加賀一向一揆(読み)かがいっこういっき

日本大百科全書(ニッポニカ) 「加賀一向一揆」の意味・わかりやすい解説

加賀一向一揆
かがいっこういっき

1474年(文明6)から1580年(天正8)にわたり、加賀国(石川県)の一向衆徒らが、国内を支配、運営した一揆。蓮如(れんにょ)は、親鸞(しんらん)以来の血脈相承を根拠に、一宗の独立を意図し、吉崎(よしざき)(福井県あわら市)滞在中(1471~75)分散的な北陸の浄土系諸門流を次々に吸収していった。1473年には、加賀での公的認可を条件に、富樫政親(とがしまさちか)の要請を受け、守護家の内紛介入、翌年、高田専修寺(せんじゅじ)派と結ぶ富樫幸千代(こうちよ)を倒した(文明(ぶんめい)一揆)。続いて75年には政親と戦い、88年には、かわりの守護を擁立し、政親を高尾城に滅ぼした(長享(ちょうきょう)一揆)。文明一揆時、政親に協力した国人層は連合組織「郡」を結成。また長享一揆時、小地域ごとに結集した門末は「組」を結成した。「組」はやがて一門(宗主庶子)の与力(よりき)組織となった。

 1506年、1521~23年、畿内(きない)、北陸の政争の影響を受けて、数か国に及ぶ一揆が発生(永正(えいしょう)・大永(だいえい)一揆)。北陸の門末は、加賀一門の統制下にあったため、加賀の一揆は、越前(えちぜん)、越中(えっちゅう)など北陸一帯の一揆となった。1510年代に、本願寺一門は「郡」の有力者を家人化し、「郡」を一向宗の組織とし、続いて坊主衆の一揆への参加を禁止した。そのため、加賀の一揆組織は俗的色彩を強く帯びることとなった。「郡」は在地領主権を所領外の門末へも及ぼし、「組」は軍事的、財政的宗教役を担った。1531年、新・旧宗主系親族団の内紛により、一門が没落(享禄錯乱(きょうろくさくらん)、あるいは大小一揆)したため、「郡」と「組」は本願寺に直属(1546年以後金沢御坊(かなざわごぼう)に従属)することとなり、人員面、機能面での同一化を促進させていった。越前、能登(のと)の門末を含む「加賀」衆は、1555年、64年に朝倉勢と、70年代前半は上杉勢と、それ以後は織田勢と戦い続けた。「加賀」衆の支配権とその境界線は、ともに私的で、その安全性の保障は戦い続けることによってのみ得られた。しかし、1580年金沢御坊の陥落とともに、加賀一揆は織田軍により解体された。

金龍 静]

『井上鋭夫著『一向一揆の研究』(1968・吉川弘文館)』

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改訂新版 世界大百科事典 「加賀一向一揆」の意味・わかりやすい解説

加賀一向一揆 (かがいっこういっき)

1471年(文明3)吉崎へ下向した蓮如は,親鸞以来の血脈相承を根拠に一宗独立を宣言し,個別分散的な浄土系諸門流の掌握を開始した。蓮如教団は,世法的宗教観の否定を唱える門流をも内包し,他宗派との間に鋭い緊張関係を生じた。一方加賀守護勢力は15世紀中期以降幾度も二手にわかれ支配権を争っていた。このような状況下74-75年一部守護勢と一向衆とは,国人層,百姓層,寺社勢力をも糾合し,それぞれの反対勢力打倒の一揆(惣国一揆)をおこした。この文明一揆は主体に一向衆を含む点で,北陸最初の一向一揆ともなった。新守護富樫政親に与同の国人層は,そのとき連合組織〈郡〉を結成した。88年(長享2)再度大規模な惣国一揆がおこり,政親政権が倒れた。一向衆門末はその際小地域ごとに結集し〈組〉を結成し,〈組〉はやがて加賀一門衆の与力組織となっていった。

 1506年(永正3)および21-22年(大永1-2)畿内・北陸政局の変動と関連して,本願寺が指令し諸国の一向衆が呼応する大一向一揆が勃発した。加賀一揆の蜂起は北陸一帯を戦乱にまきこんだ。当時宗主(しゆうす)代理の一門衆は加賀にのみ在住しており,その支配権が越中・越前・能登門末にまで及んでいたからである。1510年代〈一門衆〉-〈組〉の組織化の伸展と国内諸勢力の衰退のため,〈郡〉は〈一門衆〉統制下に入ることとなり,〈一門衆〉-〈郡〉〈組〉組織は国内最大の政治勢力となるに至った。その際一門衆と〈郡〉とは門末を直接支配するため,坊主衆の一揆行動参加を禁じたので,加賀型組織は俗的色彩を強く帯びることとなった。〈郡〉は在地領主権を所領外の門末へも及ぼせることとなり,おもに治安維持や行政的役割を担い,〈組〉は宗教的課役に由来する軍事的・財政的機能を担った。本願寺・一門衆は,国内有力者を家人(けにん)・猶子化することで家父長的に君臨し,さらに〈郡〉の領主権の一部をも吸収し,軍事的権限,対外交渉権を握った。1525年10代証如の継職と新親族団の成立で,越中教団は加賀一門支配下を離れた。

 1531年(享禄4)新親族団と前宗主系の加賀一門衆との対立,後者の没落という享禄錯乱がおこった。本願寺は〈郡〉衆内反対派の復帰を容易に認めず,その欠落を補う形で,〈組〉指導者が〈郡〉に加わることとなった。その結果〈郡〉〈組〉は人員面,機能面で重複し,やがて〈郡〉は〈組〉の集合体へと変質していった。46年(天文15)一門寺院の変型たる金沢御堂が設置され,〈郡組〉はそのもとにおかれた。越前・能登衆を含む加賀一揆は55年(弘治1),64年(永禄7)朝倉勢と,70年代前半(元亀~天正期)上杉勢と,70年代後半からは織田勢と戦い続けた。それは,みずからの〈国の境〉を確定し,一向宗とその組織を存続させるために,本願寺(御堂)坊官を指揮者に仰ぎ,近隣諸国の門末と連係し,遠国門末の支援下で続けられた戦いであった。しかし80年(天正8)石山本願寺の降伏,金沢御堂の陥落と並行して,一揆は解体されるに至った。
一向一揆
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百科事典マイペディア 「加賀一向一揆」の意味・わかりやすい解説

加賀一向一揆【かがいっこういっき】

戦国時代に加賀国で蜂起した一向一揆。1471年蓮如(れんにょ)は越前国吉崎(よしざき)(現福井県あわら市)に下向して北陸地方の真宗(一向宗)の布教を開始。これを受け,1474年から翌年にかけて加賀の守護勢力の一部と一向宗徒は,それぞれの反対勢力打倒の一揆(惣国一揆)を形成した。1488年再び大規模な一向一揆が起き,加賀守護富樫政親(とがしまさちか)を打倒,〈百姓の持ちたる国〉といわれる門徒領国を成立させた。1531年(享禄4年)には享禄(きょうろく)錯乱といわれる内紛があり,のち上杉謙信織田信長などとも敵対したが,1580年の石山本願寺の降伏などがあり,翌年門徒三百余人が捕らえられて磔刑に処され,加賀一向一揆は解体した。→吉崎御坊石山合戦伊賀惣国一揆雑賀一揆長島一揆
→関連項目朝倉始末記加賀国倉月荘大聖寺山城国一揆

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旺文社日本史事典 三訂版 「加賀一向一揆」の解説

加賀一向一揆
かがのいっこういっき

1488年,加賀国で勃発した門徒農民の一揆
一向一揆中最大のもの。20万の一向宗(浄土真宗)徒が守護の富樫政親を滅ぼし,以後100年近く同国を統治した。8代蓮如 (れんによ) が北陸布教にあたって組織した,坊主を中心に結成された門徒の国人や農民の講がその母胎となる。

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世界大百科事典(旧版)内の加賀一向一揆の言及

【加賀国】より

…この〈文明の一揆〉によって,本願寺門徒の一向一揆は加賀一国の実質的な支配権を手中におさめ,続く88年(長享2)の〈長享の一揆〉で,守護権力の回復をはかった富樫政親を石川郡の高尾(たこう)城に滅ぼした。〈長享の一揆〉の結果,加賀一向一揆は富樫氏を名目的な守護としながらも,完全に本願寺門徒による自主管理の体制を確立し,守護大名の支配を排除した史上類例の乏しい共和政体を構築する。その後1世紀にわたった共和政体の前半段階を主導したのは,蓮如の子が配置された河北郡若松本泉寺,能美郡波佐谷(はさだに)松岡寺,江沼郡山田光教寺の〈賀州三ヵ寺〉であったとされるが,隣国越前,能登,越中での守護権力の打倒をめざした1506年(永正3)の〈永正の一揆〉に失敗したのちは,〈賀州三ヵ寺〉と越前系の藤島超勝寺,和田本覚寺や本願寺家臣団との抗争が激化し,31年(享禄4)の〈享禄の錯乱〉によって,主導権は本願寺家臣団や超勝寺,本覚寺に移る。…

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