勝井五八郎(読み)かつい・ごはちろう

朝日日本歴史人物事典 「勝井五八郎」の解説

勝井五八郎

没年:慶応1.5.2(1865.5.26)
生年:文化12.1.12(1815.2.20)
幕末対馬藩士。五郎吉の子。名は員周。一時流謫されていたが,藩主側室であった妹タミの生んだ善之允(宗義達)を世子にするため,万延1(1860)年同志と共に立つ。文久2(1862)年に反対派の家老佐須伊織を討ち,善之允の襲封に成功すると外戚として権勢を得た。以後,対馬藩では尊王攘夷派が主導権を握ったが,8月18日の政変以降,勝井は反幕府的な長州との同盟路線を警戒し,元治1(1864)年に平田大江と手を組んで政権を握り,大浦教之助尊攘派に対する苛烈な弾圧を開始した。この勝井騒動で多くの藩士が殺され,内外の批判が高まったことから,翌年藩主の命で討たれた。<参考文献>川本達『対馬遺事』,『長崎県史 藩政編』

(木村直也)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「勝井五八郎」の解説

勝井五八郎 かつい-ごはちろう

1815-1865 幕末の武士
文化12年1月12日生まれ。対馬(つしま)(長崎県)府中藩士。側用人をへて元治(げんじ)元年(1864)大勘定執務となる。大浦教之助をはじめおおくの尊攘(そんじょう)派を惨殺し,慶応元年5月3日藩主の命で討たれた。51歳。名は員周。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

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