佐伯藩(読み)さいきはん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「佐伯藩」の意味・わかりやすい解説

佐伯藩
さいきはん

豊後(ぶんご)国(大分県海部(あまべ)郡地方を領有した藩。外様(とざま)。1601年(慶長6)毛利高政(もうりたかまさ)が日田(ひた)郡隈(くま)城(日田市)より転封して成立。朱印高は2万石。塩屋村八幡山(はちまんやま)(佐伯市)に佐伯城鶴屋(つるや)城)を築き、城下町を開いた。藩主は高政のあと高成(たかなり)、高尚(たかなお)、高重、高久、高慶(たかよし)、高丘(たかおか)、高標(たかすえ)、高誠(たかのぶ)、高翰(たかなか)、高泰(たかやす)、高謙(たかかた)の12代を経て幕末に至る。入部と同時に高政の弟吉安(よしやす)に2000石が分与されるが、1633年(寛永10)に家督争いの結果、幕府に返上され、以後幕府領となる。この公領は、1668年(寛文8)から1783年(天明3)の間の日田代官支配期間を除き、佐伯藩預りとなっている。産業面では、長い海岸線をもつ地形の特色から漁業が盛んで、とくに佐伯干鰯(ほしか)は、大和(やまと)、河内(かわち)、摂津などの畿内(きない)綿作(わたさく)地帯で名声を保持していた。ほかに、山間部での紙、炭、樵木(こりき)、茶などの特産品があった。文化面では、8代藩主高標のとき、藩校四教(しこう)堂が創立され、また約8万巻の書籍が収集され、「佐伯文庫」と称した。この文庫のうち2万冊余は、高翰のとき幕府に献上された。1871年(明治4)廃藩、佐伯県を経て大分県に編入

[豊田寛三]

『『大分県史 近世Ⅰ』(1983・大分県)』

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藩名・旧国名がわかる事典 「佐伯藩」の解説

さいきはん【佐伯藩】

江戸時代豊後(ぶんご)国海部(あまべ)郡佐伯(現、大分県佐伯市)に藩庁をおいた外様(とざま)藩。藩校は四教堂(しこうどう)。1601年(慶長(けいちょう)6)、毛利高政(もうりたかまさ)が2万石で入封(にゅうほう)して立藩。高政は佐伯城を築き、城下町を建設。毛利氏の支配は以後、明治維新まで12代続いた。8代藩主の高標(たかすえ)は藩財政の再建に尽力したほか、1777年(安永6)に藩校の四教堂を創設、81年(天明(てんめい)1)には約8万冊にのぼる「佐伯文庫」を開設した。豊後水道に臨むリアス式の漁場を持ち、干鰯(ほしか)や因尾(いんび)茶・シイタケなどが特産品。1871年(明治4)の廃藩置県により、佐伯県を経て大分県に編入された。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「佐伯藩」の意味・わかりやすい解説

佐伯藩
さえきはん

江戸時代,豊後国 (大分県) 海部郡におかれた藩。慶長6 (1601) 年同国隈府より毛利高政2万石が転入したのに始る。毛利高政は,初め森高政といって豊臣秀吉に仕えていたが,備中高松城攻撃の際,秀吉と毛利氏の和議により,高政は毛利氏へ人質となる。その際,毛利輝元の命により森を毛利と改める。その後種々の軍功により2万石を加増され,隈府より佐伯へ移って廃藩置県にいたる。外様,江戸城柳間詰。

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デジタル大辞泉プラス 「佐伯藩」の解説

佐伯藩

豊後国、佐伯(現:大分県佐伯市)を本拠地とし、海部(あまべ)郡の南半分を領有した外様の小藩。関ヶ原の戦いの後、毛利高政が2万石で入封。佐伯城を築き、城下町を整備した。以後、毛利氏が明治維新まで統治。8代高標(たかすえ)が開設した「佐伯文庫」が有名。

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