中能島松声(読み)なかのしましょうせい

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「中能島松声」の意味・わかりやすい解説

中能島松声
なかのしましょうせい

[生]天保9 (1838).5.3. 江戸
[没]1894.1.2. 東京
山田流箏曲家,作曲家。本名中島園太郎。都名(いちな)は松勢(声)一。6歳より小名木検校箏曲を学び,嘉永5(1852)年に検校となる。その際に,姓の中島を名のろうとしたが,すでに神戸に中島検校がいたので,「能」を入れて中能島とした。明治4(1871)年盲人音楽家が属する自治組織当道職屋敷(→当道)が廃止されたので,以後中能島松声として活躍する。政府認可の盲人の教育機関である訓盲唖院(のち東京盲学校を経て筑波大学附属視覚特別支援学校)の教官を務めた。酒をたしなみ,性来奔放なところがあったが,声に恵まれ大らかな芸風で,平曲にも秀で,清元お葉,4世富本豊前太夫らとも交流し,名声を高め多数の門弟を集めた。作品に富本節・箏歌掛合曲『七福神』,2世山登検校との合作『祝ひ歌』,3世山木検校との合作『松風』,奥歌曲『雨夜の月』,『伏見』などがある。孫の中能島欣一が 4世中能島家元を継承した。(→中能島派

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朝日日本歴史人物事典 「中能島松声」の解説

中能島松声

没年:明治27.1.2(1894)
生年:天保9.5.3(1838.6.24)
江戸後期・明治期の山田流箏曲・平曲家。中能島派の祖。父は岩村田藩(長野県)藩医の中島昌庵。江戸生まれ。幼名,園太郎。3歳で失明。6歳で三味線名手小名木検校松操一(1791~1851)に入門。嘉永5(1852)年検校となり,中能島検校松声(勢)一と名乗ったが,明治期には松声と称した。一中節,河東節にも通じ,清元お葉や富本豊前太夫らとも交遊。富本節は玄人はだしだったという。作品には「万歳」「七福神」「伏見」「雨夜の月」など幅広い音楽的素養を反映した名作が多い。声に恵まれ,そのスケールの大きな芸は他の追随を許さなかったと伝えられる一方,三味線の名手としても知られ,技巧的な器楽的部分が多い「新砧」「新ざらし」の名演でも名を馳せた。

(谷垣内和子)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「中能島松声」の解説

中能島松声 なかのしま-しょうせい

1838-1894 幕末-明治時代の箏曲(そうきょく)家。
天保(てんぽう)9年5月3日生まれ。中能島派初代家元。3歳で失明,山田流箏曲の小名木(おなぎ)検校(けんぎょう)にまなび,15歳で検校となった。浄瑠璃(じょうるり)物を得意とし,平家琵琶(びわ)にもすぐれた。明治27年1月2日死去。57歳。江戸出身。本名は中島国太郎。作曲に「雨夜(うや)の月」「七福神」「松風」など。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の中能島松声の言及

【中能島派】より

…山田流箏曲の一派。家元としての芸姓は5代を数える。初代中能島(1838‐94)は,信州岩村田藩藩医中島昌庵の第3子として江戸に生まれる。幼名園太郎。失明後,小名木(おなぎ)検校松操一に入門,松勢一と名のる。1852年(嘉永5)検校に登官,中能島を姓とし,のちに松声と号する。明治箏曲界の長老として活躍,訓盲啞院(東京盲学校)の教官もつとめた。平曲もよくし,清元お葉,富本豊前太夫などとも交遊,富本との掛合《七福神》や,富本色の強い《伏見》などのほか,《雨夜の月》《松風》《松の寿》など名作を作曲。…

【松風】より

…現在では,この曲しか行わないので,これを単に《松風》と称する。(c)山田流箏曲 初世中能島松声(三味線),3世山木千賀(箏)の作曲。長瀬勝男都(まさおいち)の協力があったといわれる。…

【山木派】より

…山宮勾当を経て,1850年(嘉永3),2世山木のもとで検校となる。中能島派の中能島松声との合作に《松風》《松の寿》などがある。 4世山木(1846‐1921∥弘化3‐大正10)は,本名小林勝太郎。…

※「中能島松声」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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