伊万里(市)(読み)いまり

日本大百科全書(ニッポニカ) 「伊万里(市)」の意味・わかりやすい解説

伊万里(市)
いまり

佐賀県西部、伊万里湾に臨む市。1954年(昭和29)伊万里山代(やましろ)の2町、波多津(はたつ)、黒川、南波多、大川松浦(まつうら)、二里(にり)、東山代(ひがしやましろ)各村の西松浦郡2町7村が合併して市制施行。県下市町村では面積第3位(255.25平方キロメートル)で、市域は伊万里湾岸以外に、唐津湾に注ぐ松浦川水系の内陸部に広がる。集落や耕地は、湾岸や山間盆地などのほかに、第三紀層の山地緩斜面にも分布し、しばしば地すべり災害を体験した。伊万里川や有田川の流入する湾奥部が、市の中心部をなし、旧伊万里津を核とする市街地や干拓地が広がる。JR筑肥線(ちくひせん)と松浦鉄道がここで会合する。また国道202号、204号、498号が走り、西九州自動車道の山代久原、伊万里東府招(いまりひがしふまねき)、南波多谷口(みなみはたたにぐち)の各インターチェンジがある。人口5万2629(2020)。

[川崎 茂]

沿革

湾奥部一帯の開発の歴史は古く、伊万里とは古代条里制の残した地名という説がある。中世には伊万里氏や山代氏ほか松浦(まつら)党諸氏が割拠した。近世に入ると、湾奥部一帯は佐賀藩領となり、伊万里津は、有田皿山(ありたさらやま)など肥前各地の焼物を全国各地に、さらに長崎出島(でじま)を通して遠くヨーロッパにも積み出し、「伊万里焼」「古伊万里」の名を生み出した。大川内(おおかわち)山の佐賀藩窯は、1675年(延宝3)に有田から移したと伝えるが、朝廷幕府、諸大名向けや藩用に限定して、色鍋島(いろなべしま)などの名品を焼成した。また湾岸の瀬戸長浜などは、佐賀藩の重要な製塩地であった。明治以降、鉄道時代を迎えて焼物の積出し地としての機能は衰えたが、近世後期以来の石炭産業が台頭し、旧山代郷などで炭鉱の開発をみた。

[川崎 茂]

産業・観光

1961年(昭和36)当時、立川(たつがわ)、国見、久原(くばら)ほか市域に10の炭鉱を数えたが、1970年すべて閉山した。湾岸の久原炭鉱跡地付近一帯には、伊万里湾総合開発計画の一環として、まず木材合板関係の工業団地が設けられた。さらに名村造船所が進出した七ツ島工業団地など、相次いで工業団地の造成が進められ、大型企業が進出した。伊万里港には、1997年(平成9)にコンテナターミナルが完成、韓国、中国航路を有し、貨物取扱量が急増している。2003年(平成15)には伊万里湾大橋が開通、東西に分かれていた伊万里港の一体化が図られた。

 伝統の大川内山のほかに、窯元を集めた平尾の窯業団地や、外来窯業資本の進出をみた長浜工業団地などもできた。農村部ではナシをはじめ、ブドウ、ミカンなどの果樹栽培も進み、「焼物とフルーツの里」を目ざしている。伊万里焼は国の伝統工芸品の指定を受け、大川内山には窯元を訪れる観光客も多い。また市内には、脇野(わきの)の大念仏、府招浮立(ふまねきふりゅう)、重橋(じゅうばし)の手漉(てす)き和紙、小島古墳のほか各種の文化財、旧跡に富む。伊万里神社秋祭の「トンテントン祭」は、勇壮活発な神事として知られる。

[川崎 茂]

『『伊万里市史 本篇』(1963・伊万里市)』『『伊万里市史 続篇』(1965・伊万里市)』


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