加藤 和彦(読み)カトウ カズヒコ*

新撰 芸能人物事典 明治~平成 「加藤 和彦」の解説

加藤 和彦
カトウ カズヒコ*


職業
ミュージシャン 音楽プロデューサー

グループ名
グループ名=フォーク・クルセダーズ,サディスティック・ミカ・バンド

生年月日
昭和22年 3月21日

出身地
京都府

学歴
龍谷大学経済学部中退

経歴
京都で仏像作りを生業とする家に生まれる。青春時代は東京で過ごしたが、高校を卒業後、京都に戻る。龍谷大学在学中の昭和40年、長く東京にいたため友人がいなかったことから、「メンズクラブ」の投稿欄で友人を募集した際、意気投合した北山修ら5人のメンバーでフォーク・クルセダーズを結成。活動の中でメンバーは北山、平沼義男の3人となり、就職の時期を迎えて、アルバム「ハレンチ」を自主制作したところ、その中に収録されていたオリジナル曲で自身の作曲による「帰って来たヨッパライ」がラジオでオンエアされ、ユーモアと小技の利いた歌詞と、テープの早回しによる独特の歌声で大きな反響を巻き起こした。これがきっかけで1年間の期間限定で活動を続行することにし、家の都合で脱退した平沼の代わりに、はしだのりひこが加入。同曲は280万枚以上のセールスを記録した。43年にはシングル第二弾として作詞家の松山猛から聞いた北朝鮮の曲をもとに「イムジン河」をレコーディングしたが、政治的な配慮により発売中止となった為、「悲しくてやりきれない」を発表し、見事これをヒットさせた。その後も「青年は荒野をめざす」、ズートルビーの名義による「水虫の唄」などをヒットチャートに送り込むが、同年10月予定通り解散。以後はソロとして活動し、46年には北山との連名でリリースした「あの素晴しい愛をもう一度」がヒットした。英国のフォーク・ロック・シンガーのドノヴァンに傾倒し、友人たちからトノバンの愛称で呼ばれた。47年当時の妻であった加藤ミカをフィーチャーし、ギタリストの高中正義、ドラマー角田ひろ(つのだ☆ひろ)とサディスティック・ミカ・バンドを結成。のちドラムが角田から高橋幸宏に替わり、ベーシストとして小原礼が加入したメンバーで、48年ファーストアルバム「サディスティック・ミカ・バンド」を発表、欧米で高く評価された後、逆輸入され日本でもヒット。さらにビートルズやピンク・フロイドらを手がけたクリス・トーマスをプロデューサーに迎えた49年のセカンドアルバム「黒船」からはヒット曲「タイムマシンにおねがい」が生まれ、アルバムも日本を含む世界中で好評を博した。50年にはブライアン・フェリー率いる英国のバンド、ロキシー・ミュージックのサポートとして全英ツアーを敢行し、熱烈な歓迎を受けた。同年バンドを解散してからは再びソロ活動に入り、すぐれた趣味的嗅覚に裏打ちされた先進性と実験性で、常に時代を先取りした音楽性の高い作品を制作。52年に結婚した作詞家の安井かずみとは公私ともに名パートナーで、平成6年に安井が亡くなるまで9つのアルバムを共作。特に、昭和54年から56年にかけて発表した「パパ・ヘミングウェイ」「うたかたのオペラ」「ベル・エキセントリック」の3部作では、大人の雰囲気とゴージャスな感覚とを前面に押し出し、ソロ・アーティストとしての地位を不動のものとした。他のアルバムに「ぼくのそばにおいでよ」「それから先のことは…」「あの頃、マリーローランサン」「マルタの鷹」「ヴェネチア」「ボレロ・カリフォルニア」などがある。作曲家としても、ベッツィ&クリス「白い色は恋人の色」、アグネス・チャン「妖精の詩」、竹内まりや「不思議なピーチパイ」、岡崎友紀「ドゥ・ユー・リメンバー・ミー」、飯島真理「愛・おぼえていますか」をはじめ、井上陽水、オフコース、森山良子、トワ・エ・モワら多くの歌手に楽曲を提供。吉田拓郎「結婚しようよ」、泉谷しげる「春夏秋冬」のアレンジ、プロデュースも手がけた。平成元年ファッション・モデルの桐島かれんをボーカルに迎えてサディスティック・ミカ・バンドを再結成。18年には木村カエラを3代目のボーカルに起用し、サディスティック・ミカ・バンドを再々結成した。14年フォーク・クルセダーズ時代のシングル「イムジン河」を、発売中止以来初めて音盤として発売。同年北山、アルフィーの坂崎幸之助とフォーク・クルセダーズを再結成しアルバム「戦争と平和」をリリース。17年「イムジン河」を通じて友情を描く日朝高校生たちを描いた映画「パッチギ!」(井筒和幸監督)の音楽を担当。19年坂崎とユニット・和幸(かずこう)を結成。同年音楽ドキュメンタリー映画「サディスティック・ミカ・バンド」に出演(企画も)。歌舞伎の3代目市川猿之助と組んでスーパー歌舞伎「オグリ」「新・三国志」「新・三国志 II」「新・三国志 III」「ヤマトタケル」の音楽も手がけている。この間、7年オペラ歌手の中丸三千絵と再婚したが、12年離婚。21年軽井沢のホテルで縊死した。

受賞
FNS歌謡祭グランプリ最優秀作曲賞(第7回)〔昭和55年〕,日本アカデミー賞音楽賞〔昭和59年〕「探偵物語」,ベスト・ドレッサー賞〔平成3年〕,日本レコード大賞(特別功労賞 第51回)〔平成21年〕

没年月日
平成21年 10月16日 (2009年)

伝記
加藤和彦ラスト・メッセージヤンタンの時代。読むJ‐POP―1945〜2004男たちの食宴歌謡曲男の本質(ピンポイント)国際艶歌主義日本ロック学入門深田祐介の東西トラベル対談 加藤 和彦 著,松木 直也 聞き手・構成渡辺 一雄 著田家 秀樹 著石川 次郎 著林 哲司 著諸井 薫 著平岡 正明 著相倉 久人 著深田 祐介 ほか著(発行元 文芸春秋角川書店朝日新聞社ソニー・マガジンズ音楽之友社河出書房新社時事通信社新潮社新潮社 ’09’05’04’04’04’91’88’86’86発行)

出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報

367日誕生日大事典 「加藤 和彦」の解説

加藤 和彦 (かとう かずひこ)

生年月日:1947年3月21日
昭和時代;平成時代のミュージシャン;音楽プロデューサー

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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