を占拠した。直義は監禁中の護良(もりよし)親王を殺害したのち三河まで退去した。在京中の足利尊氏は,東下の許可と征夷大将軍・総追捕使への任命を望んだが,後醍醐天皇は拒否,しかし尊氏は進発し,直義と合流して遠江をはじめ各地で勝利,8月半ばには鎌倉を奪回した。のち尊氏は後醍醐の上洛命令を拒否,建武政権と決別する。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「中先代の乱」の意味・わかりやすい解説

中先代の乱
なかせんだいのらん

建武2 (1335) 年7月北条高時の遺子時行が,信濃の諏訪頼重らの援助で鎌倉幕府再興を企て,足利直義を破って鎌倉を占拠したが,8月足利尊氏に鎮圧された事件。中先代というのは,先代 (高時以前) と当代 (足利氏時代) との中間の代の意で,時行の鎌倉占拠の期間をさし,また時行自身をさしていう。なお,時行はその後南朝に属し,正平7=文和1 (52) 年新田義興らとともに関東で足利方と戦って敗れ,斬られた。

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旺文社日本史事典 三訂版 「中先代の乱」の解説

中先代の乱
なかせんだいのらん

1335年,北条高時の子時行が建武政権に反抗した事件
鎌倉幕府滅亡(1333)後,復活の機をねらっていた北条氏残党の諏訪頼重らは,中先代(時行)を擁して信濃に挙兵し,鎌倉に足利直義 (ただよし) を攻めたが,東下した足利尊氏に討たれて敗北。乱後尊氏は朝廷からの帰京命令に従わず,関東にとどまり,南北朝内乱の端緒となった。

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世界大百科事典(旧版)内の中先代の乱の言及

【信濃国】より

…これら荘園からの年貢は白布が中心であった。
[南北朝・室町時代]
 建武新政権誕生後,信濃国では諏訪氏を中心とした前代の北条氏勢力が残り,1335年(建武2)7月北条高時の子時行を擁して中先代(なかせんだい)の乱をおこした。中先代軍は一時鎌倉を奪ったが,足利尊氏,直義のまき返しにあい失敗に終わった。…

【北条時行】より

…35年(建武2)西園寺公宗と通じて挙兵。足利直義軍を破って鎌倉を占領したが,東下した足利尊氏軍に敗れた(中先代の乱)。37年南朝に帰順し,西上する北畠顕家軍に従軍する。…

※「中先代の乱」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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