中林竹洞(読み)なかばやしちくどう

精選版 日本国語大辞典 「中林竹洞」の意味・読み・例文・類語

なかばやし‐ちくどう【中林竹洞】

江戸後期の画家。名は成昌。別号東山隠士など。名古屋の人。はじめ名古屋で絵を学んだが、京都にのぼり、元明の古画研究。清淡な用筆による山水画を得意とし、南画家として高く評価された。代表作「秋山霜霽図」。画論に「竹洞画論」「画道金剛杵」など。安永七~嘉永六年(一七七八‐一八五三

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デジタル大辞泉 「中林竹洞」の意味・読み・例文・類語

なかばやし‐ちくとう【中林竹洞】

[1776~1853]江戸後期の文人画家。尾張の人。名は成昌。あざなは伯明。瀟洒しょうしゃな山水画を得意とした。著「竹洞画論」など。

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改訂新版 世界大百科事典 「中林竹洞」の意味・わかりやすい解説

中林竹洞 (なかばやしちくどう)
生没年:1776-1853(安永5-嘉永6)

江戸時代後期の尾張南画を代表する文人画家。名は成昌,字は伯明,通称大助竹洞のほか筆樵,融斎,痴翁などとも号した。父は名古屋の産科医玄棟。幼少から絵を好み,14歳で山田宮常の門に入って絵を学び,のち古画収集家であった豪商神谷天遊に従い,神谷宅に寄寓していた山本梅逸らと山水画はじめ古今の名画模写して修業した。1795年(寛政7)天遊のもとを離れ,やがて京都に上って元・明代の絵画に触れ,また古社寺を巡って作風を形成し,山水画に長じた。26歳ですでに画論書《画道金剛杵(こんごうしよ)》を著し晩年の《融通四君子画譜》に至るまで多くの画論を残したが,京都在住中に儒学国学修養を重ね,尊王論の理論家としても知られるようになった。歌論,国家論などの著作も多い。頼山陽,貫名海屋(ぬきなかいおく),梁川星巌らと交友があり,長子竹渓(1816-67)は山本梅逸に学んで文人画をよくした。
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百科事典マイペディア 「中林竹洞」の意味・わかりやすい解説

中林竹洞【なかばやしちくどう】

江戸後期の京都の南画家。名は成昌,竹洞は号。尾張の生れ。山水,花鳥にすぐれ,特に山水画瀟洒(しょうしゃ)で静謐(せいひつ)な趣をもつ。《竹洞画論》《画道金剛杵》などの画論を著し,また経学国学を修めて《知名記》《三国本源論》などの著作も残した。画家中林竹渓〔1816-1867〕はその子。
→関連項目山本梅逸

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「中林竹洞」の意味・わかりやすい解説

中林竹洞
なかばやしちくとう

[生]安永5(1776).名古屋
[没]嘉永6(1853).3.20. 京都
江戸時代後期の南画家。医者玄棟の子。名は成昌,字は伯明,号は竹洞,融斎,沖澹。元の李 衎の墨竹図に感銘して竹洞と号したという。 27歳のとき上洛。中国元,明の古画を模写し,儒学,国学を研究。晩年は眼をわずらったが,山水画,花鳥画に実直な筆致を示した。息子竹渓 (1816~67) も画家として著名。『竹洞画論』などの画論,自伝『知命記』,歌集『清白集』,歌論書『歌道五歌論』,国体論『三国本源論』などの著書がある。主要作品『秋景山水図』『春山探勝図』『神州奇観図』『春景山水図』。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「中林竹洞」の意味・わかりやすい解説

中林竹洞
なかばやしちくとう
(1776―1853)

江戸後期の南画家。名古屋の人。名は成昌(せいしょう)、通称を大助、字(あざな)を伯明(はくめい)といい、竹洞はその号。初め名古屋の画家山田宮常につき、のち収集家神谷天遊の下で古画を臨模し画技の基礎をつくりあげる。同輩に山本梅逸(ばいいつ)があった。27歳で梅逸とともに上京、画家として門戸を構え、儒学や国学の研究にも努める。『画道金剛杵(こんごうしょ)』『竹洞画論』など多くの著作を残す理論家肌の人であった。画は瀟洒(しょうしゃ)な山水画を得意としたが、やや形式的な感を免れない。『神州奇観図』『孔雀(くじゃく)図』などの作品がある。また子の竹渓も画家として聞こえた。

[星野 鈴]

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朝日日本歴史人物事典 「中林竹洞」の解説

中林竹洞

没年:嘉永6.3.20(1853.4.27)
生年:安永5(1776)
江戸後期の南画家。名は成昌,字は伯明。竹洞,冲澹などと号した。名古屋の医師の家に生まれ,はじめ山田宮常に画を学ぶが,のち豪商神谷天遊の庇護を受け,同家所蔵の古画の模写によって画技を磨いた。同門に山本梅逸があり,27歳で共に上京。以後京都の南画界に重きをなした。作風は定型化した幕末南画のスタイルをみせ「長楽春望図」「孔雀図」(ともに個人蔵)などがある。また理論家で『竹洞画論』『画道金剛杵』などの画論のほか,儒学,国学などの研究にもとづいた国体論的な思想によるものなど多くの著書をのこしている。

(星野鈴)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「中林竹洞」の解説

中林竹洞 なかばやし-ちくとう

1776-1853 江戸時代後期の画家。
安永5年生まれ。中林竹渓・清淑の父。名古屋の山田宮常(みやつね)に師事。豪商神谷天遊の宅で東洋古画を模写して文人画をまなぶ。のち京都にすんだ。「竹洞画論」「画道金剛杵(こんごうしょ)」などをあらわす。嘉永(かえい)6年3月20日死去。78歳。尾張(おわり)(愛知県)出身。名は成昌,昌盛。字(あざな)は伯明。別号に沖(仲)澹。

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