京都(市)(読み)きょうと

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

京都(市)
きょうと

京都府南部の京都盆地北半に位置する都市。8世紀末から明治維新まで首都。京都府庁の所在地で、政令指定都市。11区から成る。1889年(明治22)上京(かみぎょう)区、下京(しもぎょう)区(区域は現在と異なる)の2区をもって市制施行。1918年(大正7)愛宕(おたぎ)郡の鞍馬口(くらまぐち)、下鴨(しもがも)村など5村、葛野(かどの)郡の衣笠(きぬがさ)村など4村、紀伊郡の柳原(やなぎはら)町、東九条村を編入。1929年(昭和4)左京(さきょう)、中京(なかぎょう)、東山(ひがしやま)の3区を新設。1931年伏見(ふしみ)市と紀伊郡深草(ふかくさ)町、葛野郡嵯峨(さが)町、宇治郡山科(やましな)町、愛宕郡上賀茂(かみがも)村など近郊の1市3町23村を合併し、伏見区と右京(うきょう)区を新設。1948年(昭和23)葛野郡中川、小野郷(おのごう)の2村、1949年愛宕郡雲ヶ畑(くもがはた)、岩倉、八瀬(やせ)、大原、静市野(しずいちの)、鞍馬、花背(はなせ)、久多(くた)の8村、1950年乙訓(おとくに)郡久我(くが)、羽束師(はつかし)、大枝(おおえ)の3村を編入。1955年上京区から北区、下京区から南区を分設。1957年久世(くせ)郡淀(よど)町、1959年乙訓郡久世(くぜ)、大原野の2村を編入。1976年には人口の増大に伴い東山区から山科区、右京区から西京(にしきょう)区が分離された。2003年(平成15)には11区からなり、市の面積は610.22平方キロメートルで市制施行時より20.5倍に拡張され、人口は146万7785で5.2倍に増加した。しかし、1990~1995年の5年間の人口増加率は、京都府全体の1.0%に比べて0.2%増加したにとどまる。人口密度は1平方キロメートル当り2405人で、上京、中京、下京の3区に集中し、この地域の人口密度は約1万1752人で、大部分が山地で占められる左京区の人口密度は694人にすぎない。2005年京北町(けいほくちょう)を編入、右京区に編成。同年の人口147万4811、面積827.90平方キロメートル。2015年には人口147万5183、面積827.83平方キロメートル。[織田武雄]

自然


地形
市域は京都盆地と周辺の山地に広くまたがっている。京都盆地は第三紀末の瀬戸内陥没地帯の一部で、南北に長い地溝盆地である。周囲の山地とはおもに断層によって境されている。盆地の北東部には、安曇(あど)川、高野(たかの)川の河谷を通ずる花折(はなおれ)断層線に沿って四明(しめい)岳(839メートル)を主峰とする比叡山地(ひえいさんち)がそびえる。その南にはお盆の送り火「大文字(だいもんじ)」で知られる如意(にょい)ヶ岳があり、さらに東山の丘陵地帯へと続いている。盆地の南東部には大津市との境をなす醍醐山地(だいごさんち)が連なる。市域北部は丹波(たんば)高地の一部をなす北山山地(きたやまさんち)が占める。標高は500~700メートルほどであるが、西には愛宕(あたご)山(924メートル)、北東には皆子(みなご)山(971メートル)がそびえる。2016年(平成28)、右京区と左京区の一部は京都丹波高原国定公園に指定された。市域西部には亀岡(かめおか)市との境をなす西山山地がある。
 京都盆地は洪積世(更新世)のころまでは大部分が水をたたえた湖盆であり、盆地周辺の山麓(さんろく)地帯には洪積層が堆積(たいせき)し、西山山地の山麓には乙訓、長岡の洪積丘陵が台地状をなして横たわっている。しかし、盆地床の部分は、盆地を流れる諸河川の堆積によって生じた沖積地であり、盆地床の北部には北白川、鷹峯(たかがみね)の扇状地が発達している。したがって京都市街地は北から南へときわめて緩やかに傾斜し、北部の上賀茂付近は標高約100メートル、南部の宇治川右岸の淀付近で標高約10メートルとなる。
 市域を貫流する河川には、丹波高地の水を集めた大堰川(おおいがわ)が亀岡盆地から保津(ほづ)峡の峡谷をつくって京都盆地に流出して桂川(かつらがわ)となり、さらに市域の西を南流する。北山山地に発する高野川、賀茂川は出町(でまち)付近で合流して鴨川(かもがわ)となり、市街を南に流れて下鳥羽(しもとば)付近で桂川と合流する。桂川は淀付近で、琵琶(びわ)湖に発して市域の南辺を流れる宇治川に注ぎ、淀(よど)川となって大阪湾へ向かって流れる。[織田武雄]
気候
盆地に位置し、海に接しない京都市の気候は内陸性を示し、8月の平均最高気温は33.3℃で、東京よりも2℃以上も高く、昼のうだるような暑さは夜になっても蒸し暑さが残ることがある。1月の平均最低気温は1.2℃で、夜には盆地周辺からの冷たい空気が流れ込み、湿度も比較的高いため、「京の底冷(そこび)え」とよばれる締め付けるような冷たさを感じることも多い。年降水量は1491.3ミリメートルで(以上、1981~2010年の平均値)、6月から9月にかけての4か月間で年間の半分以上が降る夏雨型で、太平洋型気候に含まれる。[織田武雄]

歴史


先史・古代
京都市の先史遺跡は、北白川や上賀茂などの小扇状地に発見され、また伏見区の深草には弥生(やよい)時代の遺跡から農具などが出土している。しかし盆地床の中央は土地が低湿で居住に適さなかったが、渡来系氏族の秦氏(はたうじ)が台頭する7世紀ごろから開発が始まり、ことに市街地西部の太秦(うずまさ)と南部の深草を根拠地として、秦氏は盆地の開拓や灌漑(かんがい)を行い、また養蚕や絹織の技術も大陸から伝えたといわれる。太秦の蛇塚(へびづか)とよばれる巨大な石室の露出した古墳も秦氏の首長の墳墓といわれ、603年(推古天皇11)には秦河勝(はたのかわかつ)が太秦に蜂岡寺(はちおかでら)とよばれた広隆寺(こうりゅうじ)を建立した。なお秦氏のような渡来系氏族のほかに、賀茂川、高野川の流域では賀茂氏、出雲(いずも)氏などが居住し開発にあたった。
 奈良時代後半の8世紀なかばごろには律令(りつりょう)体制に動揺をきたして内乱や政変などが生じたので、桓武(かんむ)天皇は律令体制の再編成のために平城京(奈良市)からの遷都を決意した。現在の向日(むこう)市鶏冠井(かいで)付近を中心とする地域を新都に選定して、784年(延暦3)藤原種継(たねつぐ)に命じて長岡京の造営にあたらせたが、種継の暗殺や桂川の水害などがあり、長岡京の造営は10年足らずで中止された。794年藤原小黒麻呂(おぐろまろ)が造営大夫(だいぶ)に任ぜられ、長岡京から平安京への遷都が行われた。長岡京、平安京への遷都は、種継や小黒麻呂が秦氏と姻戚(いんせき)関係にあったことからみて、京都盆地の開発にあたった秦氏の勢力が大きく影響したものと考えられる。
 平安京は平城京などと同じく、唐の長安を模し、南北1753丈(約5.3キロメートル)、東西1508丈(約4.5キロメートル)に及ぶ壮大な方形の計画都市である。長安のような巨大な城壁は欠いたが、北部中央には大内裏(だいだいり)が配され、朱雀大路(すざくおおじ)を中心に左右両京に分かれ、朱雀大路の南端には平安京の正門として羅城門(らじょうもん)が設けられた。両京はそれぞれ9条4坊に分かれ、条坊は3本の道路で4坊16町に整然と区画された。現在の市の碁盤目(ごばんめ)状の町割にその名残(なごり)をとどめている。しかし平安京は当時の人口に比べて規模が大きすぎ、単に都市計画の区画にとどまった所も多かったとみえ、遷都後50年もたたないうちに、低湿地であった右京の部分は衰退し始めた。慶滋保胤(よししげのやすたね)の『池亭記(ちていき)』(982)にも、「西之京(右京)は人家漸(ようや)く稀(まれ)にして殆(ほとん)ど幽墟(ゆうきょ)に畿(ちか)し、……東京(左京)は四条より以北、乾(いぬい)と艮(うしとら)との二方は人々貴賤(きせん)となく群聚(ぐんしゅう)する所也(なり)。高家門を比べ堂を連ね、小屋壁を隔て簷(のき)(軒)を接す」と記された。右京の衰微に比し、左京は鴨川を越えて土地の高燥な東山の山麓地帯にまで及び、平安時代後期には鴨東(おうとう)の白川に白河殿や法勝寺(ほっしょうじ)などが創建された。保元(ほうげん)・平治(へいじ)の乱(1156、1159)によって白河殿を中心とする地域は戦禍で焼失したが、平氏の全盛時代には、南白川の五条から七条にかけての、鴨東の六波羅(ろくはら)が政治の中心となり、鎌倉時代にも幕府の出先機関として六波羅探題が置かれた。[織田武雄]
中世
室町時代には足利義満(あしかがよしみつ)の「花の御所」とよばれた室町幕府が現在の今出川通から北の烏丸(からすま)通と室町通の間に開かれた。政権の交代に伴って政治の中心地区も変遷したが、10年間にわたる応仁(おうにん)・文明(ぶんめい)の乱(1467~1477)によって、公家(くげ)・武家の邸宅も含めて3万余戸が戦火を受け、京都の大部分は焦土と化した。しかしこの乱を境に、焼失を免れた三条から松原にかけてのいわゆる下京古町を中心にして、自治組織として町組制ができ、町衆(まちしゅう)が団結して京都の復興にあたり、祇園祭(ぎおんまつり)も町衆の祭りとして盛んとなった。[織田武雄]
近世
織豊(しょくほう)政権の成立によってようやく天下は統一され、ことに織田信長の上洛(じょうらく)の後を受けた豊臣秀吉(とよとみひでよし)は、前田玄以(げんい)を奉行(ぶぎょう)に任命して積極的に京都の復興に着手し、まず1590年(天正18)に平安京制以来の方1町区画を半町ごとの南北の道路で切り、南北に長い短冊型の新しい町割をつくり、また市中に散在する寺院を東の寺町と西の寺之内に集めた。翌年には市街地整備のために御土居(おどい)とよばれる土塁を四周に巡らした。その延長は23キロメートルに及び、今日でも一部が残っている。さらに秀吉は聚楽第(じゅらくだい)を造営し、伏見に伏見城と城下町を建設し、また築城にあたって宇治川の水路をかえて、伏見を起点とする淀川の水運を開いた。
 江戸時代になると政治の中心は江戸に移ったが、徳川家康は上洛の用意に二条城を造営して所司代(しょしだい)を置き、禁裏(きんり)の守護と京都の市政にあたらせた。1623年(元和9)には伏見城は廃城となったが、幕府は角倉了以(すみのくらりょうい)に命じて高瀬川を開削し、これによって伏見は京都の外港となり、淀川水運で大坂と結ばれた。伏見の南西部の地には1622年新淀城が築かれ、松平(久松)氏が入封し淀藩が成立した。秀吉のときに建立された西本願寺に次いで、江戸時代には東本願寺や、徳川氏の帰依(きえ)する浄土宗の知恩院などの巨刹(きょさつ)も相次いで建設された。また民衆の生活が豊かになるにつれ、西陣織をはじめ、陶器、漆器、染物など、伝統を生かした京都の手工業はますます発達し、商業も栄えた。したがって京都は政治的都市としての意義は失ったが、江戸、大坂と並んで三都といわれ、人口40万以上を有する大都市であった。幕末には蛤(はまぐり)御門の変などの兵火を受けて市内の中心は焼失し、さらに明治維新を迎えた1868年(慶応4)には、東京遷都の布告が発せられ、京都は名実ともに千年の帝都としての地位を失った。
 遷都の打撃を切り抜けるために、全国に先駆けて産業の近代化が図られ、1871年には勧業場(かんぎょうば)を設け、西欧の科学技術の応用と産業化を指導する舎密局(せいみきょく)なども開設された。また教育、文化の面では、町組を学区制に改編して1869年にはわが国最初の小学校、さらに翌年には中学校、女学校が開かれた。琵琶湖の水を京都に引く琵琶湖疏水(そすい)が企画され、1890年には開通をみ、翌年には疏水の水を発電に利用する日本最初の蹴上発電所(けあげはつでんしょ)が完成し、1895年にはこの電力を利用して、日本で初めて市街電車が開通した。
 しかし、盆地に位置するため、近代工業の発展にとって不可欠な港湾を欠き、また後背地も乏しいため、伝統工業以外の工業の発展は立ち後れた。したがってこれまでの京都市の発展は、歴史的風土を基盤とする文化観光都市として方向づけられ、近代産業都市としての位置づけは低かったが、近年、産業道路の整備によって洛南(らくなん)工業地域が形成された。[織田武雄]

産業


農林業
江戸時代から三都の一つとして栄えた京都は、早くから近郊農村では野菜栽培が盛んで、聖護院(しょうごいん)カブラ、九条ネギ、賀茂ナス、壬生(みぶ)菜などの名産があり、今日ではこれらの野菜の産地は、市街化によって市外にも拡大されている。2015年(平成27)の京都市の総農家数は3687戸、うち専業農家は744戸で約20%である。また耕地面積は2333ヘクタールである。ビニルハウスなどによる集約的な典型的近郊農業が営まれている。2005年に京北町が右京区に編成され、2010年の林野面積は6万0970ヘクタールに達した。右京区、左京区と北区に多く、スギの植林が盛んである。ことに北区の中川、小野郷(おのごう)、右京区京北地区は「北山丸太」とよばれる高級建築材のスギの磨き丸太の産地として知られる。[織田武雄]
工業
2013年(平成25)の京都市の製造業事業所数は2364、従業者数は6万1370人、製造品出荷額等は2兆0140億円である。業種別にみると、製造品出荷額等では、飲料・たばこ・飼料が5137億円でもっとも多く、電子部品・デバイス・電子回路製造業、業務用機械器具が続く。事業所数では、繊維工業が572ともっとも多く、食料品製造業、印刷・同関連業が続く。繊維工業は京都市を代表する伝統的工業で、西陣織や友禅染とそれに関連する染色、精練工業なども発達している。また、織物、陶業、漆器、扇子(せんす)などの家内工業も伝統的に行われている。食料品製造業も盛んで、伏見を中心とする清酒醸造をはじめ、缶詰、京菓子などを含む。日本最初の水力発電所が置かれた京都市では、電気機械製造の歴史も古く、また蓄電池などの生産もみられる。そのほかの重化学工業では、機械製造業や製薬を含む化学工業などの出荷額が比較的多いが、近年は洛南工業地域を中心に諸工業が盛んとなりつつある。
 工業の地域的分布では、市街地北西の西陣地区は西陣織の産地であり、江戸時代からすでに同業者町が形成されていた。1973年(昭和48)、西陣織工業組合が発足。2014年の時点で組合員数は391で、近年郊外に移転し工場化するものもみられる。また着尺(きじゃく)、帯地(おびじ)のほか、服地、ネクタイ、室内装飾用などもあり、出荷額は約373億円に達する。西陣織とともに京染の名で知られ、江戸中期に宮崎友禅斎の創意に始まる友禅染は、堀川(上京区)付近で手描きの高級品がつくられるが、量産を要する広幅捺染(ひろはばなっせん)の友禅工場は、多量の水を利用できる、東は高野川、西は桂川の河川沿いに集まっている。中京区や下京区では扇子、人形、仏具、漆器などが家内工業によって営まれるほか、印刷・食料品製造などもみられる。東山西麓の五条坂から泉涌寺(せんにゅうじ)地区にかけては良質の陶土を産し、古くから清水焼(きよみずやき)で知られた陶磁器業が立地し、1960年代には東山東麓にも陶業団地がつくられた。なお水陸の交通の便に恵まれ、良質の硬水を湧出(ゆうしゅつ)する伏見では、江戸時代から兵庫の灘(なだ)とともに酒造地として著名で、現在も清酒の生産が多い。これに対して市街地南西部は、一般に土地が低湿で地価も低廉であったので、昭和初年から電気機器、輸送機械、伸銅(しんどう)、化学などの諸工業が進出し、近年は国道の拡張などで輸送条件も改善された。各種の近代工場も誘致されるようになり、阪神工業地帯の一環として、桂川沿岸を含めて洛南工業地域の発展がみられる。[織田武雄]
商業
歴史的に近代工業の発達が後れ、生産性の乏しい消費都市であった京都市は、商業活動もあまり盛んでなく、商店数は約1万9804(2014)であるが、卸売業はその27%にすぎない。しかし卸売業の主体をなすのは、西陣織や友禅染など高級品を扱う繊維問屋であるため、販売額は圧倒的に多く、京都市は東京、大阪、名古屋とともに、全国織物の四大集散地の一つである。繊維問屋は五条から丸太町の間の室町通に集まっている。小売商店街の中心は四条河原町、新京極付近で、京都市の娯楽街であり、買物街をなしている。そのほか銀行などの金融機関は四条烏丸(からすま)付近に多く、また東西両本願寺付近には仏具、夷川(えびすがわ)通には家具、二条通には薬種、錦小路(にしきこうじ)には生鮮食料品関係の商店が集まって、江戸時代から同業者町を形成している。[織田武雄]

交通

東海道、西国(さいごく)街道、大和(やまと)街道、山陰街道などはいずれも京都を中心に通じていた。現在、京都市の交通の中心は1877年(明治10)に開設された京都駅(七条停車場)であり、京都市の表玄関としてJR東海道本線・新幹線が通過し、山陰本線、奈良線の起点となり、山科駅で湖西線が分岐している。私鉄もよく発達し、大阪との間には河原町駅を起点とする阪急電鉄京都線と、京阪三条駅を起点とする京阪電鉄本線があり、前者は桂(かつら)で嵐山(あらしやま)線、後者は伏見(ふしみ)の中書島(ちゅうしょじま)で宇治線が分岐し、京阪三条では鴨東線、大津に向かう京津線(けいしんせん)が接続している。また京都駅を起点に近畿日本鉄道京都線が奈良、橿原(かしはら)市方面に通じている。このほか京都市周辺の近郊を結ぶ京福電鉄(けいふくでんてつ)の嵐山本線、北野線、叡山(えいざん)電鉄の本線、鞍馬(くらま)線がある。これらの沿線は名勝旧跡に富み、観光交通の一翼を担うとともに、近年は京都市街や大阪への通勤者の主要な交通機関になっている。また、保津川沿いに嵯峨野(さがの)観光鉄道(トロッコ列車)が走る。1978年(昭和53)には市電が全廃されたが、かわって1981年には京都駅と北大路間に市営地下鉄烏丸線(からすません)が開通(のちに、北は国際会館まで、南は竹田まで延長)、1997年(平成9)には二条と醍醐(だいご)間に東西線が開通(のちに西は太秦北神川、東は六地蔵まで延長)、烏丸線は近畿日本鉄道京都線と、東西線は京阪電鉄京津線と相互乗入れをしている。市内間、市内と近郊を結ぶ市営バスや私営バス交通も多いが、交通渋滞を緩和するために道路の整備拡充も進められている。阪神地方や東海地方を結ぶ国道1号、171号、名神高速道路、京都高速道路などは産業道路としても重要である。京都市から丹波(たんば)方面には国道9号、京都縦貫自動車道、若狭(わかさ)方面へは162号など、奈良、和歌山方面へは24号が通じている。観光道路には東山ドライブウェイや、北白川から比叡(ひえい)山頂に達する比叡山ドライブウェイのほかに、比叡山頂から琵琶湖大橋へ抜ける奥比叡ドライブウェイ、嵐山から高雄に通ずる嵐山・高雄パークウェイなどがある。[織田武雄]

文化・生活


史跡・文化財
千年の古都として栄えた京都市には、2002年(平成14)段階では約1660の寺院と約400の神社がある。また美術、工芸、建造物など約2000点の国指定重要文化財があり、うち200点以上が国宝に指定されている。また国指定の史跡、名勝、天然記念物は120を数え、優れた風光と近代的施設にも恵まれ、国際的な文化観光都市として、京都市の名は海外にまで知られている。1994年(平成6)には金閣寺(鹿苑(ろくおん)寺)をはじめ宇治市、大津市にまたがる17の寺社や城が「古都京都の文化財」として世界文化遺産リストに登録された。観光客は4955万人(2010)に達し、そのうち宿泊外国人観光客は約98万人。
 洛中(らくちゅう)とよばれる市街中央部には「王城の地」京都を象徴する京都御所がある。平安京の大内裏の位置とは異なり、14世紀末に東洞院土御門(ひがしのとういんつちみかど)にあった里内裏を拡大したもので、御苑(ぎょえん)内には、紫宸殿(ししんでん)の正面に建礼門、東側には仙洞(せんとう)御所がある。二条城(国史跡)は徳川家康が上洛の際の居城とし造営したもので、二の丸御殿(国宝)は近世初期の大名居館を示す遺構である。近くには神泉苑(えん)、二条陣屋、壬生寺(みぶでら)などがある。御苑の北には禅宗の名刹(めいさつ)相国(しょうこく)寺がある。鴨川右岸に頼山陽(らいさんよう)書斎(山紫水明処)跡、堀川通沿いに儒者伊藤仁斎(じんさい)宅(古義堂)跡があり、ともに国指定史跡。洛中の北西部には、庭園に優れた大徳寺、菅原道真(すがわらのみちざね)を祀(まつ)る北野天満宮のほか、平野(ひらの)神社、千本釈迦(しゃか)堂などがあり、大徳寺の西には、1950年(昭和25)に金閣が焼失し、その後再建された金閣寺(鹿苑寺)がある。京都駅前には東西両本願寺がある。西本願寺は秀吉、東本願寺は家康によって建立された大伽藍(がらん)で、全国真宗門徒の信仰の中心であり、付近には仏具などを商う門前町が発達している。京都駅の南には、一般に東寺(とうじ)とよばれ、五重塔のそびえる真言宗東寺派総本山の教王護国寺がある。
 東山山麓一帯の洛東にも多くの社寺がある。大文字山ともよばれる如意ヶ岳山麓には、もと足利義政(あしかがよしまさ)の山荘であった銀閣寺(慈照寺)があり、ここから南の山麓に沿って、法然院、黒谷の真如(しんにょ)堂や若王子(にゃくおうじ)の永観堂、雄大な三門のそびえる南禅寺などの寺院が連なっている。南禅寺の西には、1895年(明治28)に建立された桓武(かんむ)天皇を祀る平安神宮があり、平安京の大極殿(だいごくでん)を模した朱塗りの社殿が美しい。付近一帯は市民の文化センターをなす岡崎公園で、美術館、動物園、京都会館などが集まる。岡崎公園の南には、青蓮院(しょうれんいん)や、巨大な三門を有する浄土宗総本山の知恩院(ちおんいん)があり、さらに南に抜けると、祇園(ぎおん)の夜桜で知られた円山(まるやま)公園と、祇園祭で有名な八坂(やさか)神社がある。祇園の南には、室町時代に建てられた法観寺の五重塔八坂ノ塔や、山腹にせり出した舞台で名高い清水(きよみず)寺があり、五条坂、清水坂には清水焼などの土産(みやげ)物店が軒を並べている。さらに東山七条付近には国立博物館、妙法院(みょうほういん)、三十三間堂(蓮華王院(れんげおういん))、智積院(ちしゃくいん)などが集まっている。
 洛北の上賀茂には、下鴨神社(賀茂御祖(みおや)神社)とともに葵(あおい)祭で知られた上賀茂神社(賀茂別雷(わけいかずち)神社)があり、比叡山山麓には、林泉や展望に優れた修学院離宮、その近くの宝ヶ池池畔には国立京都国際会館がある。宝ヶ池の北の岩倉には、維新の元勲岩倉具視(ともみ)幽棲(ゆうせい)旧宅(国史跡)や、岩倉門跡とよばれた実相院、平安京造営の際に瓦(かわら)を供給した栗栖野瓦窯(くるすのがよう)跡(国史跡)がある。高野川上流の大原には、『平家物語』の「大原御幸(ごこう)」で知られた寂光院(じゃっこういん)や、紅葉の名所で藤原時代の代表的建築の本堂(往生極楽院)のある三千院がある。老杉の生い茂る鞍馬(くらま)には鞍馬寺がある。
 洛西とよばれる市街西部の花園(はなぞの)から御室(おむろ)にかけては、広い境内に多くの塔頭(たっちゅう)の集まる妙心寺をはじめ、サクラの名所の仁和(にんな)寺や、石庭で著名な龍安寺(りょうあんじ)、等持院などがあり、太秦(うずまさ)には、有名な飛鳥(あすか)仏の弥勒菩薩(みろくぼさつ)が安置されている広隆寺がある。嵐山(あらしやま)は、保津川が京都盆地に流れ出る谷口にあたり、古くから山水の美に優れ、サクラと紅葉の名所である。また嵐山から嵯峨野(さがの)にかけての一帯は、天竜寺、大覚寺の名刹をはじめ、清凉(せいりょう)寺、二尊(にそん)院、落柿舎(らくししゃ)、祇王寺(ぎおうじ)、化野(あだしの)念仏寺などの史跡に富む。嵐山からドライブウェーの通じる清滝(きよたき)川に沿う三尾(さんび)とよばれる栂尾(とがのお)、槇尾(まきのお)、高雄(たかお)一帯は、下流の清滝とともに紅葉の名所であり、また神護(じんご)寺(高雄)、高山(こうざん)寺(栂尾)、西明(さいみょう)寺(槇尾)がある。嵐山から桂川に沿って南には、松尾大社や、苔寺(こけでら)とよばれる西芳(さいほう)寺があり、その南には、庭園と建物に優れた調和美のみられる桂離宮(かつらりきゅう)がある。
 洛南の地には、東山山麓に沿って、臨済宗東福寺派大本山で、紅葉の名所の通天橋が架かる東福寺や、泉涌(せんにゅう)寺があり、さらに南へ進むと、全国稲荷(いなり)社の総本社の伏見稲荷大社(ふしみいなりたいしゃ)がある。山科(やましな)の南には真言宗醍醐(だいご)派の総本山醍醐寺がある。平安・室町時代の国宝建造物が多い。付近には随心(ずいしん)院、勧修(かじゅう)寺などの寺院がある。また上鳥羽(かみとば)一帯は、白河(しらかわ)、後鳥羽(ごとば)、後白河上皇の院政がとられた地で、鳥羽殿跡として国の史跡に指定されている。[織田武雄]
芸能
古い文化の伝統をもつ京都は、古来数々の芸能文化を育成してきた。とくに茶道や華道の流派の家元の多くは京都市にあり、また能楽、狂言、舞踊、歌舞伎(かぶき)などの諸流派も京都におこり、いまもその宗家が少なくない。これらの古典芸能文化は、応仁(おうにん)の乱(1467~1477)のころ以降、室町時代から江戸時代の元禄(げんろく)(1688~1704)ごろにかけて、京都の町衆の生活のなかから生まれたものが多い。
 茶道についてみると、室町時代に村田珠光(じゅこう)が創始し、千利休(せんのりきゅう)により完成されたが、利休の孫宗旦(そうたん)のあと、千家は表、裏、武者小路(むしゃこうじ)の三千家に分かれた。このほか千家とは別に、西本願寺と関係の深い藪内(やぶのうち)流の家元もあり、今日も京都市は茶道の全国的な中心をなしている。この茶道と深い関連をもつ華道の最古の流派は池坊(いけのぼう)で、桃山時代から江戸時代初期にかけて盛んとなった。池坊とは中京区の頂法(ちょうほう)寺の一僧房の名で、この寺の司僧専慶(せんけい)がいけ花の名手であったと伝えられている。このほか華道には、旧嵯峨(さが)御所の大覚寺の伝統をもつ嵯峨御流や、御室(おむろ)流、平安流、京都未生(みしょう)流などの家元がある。
 また能は、室町時代に観阿弥(かんあみ)・世阿弥(ぜあみ)父子の手で完成され、のちに観世(かんぜ)、金春(こんぱる)、宝生(ほうしょう)、金剛(こんごう)の大和(やまと)四座として発達した。江戸時代に能が幕府の式楽(しきがく)となると、大和四座の多くは江戸に移ったが、金剛流宗家は京都にあり、観世流の片山家も京観世として重きをなし、両家ともそれぞれ月並能(つきなみのう)をもち、6月初めには平安神宮で薪能(たきぎのう)が催される。江戸時代に江戸で発達した歌舞伎の源流も、近世初頭に京都の四条河原で演じられた出雲(いずも)の阿国(おくに)の念仏(ねんぶつ)踊に始まったのであり、舞踊では井上流が京舞の伝統を伝えている。
 こうした芸能は今日でも京都の庶民の生活のなかに溶け込んでいるが、より民俗的な色彩の強いものとしては、夏のお盆や地蔵盆に行われる六斎(ろくさい)念仏(国の重要無形民俗文化財)や洛北八瀬(やせ)に伝わる赦免地(しゃめんち)踊などがある。[織田武雄]
年中行事
京都市の新春は白朮参り(おけらまいり)で明ける。除夜の鐘が響き渡るころ祇園の八坂神社では、社前でオケラ(白朮)というキク科の薬草を混ぜた篝火(かがりび)がたかれる。その火を細い火縄に移し取って持ち帰り、それを火種にして雑煮を炊き新年を祝うと、悪鬼厄難を祓(はら)えると信じられている。
 2月の節分になると、吉田神社、壬生(みぶ)寺、廬山(ろざん)寺などでは古式ゆかしい節分会(せつぶんえ)が行われる。ことに廬山寺の鬼の法楽(ほうらく)の追儺(ついな)式は有名である。2月25日には北野天満宮で菅原道真の霊を慰める梅花祭(ばいかさい)が行われ、咲き始めた梅の花の下では、野点(のだて)が催される。彼岸(ひがん)が近づく3月15日に嵯峨清凉(せいりょう)寺では、涅槃会(ねはんえ)を営んだのち、釈迦(しゃか)堂前に立つ大松明(たいまつ)3本が点火され、その燃え方でその年の稲作の豊凶が占われる。京の春のいちばんの行事に花見がある。清水寺、円山(まるやま)公園、平安神宮をはじめ、洛南の醍醐(だいご)寺、洛西の嵐山などサクラの名所は観光客も加えて大いににぎわい、ことに醍醐寺では、豊太閤(ほうたいこう)の花見を模して、花見行列が山内を練り歩く。このころには祇園では「都をどり」、先斗(ぽんと)町では「鴨川をどり」の絢爛(けんらん)たる舞台が展開され、また壬生寺では、素朴で古い民俗を伝える壬生狂言(国の重要無形民俗文化財)が演じられる。紫野(むらさきの)の今宮神社では、悪霊や疫神を鎮めるための鎮花祭「やすらい花」(国の重要無形民俗文化財)が行われる。新緑の候の5月15日に上賀茂・下鴨両神社の葵祭(あおいまつり)がある。わが国で最上の格式を誇る祭りで、さながら王朝絵巻を繰り広げたように優美であり、夏の祇園祭、秋の時代祭とともに京都の三大祭となっている。そのほか5月には御霊(ごりょう)神社の御霊会、車折(くるまざき)神社の三船(みふね)祭などが行われる。6月には伏見稲荷の御田植祭、鞍馬寺の竹伐り会式(たけきりえしき)など、いずれも古式を伝え、また平安神宮の薪能も初夏にふさわしい行事である。
 梅雨が明けて夏を迎えると、豪華な祇園祭が始まる。元来は疫病退散のための町衆の祭りで、7月1日の吉符入(きっぷいり)を皮切りに、24日の還幸祭までの3週間にわたって行われる。とくに、16日の宵山(よいやま)と17日の山鉾(やまぼこ)巡行が祭りのハイライトで、都大路は見物客でうずまる(京都祇園祭の山鉾行事として国指定重要無形民俗文化財およびユネスコ無形文化遺産)。8月には五条通に陶器市が開かれ、鴨川の河原に張り出した納涼床は暑い京都の夜の風物詩である。16日の盂蘭盆(うらぼん)の夕べには、大文字山をはじめ、西山、船山など京都市の東、北、西の五つの山に精霊(しょうりょう)送り火が点火され、夏の夜空を彩る情景がみられる。お盆が過ぎると、市内の町々では子供たちのための地蔵盆がにぎやかに行われる。
 京都を取り巻く山々が美しく色づくころには、高雄、嵐山、大原などの紅葉の名所は観光客でにぎわう。10月初めには北野天満宮の瑞饋祭(ずいきまつり)があり、屋根をズイキやナスなど野菜で飾った神輿が巡行する。22日は平安神宮の時代祭で、平安時代から明治維新までの時代風俗を再現した大行列が都大路を練り歩く。同じ日の夜には鞍馬の由岐(ゆき)神社で勇壮な火祭がみられる。
 12月の師走(しわす)の声が聞かれると、四条の南座では「顔見世(かおみせ)」が始まる。芸能の町京都の年の暮れを飾るにふさわしい興行である。9日と10日、鳴滝(なるたき)の了徳寺(りょうとくじ)では、中風除けと長寿のまじないに参詣(さんけい)者に炊きたての大根をふるまう「大根だき」の行事がある。13日の「事始め」には、迎春の準備がこの日から始められ、祇園などの花街では芸事の師匠へ鏡餅(かがみもち)を贈る風習がいまも行われている。21日には東寺の「終(しま)い弘法(こうぼう)」、25日には北野天満宮の「終い天神」と、京都の二大縁日市(いち)がにぎわいをみせるうちに大みそかが近づき、やがて年も暮れるのである。[織田武雄]
暮らしと住まい
「京の着倒れ」と昔からいわれているが、つつましい京都の庶民も祭りとか芸事のある日には晴れ着を身に着けた。それが京都人の誇りであり、また西陣織や友禅染の技(わざ)をもつ京都人は衣服に対して洗練された感覚を有し、それが京女の優雅な美しさを引き立てたのである。それに、いわゆる標準語に比べて柔らかで悠長な抑揚と、やさしく独得な響きをもつ女性の京ことばが、いっそう京女を魅力的なものにしている。町方ばかりでなく、村方でも白川女(しらかわめ)や大原女(おはらめ)のように、紺木綿の衣服に襷(たすき)掛け、三幅前垂(みのまえだれ)の服装は労働着ではあるが、京の田舎(いなか)にふさわしい優雅な姿である。
 海に遠い京都市では、川魚以外には新鮮な魚は得にくかったので、生ぶし、棒だらなどの干物や塩さばなどの塩物が昔から珍重された。乏しい材料を利用して、棒だらとサトイモを煮合わせた芋棒(いもぼう)やさばずしなど、家庭料理から京都名物になったものもある。新鮮な魚類には恵まれないが、京都の近郊では、春のタケノコ、秋のマツタケをはじめ、壬生(みぶ)菜、聖護院(しょうごいん)カブラなどの野菜が豊富である。したがって京都では、新鮮な野菜を薄口しょうゆであっさり味つけするのが料理の本道とされた。新鮮な野菜を利用した漬物の多いことも京都の特色で、聖護院カブラを用いた千枚漬、スグキナを用いたすぐきなどは京都独得の漬物である。また良質の水に恵まれて、豆腐、湯葉(ゆば)、生麩(なまふ)も優れた味である。さらに代表的な京料理としては、茶道とともに発達した懐石(かいせき)料理がある。
 京都の町家は、間口が狭く、奥行が深く「ウナギの寝床」と称される。表は紅殻(べんがら)格子で、入口は大戸を下ろし、大戸の潜(くぐ)りから出入りするようになっている。家に入ると土間で、通り庭があって裏庭へ続き、裏庭には離れと土蔵がある。通りに面して「上げ座」とよばれる蝶番(ちょうつがい)で上げ下げのできる床机がついている家もみられる。通りに面した2階は「虫籠(むしこ)窓」という細い格子を組んだ縦窓がついていて、紅殻格子と美しい調和をみせている。このように、緩やかな勾配(こうばい)の低い瓦(かわら)屋根が連なる京都の町並みは、いかにも日本の古都らしい落ち着いた美しさを示している。古い町並みもいまでは少なくなってきたが、織物問屋の多い室町界隈(かいわい)や西陣一帯では、なお伝統を伝える町並みが残り、東山区の産寧(さんねい)坂、祇園新橋、右京区嵯峨鳥居本(とりいもと)、北区上賀茂は重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。[織田武雄]
『藤田元春著『平安京変遷史』(1930・スズカケ出版) ▽竹林俊則著『新撰京都名所図会』全7巻(1957~1965・白川書院) ▽林屋辰三郎著『京都』(1962・岩波新書) ▽林屋辰三郎著『町衆』(1964・中公新書) ▽藤岡謙二郎編『京都』(1962・有斐閣) ▽京都自然研究会編『京都の自然』(1964・六月社) ▽京都市編『京都の歴史』全10巻(1968~1970・学芸書林) ▽『日本の文化地理10』(1968・講談社) ▽『日本歴史地名大系 26 京都市の地名』(1982・平凡社) ▽『日本地名大辞典 京都府』2巻(1982・角川書店) ▽京都新聞社編『京のおばんざい12か月』(1995・京都新聞社) ▽梅原猛著『京都発見』全8巻(1997~ ・新潮社) ▽『京都の大路小路』(2003・小学館) ▽『古写真で語る京都』(2004・淡交社)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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