井上士朗(読み)いのうえしろう

精選版 日本国語大辞典 「井上士朗」の意味・読み・例文・類語

いのうえ‐しろう【井上士朗】

江戸中期の俳人医者通称専庵。名は正春。号は松翁、緑蕚、朱樹叟別号枇杷園名古屋の人。国学、絵などもよくした。著「士朗(枇杷園)七部集」など。寛保二~文化九年(一七四二‐一八一二

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デジタル大辞泉 「井上士朗」の意味・読み・例文・類語

いのうえ‐しろう〔ゐのうへシラウ〕【井上士朗】

[1742~1812]江戸中期の俳人・医者。尾張の人。名は正春。別号、枇杷園びわえん俳諧加藤暁台に学び、国学や絵画にも通じた。著「枇杷園七部集」「枇杷園随筆」など。

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朝日日本歴史人物事典 「井上士朗」の解説

井上士朗

没年:文化9.5.16(1812.6.24)
生年:寛保2(1742)
江戸中・後期の俳人。初号支朗。別号,枇杷園,朱樹叟。尾張(愛知県)守山の人。名古屋新町の町医井上家の養子となり,3代目を継ぐ。通称正春,医の号は専庵。俳諧を加藤暁台,国学を本居宣長,絵画を勝野范古,平曲を荻野検校に学び,医者としても城下一の評判があった。俳諧では,「尾張名古屋は士朗(城)で持つ」と俗謡にうたわれ,夏目成美,鈴木道彦と共に寛政三大家のひとりとして重んじられた。編著は『枇杷園句集』(1804),『枇杷園句集後集』(1808),『枇杷園随筆』(1810),『枇杷園七部集』(1~5編)に収められる。<参考文献>市橋鐸「井上士朗」(明治書院『俳句講座』3巻)

(加藤定彦)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「井上士朗」の解説

井上士朗 いのうえ-しろう

1742-1812 江戸時代中期-後期の俳人。
寛保(かんぽう)2年生まれ。名古屋の産科医。加藤暁台(きょうたい)にまなび,その高弟として活躍,蕪村(ぶそん)門など他派にもおもんじられた。鈴木道彦,江森月居(げっきょ)とならんで寛政の三大家のひとり。文化9年5月16日死去。71歳。名は正春。通称は専庵。別号に枇杷園(びわえん),朱樹叟(しゅじゅそう)。句集に「枇杷園句集」,編著に「麻刈集」など。
【格言など】足軽のかたまつて行く寒さ哉(「竪並(たてのならび)集」)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「井上士朗」の意味・わかりやすい解説

井上士朗
いのうえしろう

[生]寛保2(1742).尾張,守山
[没]文化9(1812).5.16. 名古屋
江戸時代後期の俳人。本名,正春。別号,専庵,松翁,支朗,枇杷園,朱樹叟。名古屋の町医者で,国学,絵画,平曲,漢学もよくした。名古屋俳壇の中心人物。作風は温雅。編著『枇杷園句集』 (1804) ,『枇杷園随筆』 (10) ,『枇杷園七部集』 (11) など。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「井上士朗」の意味・わかりやすい解説

井上士朗
いのうえしろう

士朗

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世界大百科事典(旧版)内の井上士朗の言及

【士朗】より

…江戸後期の俳人。姓は井上,名は正春。別号は支朗,松翁,枇杷園,朱樹叟など。尾張国守山の人。名古屋の町医井上家を継ぎ,専庵を名のり,産科医として有名であった。国学を本居宣長に,平曲を荻野検校に,絵画を長崎の范古に学び,漢学にもくわしく,幅の広い知識人であった。俳諧は名古屋の暁台(きようたい)に学び,同門の筆頭と目され,他門からも長者として重んじられ,一般の人々の間でも名高く,当時の俗謡にも〈尾張名古屋は士朗(城)で持つ〉とうたわれた。…

※「井上士朗」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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