北条時宗(読み)ホウジョウトキムネ

デジタル大辞泉 「北条時宗」の意味・読み・例文・類語

ほうじょう‐ときむね〔ホウデウ‐〕【北条時宗】

[1251~1284]鎌倉幕府第8代執権。在職1268~1284。時頼の長男。通称、相模太郎。元寇に際して強硬策をとり、文永の役弘安の役でこれを撃退。禅を信仰し、中国宋より無学祖元を招き、円覚寺を建立した。

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精選版 日本国語大辞典 「北条時宗」の意味・読み・例文・類語

ほうじょう‐ときむね【北条時宗】

鎌倉幕府第八代執権。時頼の子。通称相模太郎。一八歳で執権となる。たびたびの蒙古の使者を追い返し、文永・弘安の役では蒙古軍を撃破、その後も国防強化に努め、中国出兵を計画した。無学祖元を宋から招き、鎌倉に円覚寺を建立。建長三~弘安七年(一二五一‐八四

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改訂新版 世界大百科事典 「北条時宗」の意味・わかりやすい解説

北条時宗 (ほうじょうときむね)
生没年:1251-84(建長3-弘安7)

鎌倉後期,モンゴル襲来のときの執権。父は北条時頼,母は同重時女。幼名正寿。7歳で将軍宗尊(むねたか)親王の手で元服,相模太郎時宗と称す。幼少より時頼の正嫡として執権となるべく育てられ,60年(文応1)小侍所(こさむらいどころ)別当,61年(弘長1)安達(あだち)義景女(泰盛養女)の堀内殿と結婚,左馬権頭従五位下,64年(文永1)連署,65年従五位上相模守。68年高麗使藩阜の来訪ののち,3月に18歳で執権に就任した。71年モンゴル使趙良弼が筑前今津に至り,時宗は鎮西に所領をもつ御家人に鎮西下向を命じ,翌年には一族の名越時輔,教時らを誅した(二月騒動)。74年10月元軍が来寇(文永の役),その後も時宗は翌75年(建治1)には元使杜世忠を竜ノ口に斬るなど一貫して対モンゴル強硬政策をとり,高麗進攻計画,防塁築造,非御家人の軍役動員などをすすめ,幕府を事実上の全国政権たらしめてゆくと同時に,舅の安達泰盛,得宗被官(御内人(みうちびと))の平頼綱らによる寄合(よりあい)を政治の中心におき,西国の守護職や重要所領を北条一門で独占する,いわゆる得宗専制を強化していった。81年(弘安4)には再度の元軍の来寇を退け,幕府の権威も大いに強化された。時宗は若くして蘭渓道隆,大休正念に深く師事し,79年にはその招きで無学祖元が来朝し建長寺の住持となった。82年には円覚寺を建て祖元を開山とした。さらに日蓮や一遍らとの交渉もあった。84年4月4日没。法名は法光寺殿道杲,廟所は円覚寺内仏日庵で法体座像がある。
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朝日日本歴史人物事典 「北条時宗」の解説

北条時宗

没年:弘安7.4.4(1284.4.20)
生年:建長3.5.15(1251.6.5)
鎌倉中期の武将。父は時頼。母は重時の娘。童名は正寿丸。法名は道杲,号は法光寺殿。夫人は堀内殿(安達義景の娘,覚山志道,のちの東慶寺開山)。邸宅は東亭(宝戒寺)と別荘の山内泉亭。建長3(1251)年,時頼の母・松下禅尼の邸で誕生し,康元2(1257)年に将軍宗尊親王の御所で元服,文応1(1260)年に小侍所別当となる。もうひとりの別当の北条実時は,少年時代の時宗の養育係とみられる。弘長3(1263)年,時頼が死去して翌文永1(1264)年,執権長時が出家し政村が執権となり,時宗は連署に就く。連署就任は,得宗継承には若年であったことによる。同2年に従五位上となり相模守。連署時代の主要な事件は同3年の将軍・宗尊親王の更迭と惟康親王の将軍就任であり,追放は時宗邸で時宗,政村,実時,安達泰盛の4名の合議で決定された。執権主導から得宗寄合への移行を示す事件であった。同5年8代執権となると,同9年2月,泰盛との画策で鎌倉で名越時章・教時兄弟を殺害,六波羅探題に追放していた舎兄・北条時輔を殺害し得宗権力を確定した(二月騒動)。この前後から,蒙古襲来への対応に精力を傾け,文永8年の高麗使節の来朝後に鎮西に所領を持つ御家人の鎮西下向を命じ,また,同11年の元軍撃退後は本所一円の地の非御家人をも動員することを明示し幕府の管轄権を御家人の枠外へと広げた。さらに弘安4(1281)年の元軍の襲来を撃退したのちは,鎮西守護と関東派遣の合奉行による鎮西特殊合議機関を設置し,異国警固を整備した。信仰面では,禅に傾倒し大休正念に帰依し,蘭渓道隆に新寺院の提供を申し出たが道隆の死去後,無学祖元を中国から招請し円覚寺を開いた。また,重文『本朝続文粋』は文永9年に北条実時が書写したものだが「相州御本」で校合したと記す。時宗所持本の一端を示すものか。墓堂は円覚寺仏日庵。<参考文献>川添昭二「北条時宗の連署時代」(『金沢文庫研究』263号),工藤敬一『北条時宗』,村井章介「蒙古襲来と鎮西探題成立」(『アジアなかの中世日本』)

(福島金治)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「北条時宗」の意味・わかりやすい解説

北条時宗
ほうじょうときむね
(1251―1284)

鎌倉幕府第8代執権。時頼(ときより)の子、母は北条重時(しげとき)の女(むすめ)。幼名を正寿といい、相模(さがみ)太郎と称した。左馬権頭(さまごんのかみ)、相模守(かみ)などを歴任。法名道杲(どうこう)。1257年(正嘉1)7歳で元服、将軍宗尊(むねたか)親王の一字「宗」を与えられて時宗と名のる。64年(文永1)連署(れんしょ)となり、翌年相模守となる。66年、宗尊親王を陰謀のかどによって将軍の地位から追い、京都に送還、かわって親王の子惟康(これやす)王(3歳)を将軍に迎えた。これは、将軍在位15年、25歳になっていた親王と、御家人(ごけにん)ないし北条氏の傍流の者とが反得宗(とくそう)勢力として結集することを懸念して、北条嫡流(得宗)がとった処置であった。2年後の68年3月、時宗は北条政村(まさむら)にかわって執権となり、政村が連署となった。この年の初め日本の服属を求める蒙古(もうこ)の使者が来朝しており、これを退けた幕府は、蒙古の来襲あるを予測し、国防の強化に努めた。74年(文永11)の蒙古軍侵攻(文永(ぶんえい)の役)は九州の武士が撃退したが、再襲に備えて北九州沿岸に石塁を築かせ、さらに異国征伐の遠征軍派遣を計画した。81年(弘安4)再度蒙古軍が来襲(弘安(こうあん)の役)したが、このときも撃退に成功、なお防備の強化に専念した。84年(弘安7)病により出家、4月4日死去した。時宗は禅に深く帰依(きえ)し、建長寺(けんちょうじ)の蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)の没(1278)後、宋(そう)から無学祖元(むがくそげん)を招いて師事し、82年(弘安5)祖元を開山として鎌倉に円覚寺(えんがくじ)を創建した。

[田辺久子]

『関靖著『史話北条時宗』(1943・朝日新聞社)』


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百科事典マイペディア 「北条時宗」の意味・わかりやすい解説

北条時宗【ほうじょうときむね】

鎌倉幕府第8代執権。時頼の子。通称相模太郎。1268年執権となる。来属を要求する元(げん)に対して終始強硬な態度をとりその侵攻を退けた(文永・弘安の役)。豪毅果断,深く禅を信じ,宋から無学祖元を招き円覚寺を建立。法名道杲(どうこう)。
→関連項目二月騒動北条氏無学祖元

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「北条時宗」の意味・わかりやすい解説

北条時宗
ほうじょうときむね

[生]建長3(1251).5.15. 鎌倉
[没]弘安7(1284).4.4. 鎌倉
鎌倉幕府の8代執権 (在職 1268~84) 。時頼の3男。母は北条重時の娘。幼名は正寿。元服して相模太郎と称した。左馬権頭,但馬権守を経て相模守,正五位下,文永1 (64) 年連署,同5年執権。この年以降しばしば訪れた元の使者を退け,ついに来襲した元,高麗の連合軍を再度にわたって撃退,進んで出征を企てるなど強硬な態度で終始した。また評定制度を無視して得宗専制政治への道を開き,朝廷内の皇位争いに介入して両統迭立の端緒を開くなど,積極的な政治を行なった。第3回の元軍来襲に備えて国防に専念したが,病にかかり出家し法名を道杲と称した。早くから禅を信じ,宋から無学祖元を招き,弘安5 (82) 年円覚寺を創建して無学祖元を開山とした。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「北条時宗」の解説

北条時宗 ほうじょう-ときむね

1251-1284 鎌倉時代の武将。
建長3年5月15日生まれ。北条時頼の子。母は北条重時の娘。文永元年連署となり,3年将軍宗尊(むねたか)親王を廃し,惟康(これやす)親王を擁立。5年8代執権につく。9年庶兄の北条時輔らを討ち,得宗(とくそう)としての地位を確定。九州の防備体制をかため,2度の蒙古軍の来襲を撃退(文永・弘安(こうあん)の役)。禅宗に帰依し,無学祖元をまねき円覚寺を建立した。弘安7年4月4日死去。34歳。幼名は正寿。通称は相模太郎。法名は道杲(どうこう)。
【格言など】御家人已下(いげ),軍兵等は守護の命に随(したが)い,防戦の忠を致すべし(弘安の役で御家人へ発した教書)

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「北条時宗」の解説

北条時宗
ほうじょうときむね

1251.5.15~84.4.4

鎌倉中期の幕府執権。父は時頼,母は北条重時の女。相模太郎と称する。1263年(弘長3)父時頼が死去し,翌年執権の北条長時が死去したため,とりあえず一門の長老北条政村が執権になり,時宗は連署となる。68年(文永5)元から国書が届き,その対応を迫られるなか,執権に就任。72年には名越(なごえ)教時ら北条一門の反時宗派を討ちとった。74年と81年(弘安4)の2回にわたり元軍の襲撃をうけ,防戦の指揮にあたった。その後も警備体制の強化をはかった。82年鎌倉に円覚寺を建立し,中国からの渡来僧無学祖元(むがくそげん)を住持に招いた。

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旺文社日本史事典 三訂版 「北条時宗」の解説

北条時宗
ほうじょうときむね

1251〜84
鎌倉幕府第8代執権(在職1268〜84)
時頼の長子。相模太郎と称す。1264年連署,翌年相模守に任ぜられ,'68年18歳で執権となる。元寇に際し,元使を斬り西国の防備を固め積極的に対外強硬策をとり,元軍来襲に際しては在九州の非御家人をも動員し国難に対処した。国内政治においては武家社会の動揺の中で得宗専制への動きをみせた。また禅宗を信じ,無学祖元を宋より招き円覚寺を建立した。

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デジタル大辞泉プラス 「北条時宗」の解説

北条時宗

2001年放映のNHKの大河ドラマ。原作は、高橋克彦の小説『時宗』。鎌倉幕府執権・北条時宗の34年の生涯を、モンゴル帝国の情勢も交えて描く。脚本:井上由美子。音楽:栗山和樹。出演:和泉元彌、渡部篤郎、渡辺謙ほか。

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367日誕生日大事典 「北条時宗」の解説

北条時宗 (ほうじょうときむね)

生年月日:1251年5月15日
鎌倉時代後期の鎌倉幕府第8代の執権
1284年没

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世界大百科事典(旧版)内の北条時宗の言及

【伊豆国】より

…この間,北条義時は伊豆の武士を確実に統制し,以来北条得宗(とくそう)が伊豆国の守護となった。北条時宗はモンゴル襲来にあたり,三嶋明神に祈禱を求め,三薗(御園)の地頭職を廃して三島東大夫の私領としてこれを寄進している。北条氏滅亡直後,高時の遺児時行が信濃で挙兵(中先代の乱)すると伊豆の武士たちも時行に従った。…

【円覚寺】より

…山号は瑞鹿山。北条時宗が弘安の役直後の1281年(弘安4)に建て,翌年無学祖元を開山に迎えて開堂の法要を営んだ。中国の径山(きんざん)を模した左右対称の宋風の伽藍配置で,本尊は盧遮那仏。…

【二月騒動】より

…1272年(文永9)2月におこった北条一族の内紛。北条時頼の庶子時輔(ときすけ)は六波羅探題南方として京都にいたが,異母弟の時宗が得宗・執権となって幕府の権力の座についたことに不満をもち,謀反を企てた。これを察知した時宗は機先を制して,時輔の与党とみられた名越時章・教時兄弟を鎌倉で討ち,さらに六波羅探題北方の北条義宗に命じて時輔を討たせた。しかし事件後,時章は謀反計画に無関係であったことが判明し,その討伐は誤りであったとして討手は処刑され,時章の子公時は所領を安堵された。…

※「北条時宗」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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