久里浜(読み)クリハマ

デジタル大辞泉 「久里浜」の意味・読み・例文・類語

くりはま【久里浜】

神奈川県横須賀市地名浦賀水道に面し、嘉永6年(1853)のペリー上陸の地。

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精選版 日本国語大辞典 「久里浜」の意味・読み・例文・類語

くりはま【久里浜】

神奈川県横須賀市、三浦半島東岸の地名。嘉永六年(一八五三)ペリー提督の上陸地。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「久里浜」の意味・わかりやすい解説

久里浜
くりはま

神奈川県横須賀市(よこすかし)の南東部、浦賀水道に面する久里浜港を中心とする地区。旧久里浜村。JR横須賀線京浜急行電鉄久里浜線、国道134号、それに千葉県金谷(かなや)港へフェリーボートと伊豆大島航路が通ずる。久里浜湾は千代ヶ崎(ちよがさき)、千駄(せんだ)ヶ崎に囲まれ、市街地は平作(ひらさく)川河口部に形成された砂丘に立地。ここは三浦、房総(ぼうそう)両半島の連絡舟運の基地をなし、古くは1180年(治承4)に、源頼朝(よりとも)の石橋山の挙兵に呼応して衣笠(きぬがさ)城に拠(よ)って敗れた三浦氏の将士が房州へ渡った地として知られる。江戸初期には江戸の砂村新左衛門が砂丘の内側の潟湖(せきこ)を干拓して内川新田を造成。1853年(嘉永6)にはペリーが浦賀へ来航し、久里浜に上陸。その地はいま公園となり記念碑と記念館がある。久里浜は第二次世界大戦中は広く軍用地にされていたが、戦後、その跡地は学校、博物館、工業用地、住宅地などに転用、久里浜緑地(くりはま花の国)、自衛隊駐屯(ちゅうとん)地もある。海岸には漁港と水産加工工場がつくられ、埋立地に火力発電所がある。

[浅香幸雄]


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百科事典マイペディア 「久里浜」の意味・わかりやすい解説

久里浜【くりはま】

神奈川県横須賀市,三浦半島東岸の久里浜湾に臨む地域。1853年ペリーが上陸した地で,その記念碑があり,毎年7月14日黒船祭が行われる。海岸は大戦中に埋め立てられ,戦後は米軍や自衛隊の施設ができた。東京電力の大火力発電所,水産加工工場がある。横須賀線,京浜急行線が通じ,房総半島の金谷へフェリーボートが通じる。
→関連項目横須賀[市]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「久里浜」の意味・わかりやすい解説

久里浜
くりはま

神奈川県南東部,横須賀市の地区。三浦半島東岸の小湾の奥にある久里浜港を中心とする。嘉永6 (1853) 年アメリカ合衆国の使節ペリーが上陸し,江戸幕府の代表と会見した地。漁港として発展してきたが,第2次世界大戦後は水産加工場のほか各種工場,火力発電所の建設が進んで,工業地区となっている。周辺は住宅地区。久里浜駅は JR横須賀線の終点で,京浜急行電鉄と接続。千葉県の金谷港との間にフェリーが就航している。ペリー記念公園があり,毎年7月 14日には黒船祭が行われる。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「久里浜」の解説

久里浜
くりはま

中世には栗浜とも。神奈川県横須賀市,三浦半島東端の地名。中世前期には浦賀よりも入江が大きく,戦国期は後北条氏の舟手が支配。1853年(嘉永6)アメリカ海軍ペリー提督来航の際,当時彦根藩領だった久里浜の海岸でフィルモア米大統領の国書が受理された。

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世界大百科事典(旧版)内の久里浜の言及

【横須賀[市]】より

浦賀水道をはさんで房総半島に対する。1907年横浜市に次いで県内2番目に市制をしき,1933年海軍からの要請で,隣接の田浦町,衣笠(きぬかさ)村を合併,その後も久里浜村,逗子町,浦賀町などを合併して市域を拡大し,第2次大戦後,50年に逗子が分離・独立し,現在の市域となった。人口43万2193(1995)。…

※「久里浜」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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