公暁(読み)クギョウ

デジタル大辞泉 「公暁」の意味・読み・例文・類語

くぎょう〔クゲウ〕【公暁】

[1200~1219]鎌倉幕府第2代将軍源頼家の子。幼名善哉。父の死後出家して鎌倉鶴岡つるがおか八幡宮別当となる。実朝さねともを父の仇と信じ、八幡宮境内で斬殺ざんさつ。のち、逃れて頼った三浦義村部下に殺された。

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精選版 日本国語大辞典 「公暁」の意味・読み・例文・類語

くぎょう クゲウ【公暁】

鎌倉幕府二代将軍源頼家の第三子。鎌倉鶴岡八幡宮寺別当。幼名善哉。将軍源実朝を父の仇と信じて、八幡宮の社前刺殺。有力御家人三浦義村を頼って将軍になろうとしたが義村に殺された。正治二~建保七年(一二〇〇‐一九

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「公暁」の意味・わかりやすい解説

公暁
くぎょう

[生]正治2(1200).鎌倉
[没]承久1(1219).1.27. 鎌倉
鎌倉幕府2代将軍源頼家の3男。鶴岡八幡宮寺別当。母は源為朝の孫娘。父横死の翌元久2 (1205) 年北条政子の計らいで鶴岡八幡宮に入る。建暦1 (11) 年,同寺別当尊暁の室で落飾。上洛して園城寺で修行後,建保5 (17) 年尊暁の跡を継いで鶴岡八幡宮寺別当となる。この頃3代将軍源実朝北条義時らを父の敵と知り,報復の機会をうかがった。承久1 (19) 年1月 27日夜,実朝の右大臣就任拝賀の式典が鶴岡八幡宮で行われたとき,実朝を社前で殺し,乳母の夫三浦義村を頼ったが,逆に三浦氏の家人長尾定景に殺された。この二重暗殺事件は北条義時の謀略であるとも,また三浦義村の陰謀であるともいわれる。

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改訂新版 世界大百科事典 「公暁」の意味・わかりやすい解説

公暁 (くぎょう)
生没年:1200-19(正治2-承久1)

鎌倉2代将軍源頼家の子。乳母は三浦義村妻。父の没後鶴岡八幡宮寺別当尊暁の弟子となり(公暁は法名),1217年(建保5)鶴岡別当に就く。3代将軍実朝を父の敵とし,19年1月実朝が右大臣拝賀の儀を鶴岡八幡宮で行うのを機に実朝を刺殺,みずから将軍たらんとして三浦義村に援助を請うたが逆に義村によって殺された。公暁を扇動したのは北条義時とも三浦義村ともいわれる。
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百科事典マイペディア 「公暁」の意味・わかりやすい解説

公暁【くぎょう】

源頼家の子。父の死後僧となり,園城(おんじょう)寺で灌頂(かんじょう)を受けたあと,鶴岡(つるがおか)八幡宮の別当。1219年北条義時(三浦義村とも)に,父の死は叔父実朝の策であるとそそのかされ実朝を鶴岡八幡宮で暗殺,三浦義村の助けを求めて将軍職を望んだが,義村は応ぜず逆に殺された。→源実朝

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「公暁」の意味・わかりやすい解説

公暁
くぎょう
(1200―1219)

鎌倉幕府第2代将軍源頼家(よりいえ)の三男。幼名善哉。北条氏を中心とする幕府中枢の暗闘に巻き込まれ、数奇な短い生涯を終えた。1204年(元久1)に父の頼家が殺されると、祖母である北条政子(まさこ)の計らいで鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)に入り、ついで将軍実朝(さねとも)の猶子(ゆうし)となった。11年(建暦1)落飾、法名を公暁と称し、受戒のため京に上った。17年(建保5)政子の命で鎌倉に帰り、鶴岡八幡宮別当(べっとう)となった。19年(承久1)正月27日の夜、鶴岡八幡宮境内において、右大臣拝賀の参拝を終えて退出する実朝を、親の仇(かたき)とよばわって殺害。乳母(うば)の夫である三浦義村(みうらよしむら)を頼ったが、かえって義村の差し向けた討っ手によって殺された。

[山本博也]

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朝日日本歴史人物事典 「公暁」の解説

公暁

没年:承久1.1.27(1219.2.13)
生年:正治2(1200)
鎌倉前期の僧。父は2代将軍源頼家,母は賀茂重長の娘。幼名は善哉。三浦義村を乳父として成長し,父が将軍職を廃されてのち,鶴岡八幡宮寺別当の尊暁の弟子となり,建永1(1206)年には将軍源実朝の猶子となるが建暦1(1211)年に落飾して公暁と称した。次いで上洛して三井寺で修行したのち,建保5(1217)年に鶴岡八幡宮寺の別当に迎えられた。しかし叔父実朝を父の敵と狙って,承久1(1219)年1月の実朝の右大臣拝賀の儀式の直後に,実朝と剣役の源仲章を殺害すると,「親の敵はかく討つぞ」と叫んでその首を持って三浦義村の許に駆け付けたが,そこで逆に殺害される。こうして源氏は3代で滅んだ。古来,実朝暗殺の黒幕をめぐって諸説があるが,真相は不明。

(五味文彦)

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「公暁」の解説

公暁
くぎょう

1200~19.1.27

鎌倉幕府の将軍源頼家の子。母は賀茂重長の女。幼名は善哉(ぜんさい)。頼家の死後,1206年(建永元)に叔父実朝の猶子となる。11年(建暦元)出家,その後近江国の園城(おんじょう)寺で修行。17年(建保5)鎌倉に戻り,鶴岡八幡宮寺の別当となる。父の死は実朝によるとしてこれを恨み,19年(承久元)鶴岡八幡宮の実朝の右大臣拝賀の儀式を襲い,実朝と源仲章(なかあきら)を殺害。事件後,三浦義村を頼ったが,義村は味方せず逆に討手を派遣し,その日のうちに討たれた。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「公暁」の解説

公暁 くぎょう

1200-1219 鎌倉時代の僧。
正治(しょうじ)2年生まれ。2代将軍源頼家の子。父の死後鎌倉の鶴岡八幡宮寺別当となる。叔父の3代将軍源実朝を父の仇(かたき)と信じ,建保(けんぽ)7年1月27日八幡宮境内で殺害。ついで将軍職につこうと三浦義村をたよるが,同日夜義村の配下に討たれた。20歳。公暁をそそのかしたのは,北条義時とも,義村ともいう。幼名は善哉。

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旺文社日本史事典 三訂版 「公暁」の解説

公暁
くぎょう

1200〜19
鎌倉前期,鎌倉幕府2代将軍源頼家の第3子
母は賀茂重長の娘。父の死後,鶴岡八幡宮の別当となる。父の死は叔父3代将軍実朝の陰謀によるものと疑い,1219年実朝を鶴岡八幡宮で暗殺。その後すぐに捕らえられて殺された。

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世界大百科事典(旧版)内の公暁の言及

【北条義時】より

… 1213年(建保1)には侍所別当和田義盛を滅ぼし,政所別当に加えて侍所別当をも兼ねるようになり,いよいよ権勢を強めた。19年(承久1)実朝が鶴岡八幡宮で頼家の遺児公暁(くぎよう)に殺され,公暁も三浦義村に殺され,源氏の正統は絶えた。従来公暁をそそのかして実朝を殺させたのは義時だとされてきたが,その確証はない。…

※「公暁」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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