伊勢(読み)いせ

精選版 日本国語大辞典 「伊勢」の意味・読み・例文・類語

いせ【伊勢】

[1]
[一] 東海道十五か国の一つ。古くから皇大神宮の鎮座地として開け、大化改新で一国となる。以後、平、北畠、織田の支配を経て江戸時代は六藩に分かれ、幕府の直轄地山田には奉行が置かれた。廃藩置県後、安濃津、度会(わたらい)県となり、明治九年(一八七六)合併して三重県となる。勢州。神国。
[二] 三重県中部、志摩半島北側にある地名。伊勢神宮鳥居前町として発展。伊勢志摩国立公園の玄関口。明治三九年(一九〇六宇治山田市として市制。昭和三〇年(一九五五)改称。
[三] 旧日本海軍の戦艦。大正六年(一九一七)完成。第二次大戦中、航空戦艦に改装。広島県呉(くれ)で爆撃を受けて大破。排水量三万六千トン。
[2] 〘名〙

いせ【伊勢】

平安前期の女流歌人。三十六歌仙の一人。伊勢守藤原継蔭(つぎかげ)の娘。中務の母。宇多天皇の中宮温子に仕え、藤原仲平、時平、宇多帝らとの恋が、その作品に反映。家集「伊勢集」がある。生没年未詳。

いせ【伊勢】

姓氏の一つ。

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デジタル大辞泉 「伊勢」の意味・読み・例文・類語

いせ【伊勢】[地名]

旧国名の一。現在の三重県の大半。伊勢神宮鎮座の地として古くから開けた。勢州せいしゅう
三重県東部の市。旧称の宇治山田市を昭和30年(1955)に改称。伊勢神宮の鳥居前町として発展。伊勢志摩国立公園表玄関。平成17年(2005)11月、二見町小俣町・御薗町と合併。人口13.0万(2010)。

いせ【伊勢】[人名]

平安前期の女流歌人。三十六歌仙の一人。伊勢守藤原継蔭ふじわらのつぐかげの娘。中務なかつかさの母。宇多天皇寵愛ちょうあいを受けて皇子を産み、伊勢のと呼ばれた。生没年未詳。家集に「伊勢集」がある。

いせ【伊勢】[姓氏]

姓氏の一。
[補説]「伊勢」姓の人物
伊勢貞丈いせさだたけ
伊勢貞親いせさだちか
伊勢長氏いせながうじ

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改訂新版 世界大百科事典 「伊勢」の意味・わかりやすい解説

伊勢[市] (いせ)

三重県南東部の市。2005年11月旧伊勢市と小俣(おばた)町,二見(ふたみ)町および御薗(みその)村が合体して成立した。人口13万0271(2010)。

伊勢市中部の旧市。1906年宇治山田町が市制,55年豊浜,北浜,城田,四郷の4村を編入して改称。人口9万7777(2005)。市域の北部は宮川五十鈴(いすず)川の沖積平地で両河川の中間に市街地が発達,南部は紀伊山地東端の山々におよぶ。山地の北麓に伊勢神宮が造営され,皇室の信仰と保護を受けた。伊勢参りは平安時代に始まり近世を通じて盛んで,とくに何度か流行したお蔭参りでは広く各地から多くの民衆が殺到した。南東の内宮(皇大神宮)には宇治郷,5km北西の外宮(豊受大神宮)には山田郷の鳥居前町が,その中間の古市には歓楽街がそれぞれ発達した。また神領として自治制がしかれ,江戸時代には山田奉行が置かれた。宮川の河口デルタ上の大湊は中世以来港町として栄え,物資や参宮客が勢田水路によって山田へ運ばれた。かつての参宮街道(伊勢路)に代わって現在は,JR参宮線,近鉄山田線,国道23号線,伊勢自動車道などが北から集まり,志摩方面へは参宮線,近鉄鳥羽線,国道167号線,伊勢志摩スカイライン,伊勢道路(1985年無料開放)などが通じている。伊勢志摩国立公園の玄関口,南勢地方の中心地として第3次産業が主体であるが,大湊には近世以来の伝統をもつ中小造船所が立地する。内宮と外宮の中間にある倉田山公園の神宮農業館,神宮徴古館,神宮文庫には,多数の資料,文化財,古文書類が収蔵されている。
伊勢神宮 →山田
執筆者:

伊勢市北西端の旧町。旧度会(わたらい)郡所属。人口1万8986(2005)。旧伊勢市に接する。西部に小丘陵があるほかは,大部分が伊勢平野の南東部に当たる沖積低地である。東端を宮川が北流し,土地は全体的に肥沃である。古くからの伊勢神宮領で,南北朝期に斎王の制が廃止されるまで離宮院が置かれた。離宮院(跡は史跡)は斎王の離宮,大神宮司の政庁であり,駅家(《延喜式》の度会駅)でもあった。江戸時代は宮川の下の渡場,参宮街道の宿場として栄えたが,鉄道開通後,一時衰退した。基幹産業は農業で,米作を中心に野菜,タバコの栽培が行われる。特にダイコンの産が多く,伊勢沢庵として出荷される。大正以降,繊維工業を中心とする産業が発達し,現在では大規模な繊維工場も立地する。明野地区に陸上自衛隊航空学校がある。JR参宮線,近鉄山田線が通じる。

伊勢市北東端の旧町。旧度会郡所属。人口9095(2005)。五十鈴川の河口に位置し,北は伊勢湾に面する。古くから伊勢神宮へ塩と贄(にえ)を調進してきた地であり,二見浦(ふたみがうら)の海浜は神宮参詣者の禊(みそぎ)の場であった。一時期,鳥羽の九鬼氏の支配下に置かれたが,1633年(寛永10)神領に復した。中心集落の江(え)は廻船業の盛んな港町であり,また二見興玉(おきたま)神社の鳥居前の町としてにぎわった。町全体が伊勢志摩国立公園に含まれ,日本で最も古い海水浴場の一つとして知られ,訪れる観光客も多い。太江寺の木造千手観音座像,明星寺の木造薬師如来座像はともに重要文化財。二見浦の中央部,荘(しよう)地区の海岸の松林中には伊勢神宮に供進する塩を製する御塩殿(みしおでん)があり,今日も御塩浜の塩田で作られた塩を堅塩に製して神宮に納めている。JR参宮線,国道167号線が通じる。

伊勢市北西部の旧村。旧度会郡所属。人口9115(2005)。宮川河口右岸に位置し,全域が伊勢平野に属する沖積低地で,北・東・南の三方を旧伊勢市に囲まれる。古くは伊勢神宮領の御厨(みくりや)や御薗が置かれた地で,大湊一帯に設置されていた大塩屋御薗には小林(おはやし)など当村域も含まれ,製塩が行われていた。江戸時代は神宮領のほか幕府領もあり,寛永年間(1624-44)には山田奉行の役宅が有滝から小林に移された。肥沃な土壌にめぐまれ,米作や野菜栽培のほか施設園芸や果樹栽培も盛んで,伊勢沢庵の産地として知られていた。旧伊勢市のベッドタウンとして住宅地化が進んでいる。高向(たかぶく)神社で毎年2月に催される御頭神事は国の重要無形民俗文化財。近鉄山田線,国道23号線が通じる。
執筆者:

伊勢 (いせ)
生没年:877ころ-938ころ(元慶1ころ-天慶1ころ)

平安前期の女流歌人。三十六歌仙の一人。伊勢御(いせのご),伊勢の御息所(みやすどころ)ともいう。父藤原継蔭は伊勢守等を歴任した受領であった。伊勢は宇多天皇の中宮温子(関白太政大臣昭宣公藤原基経の三女)に仕えた。伊勢と温子との仲は睦まじかったらしい。若いころに藤原仲平(のちの枇杷左大臣)との恋愛があり,贈答の作が残る。その後,宇多天皇の寵を受け,皇子を生んだ。皇子は早世,中宮温子も907年(延喜7)他界した。そのときの長歌が《古今集》に残る。その後,中務卿敦慶親王の愛をうけ,のちの女流歌人中務(なかつかさ)をもうけた。彼女の晩年についてはよくわからない。作歌は《古今集》に22首,《後撰集》に69首,いずれも女流最多の入集である。家集の《伊勢集》は約500首と大きく,没後まもなく成立していた。これは冒頭部分が歌物語的に構成された特異な家集である。百人一首に〈難波潟みじかき葦の節の間もあはで此世を過ぐしてよとや〉がある。
執筆者:

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朝日日本歴史人物事典 「伊勢」の解説

伊勢

没年:天慶2頃(939)
生年:生年不詳
平安時代の歌人。三十六歌仙のひとり。伊勢御,伊勢御息所とも呼ばれる。父は伊勢守,大和守などを歴任した藤原継蔭。宇多天皇の女御温子の女房として出仕,父の任国によって伊勢と呼ばれた。温子の兄である藤原仲平との恋の破局から一時父のいる大和に下ったあと,再び出仕,仲平の兄時平などとの恋愛ののち,宇多天皇の寵を受け皇子を生んだが,その皇子は幼くして没した。温子の没後,宇多天皇の皇子敦慶親王の愛人となり,歌人として知られる中務を生んだ。『古今集』編集に先立ち醍醐天皇から家集の提出を求められ,「春霞立つを見捨ててゆく雁は花なき里に住みやならへる」など,女性では最高の22首が入集。次の『後撰集』には70首もの作が採られるなど,宇多・醍醐・朱雀朝にわたって当時の歌風を代表する歌人のひとりとして活躍。華やかな恋愛遍歴の中で生み出された秀歌も多いが,宇多天皇の命により長恨歌屏風の歌を詠進するなど,依頼されて詠作する専門歌人として,屏風歌や歌合にも多くの歌を詠んでいる。家集『伊勢集』は冒頭約30首に物語的な詞書を伴っており,その部分は特に『伊勢日記』とも呼ばれて,歌物語や女流日記文学とのかかわりが注目されている。やがて最盛期を迎える平安女流文学の先駆者として,『源氏物語』などに与えた影響はきわめて大きく,中世には『伊勢物語』の作者にも擬せられていた。<参考文献>片桐洋一『日本の作家7/伊勢』,秋山虔『王朝の歌人5/伊勢』

(山本登朗)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「伊勢」の意味・わかりやすい解説

伊勢
いせ

生没年不詳。平安前期の女流歌人。三十六歌仙の一人。大和守(やまとのかみ)藤原継蔭(つぐかげ)の娘で、宇多(うだ)天皇の后(きさき)温子(おんし)に仕えた。伊勢という名称は父の前任地名をとったものらしい。詳しい閲歴は不明。最初に関係をもった男性はおそらく温子の兄弟である仲平(なかひら)で、この恋はまもなく破局を迎えるが、のち宇多天皇に愛されるようになり、皇子(夭逝(ようせい))を生んだ。「伊勢の御(ご)」「伊勢の御息所(みやすんどころ)」とよばれたりするのはそのためであるが、天皇の愛を受け入れるようになってからも、最後まで温子のもとに仕えていたようである。897年(寛平9)宇多天皇が退位し、907年(延喜7)温子が崩御するが、宇多天皇の第4皇子敦慶(あつよし)親王と深い交渉をもつようになったのは、おそらくそのあとのことで、伊勢は10歳以上年長であった。930年(延長8)に親王が没するまで、2人の関係は続いたらしく、両者の間に生まれたのが歌人中務(なかつかさ)である。『古今和歌集』に22首、『後撰(ごせん)和歌集』に71首、勅撰集あわせて200首近い収録歌が示すように、平安期女流の第一人者であった。家集に『伊勢集』がある。

 難波潟(なにはがた)短き芦(あし)のふしの間も逢(あ)はでこの世を過ぐしてよとや
[久保木哲夫]


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「伊勢」の意味・わかりやすい解説

伊勢
いせ

[生]元慶1(877)頃
[没]天慶2(939)頃
平安時代中期の女流歌人。三十六歌仙の一人。父は藤原継蔭 (つぐかげ) 。寛平2 (890) 年前後に宇多天皇皇后温子 (おんし) に仕え,藤原仲平,その兄時平,平貞文らと文通し,同8年頃宇多天皇の寵愛を受けた。のち敦慶 (あつよし) 親王と関係し,歌人中務 (なかつかさ) を生んだ。洗練された技巧的歌風は紀貫之と並称されるほどで,『古今集』以下の勅撰集に 200首近く入集。家集に『三十六人集』の一つである『伊勢集』があり,その冒頭部分は物語的で,『伊勢日記』とも呼ばれる。歌合の出詠,屏風歌の詠作も多く,『亭子院歌合』 (913) の仮名日記は伊勢の作といわれている。

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百科事典マイペディア 「伊勢」の意味・わかりやすい解説

伊勢【いせ】

平安前期の歌人。三十六歌仙の一人。藤原継蔭の女。父は伊勢守等を歴任した受領で,これによって伊勢と呼ばれたらしい。宇多天皇の中宮温子に仕え,のち天皇の寵を得,皇子を産んだ(早世)。その後敦慶親王との間に女性歌人中務(なかつかさ)を産んだ。《古今和歌集》以下勅撰集に約180首入集,家集に《伊勢集》がある。→中務内侍日記

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デジタル大辞泉プラス 「伊勢」の解説

伊勢

日本海軍の戦艦。伊勢型戦艦の1番艦。1916年進水、1917年就役の超弩級戦艦。のちに航空戦艦に改装される。第二次世界大戦末期の呉軍港空襲により被弾して大破。戦後浮揚され、解体された。

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世界大百科事典(旧版)内の伊勢の言及

【三重[県]】より

…面積=5773.66km2(全国25位)人口(1995)=184万1358人(全国23位)人口密度(1995)=319人/km2(全国20位)市町村(1997.4)=13市47町9村県庁所在地=津市(人口=16万3156人)県花=ハナショウブ 県木=神宮スギ 県鳥=シロチドリ近畿地方の東部にある県。南北に細長く,北東は伊勢湾,南東は熊野灘に臨む。愛知県,岐阜県,滋賀県,京都府,奈良県,和歌山県に隣接する。…

【伊勢物語】より

…古くは《在五が物語》《在五中将日記》などの異称もあった。書名の由来も,伊勢(伊勢御(いせのご))の筆作にかかること,〈伊勢〉は〈えせ(似而非)〉に通ずること,巻頭に伊勢斎宮の記事があること,などをそれぞれ根拠に挙げる諸説があったが,なお不明である。作者も上の伊勢の説のほか,在原業平自記説もあり,紀貫之説も近年有力となりつつあるが,これまた特定は困難であろう。…

※「伊勢」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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