光永平蔵(読み)みつなが・へいぞう

朝日日本歴史人物事典 「光永平蔵」の解説

光永平蔵

没年:文久2.10.9(1862.11.30)
生年:生年不詳
江戸後期の治水功労者。熊本藩木倉手永惣庄屋光永円右衛門惟影の養子。名は惟詳,通称はじめ次郎助。天保2(1831)年養父の跡を継いで惣庄屋となるが,10年病を得て辞任した。14年,再び芦北郡湯浦手永・久木野手永惣庄屋,益城郡木倉手永に所替となり,文久2(1862)年病死するまで惣庄屋を務めた。在職した30年間に多くの水利橋梁工事を手がけた。御船上町の石造2連の眼鏡橋,七滝村八勢の石造眼鏡橋,嘉永井手がその代表的成果である。なかでも嘉永新井手は7年を費やして北中島亀甲川を水源とし,20カ所余,900mの隧道を穿って延長28kmの水路を貫通させ,数百町歩の新田を開発し米穀産出を可能にした。<参考文献>武藤厳男『肥後先哲偉蹟』

(松本寿三郎)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「光永平蔵」の解説

光永平蔵 みつなが-へいぞう

1804-1862 江戸時代後期の治水家。
文化元年生まれ。肥後(熊本県)益城郡(ましきぐん)木倉手永(きのくらてなが)の惣(そう)庄屋,光永惟影の養子。嘉永(かえい)元年(1848)石造の御船川(みふねがわ)眼鏡橋をきずき,安政6年(1859)御船町地域に「嘉永の井手(用水路)」をひらいた。文久2年10月9日死去。59歳。本姓は加来。名は惟詳(これよし)。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

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