劉暁波(読み)リウシャオボー(英語表記)Liu Xiaobo

デジタル大辞泉 「劉暁波」の意味・読み・例文・類語

リウ‐シャオボー【劉暁波】

[1955~2017]中国作家・詩人・人権活動家。吉林省長春生まれ。コロンビア大学の客員研究員として米国滞在中に天安門事件が起こり、帰国して参加。反革命罪で投獄された。その後も投獄と釈放がくり返され、2008年、共産党による独裁を批判し三権分立を求める「08憲章」を起草し、国家政権転覆扇動罪で4度目の投獄。服役中の2010年にノーベル平和賞受賞獄中で発病し2017年6月に仮出獄となったが、翌月、死去した。

りゅう‐ぎょうは〔リウゲウハ〕【劉暁波】

リウシャオボー(劉暁波)

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知恵蔵 「劉暁波」の解説

劉暁波

中国の作家・詩人で人権活動家。2010年10月、民主化と基本的人権を求める長年の非暴力活動が高く評価され、ノーベル平和賞を受賞した。中国民主化闘争の象徴的存在だが、現在、遼寧省錦州市の刑務所に服役中。中国人としては、全部門を通して初のノーベル賞受賞者にもかかわらず、中国政府は「国の法律を犯した罪人への授与は平和賞を汚すもの」として、ノルウェーの同賞委員会を激しく非難し、当局の管理下にある国内メディアも、受賞決定のニュースをほとんど報じなかった。
劉氏は1955年吉林省長春市生まれ。吉林大学文学部卒業後、北京師範大学で文学博士号を取得した。在学中から多くの文芸時評や反体制論文を発表し、その鋭利な洞察力と舌鋒(ぜっぽう)鋭い筆致は、国内外の注目を浴びた。北京師範大学で講師を務めながら、オスロ大学(ノルウェー)とハワイ大学の教壇にも立っている。
コロンビア大学客員研究員として在米中の89年、中国での民主化の気運の高まりを知ると、ニューヨークから帰国し、民主化運動の学生たちに合流した。同年6月4日に起こった天安門事件では、学生と一緒にハンスト運動を決行。人民解放軍の広場への突入を知ると、学生に武器を放棄させる一方、周舵・侯徳健・高新とともに軍との交渉にあたり、「四君子」(4人の指導的知識人)として注目される。しかし事件後、反乱の扇動者として拘束され、91年まで「反革命罪」で投獄された。
事件後、多くの活動家が亡命したにもかかわらず、国内にとどまって体制批判を続け、二度(95年、96~99年)にわたって投獄・強制労働の刑を受けた。その後も、当局の様々な圧力に屈することなく、言論による民主化運動を続けながら、天安門事件の犠牲者遺族の支援活動なども行っている。2008年12月には、憲法改正、三権分立、言論・集会の自由など19項目を掲げる「08憲章」を起草し、作家・学者・弁護士など著名知識人303人との連名でインターネットに発表。その後、海外を含め1万人の賛同署名を集めるが、憲章発表の前日に拘束され、10年2月に「国家政権転覆扇動罪」の罪で、懲役11年の実刑判決を受けた。平和賞受賞を機に、国際社会から釈放を求める声が高まったが、2010年11月現在もまだ投獄中。

(大迫秀樹  フリー編集者 / 2010年)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「劉暁波」の意味・わかりやすい解説

劉暁波
りゅうぎょうは
Liu Xiaobo

[生]1955.12.28. 吉林,長春
[没]2017.7.13. 遼寧,瀋陽
中国の人権活動家,文筆家,教師。10代の頃数年間,文化大革命期の下放により家族とともに辺境の農村で過ごす。1982年に吉林大学文学部を卒業後,北京師範大学で文学修士号(1984)と博士号(1987)を取得。1988~89年に欧米の大学に客員研究員として迎えられる。1989年に北京で学生を中心とした民主化運動が起こると,ニューヨークから急きょ帰国しハンガーストライキに参加。中国人民解放軍がデモ隊を武力弾圧した天安門事件のあと,残った学生が安全に撤退できるよう軍と交渉し暴力の拡大を防いだ。その活動は比較的穏健だったが,以後 20年にわたって中国当局による監視が行なわれ,活動も制限された。2008年12月,世界人権宣言の 60周年に合わせて中国の民主主義体制移行を訴える「08憲章」を起草,発表したことにより,2009年に国家政権転覆扇動罪で懲役 11年の判決を受けた。2010年,中国での基本的人権の確立のため長年にわたり非暴力の闘いを続けてきたという理由でノーベル平和賞が授与されたが,服役中のため授賞式には出席できなかった。代表作に現代の儒教思想家を批判した第一作『選擇の批判──李沢厚との対話』(1988)があり,雑誌に文芸批評や詩も発表。1990年以降,作品のほとんどは国外で出版されている。2017年5月には末期の肝臓癌と診断され,翌 6月に健康上の理由による仮釈放が認められたが,当局に監視されながらの入院生活となった。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「劉暁波」の意味・わかりやすい解説

劉暁波
りゅうぎょうは / リウシャオボー
(1955―2017)

中国の反体制活動家、作家。吉林(きつりん)省出身。文化大革命中に農村部に送られ数年間、農作業に従事した経験をもつ。その後吉林大学で中国文学を学び、北京(ペキン)師範大学で修士、博士号を取得したあと、大学講師となった。在学中に文学評論家の大御所である李沢厚(りたくこう)(1930―2021)を激しく批判し「文壇のダークホース」と称され注目された。ノルウェーのオスロ大学やアメリカのコロンビア大学で客員研究員をも務めた。1989年春、北京で民主化を求めるデモが発生すると、学生を指導する民主化運動のリーダーとなった。人民解放軍による武力行使が迫るなか、天安門広場でハンガー・ストライキを敢行、最後まで広場に残り学生に撤収を説得し、多くの流血を回避した。事件後、反革命罪で約2年間投獄されたが、釈放後も人権や民主化を求める文章を書き続け、当局の厳しい監視下に置かれた。2008年末に共産党の一党独裁を批判する「零八憲章」のおもな起草者となり、ふたたび逮捕された。国家政権転覆扇動罪に問われて懲役11年の判決が下され、遼寧(りょうねい)省錦州(きんしゅう)市の刑務所で服役。「中国における基本的人権のために長年、非暴力的な闘いをしてきた」ことなどを理由に、2010年ノーベル平和賞を受賞した。

[矢板明夫]

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百科事典マイペディア 「劉暁波」の意味・わかりやすい解説

劉暁波【りゅうぎょうは】

中国の批評家,民主活動家。2010年,ノーベル平和賞受賞。中国在住の人としては最初のノーベル賞受賞者だが,中国政府によって投獄服役中で授賞式に出席できなかった。吉林省長春の生まれ。82年,吉林大学卒業,86年,北京師範大学文学系博士課程を終え,学位取得(文芸学博士)。李沢厚批判で,気鋭の文学批評家として国際的に注目され,オスロ大,ハワイ大で教える。89年,コロンビア大に客員研究員として滞在中に天安門事件(六四天安門事件)が起こり,帰国して,学生たちの民主化運動に参加。89年から再々投獄されるが,99年釈放後,北京の萬聖書園などを拠点として批評活動を続ける。2008年,民主化を求める《08憲章》を起草したかどで拘束,国家転覆煽動罪で起訴され,10年,懲役11年,政治的権利剥奪2年の刑が確定。中国政府は,劉暁波のノーベル平和賞受賞をめぐって,ノルウェー政府,ノーベル平和賞選考委員会に抗議活動を行い,各国に授賞式を欠席するよう圧力をかけた。授賞式に欠席したのは17ヵ国といわれる。

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知恵蔵mini 「劉暁波」の解説

劉暁波

中国の作家、人権活動家。1955年12月28日、同国吉林省生まれ。北京師範大学で文学修士号・博士号を取得し、講師も務める。89年4月、北京で学生を中心とした民主化運動が始まると、研究のため滞在していた米国から帰国して参加。これを軍が武力弾圧した同年6月の天安門事件では、軍と学生の双方に衝突を回避するよう説得し、犠牲の拡大を防いだ。事件後は反革命宣伝扇動罪で投獄されたが、91年の釈放後も国内にとどまり、2008年、中国共産党の一党独裁の放棄、言論の自由、司法の独立などを訴える「08憲章」の起草で中心的役割を果たした。その後、中国当局に拘束され、10年に国家政権転覆扇動罪で懲役11年の実刑判決が確定した。服役中の10年、ノーベル平和賞を受賞。17年5月に末期の肝臓がんであることが判明し、海外での治療を希望するも中国当局の許可が得られず、同年7月、刑務所外の病院で死去した。享年61。

(2017-7-19)

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