北条時行(読み)ほうじょうときゆき

精選版 日本国語大辞典 「北条時行」の意味・読み・例文・類語

ほうじょう‐ときゆき【北条時行】

鎌倉末期から南北朝時代武将高時の子。通称相模二郎。鎌倉幕府滅亡の際、信濃諏訪頼重もとに逃れ、建武二年(一三三五)鎌倉残党五万余を集め挙兵足利直義を破り、一時鎌倉を回復したが、足利尊氏に敗れた。これを中先代の乱という。後、南朝に属し、再度鎌倉を占領したが、新田義興敗北で捕えられ斬殺された。文和二=正平八年(一三五三)没。

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報

デジタル大辞泉 「北条時行」の意味・読み・例文・類語

ほうじょう‐ときゆき〔ホウデウ‐〕【北条時行】

[?~1353]南北朝時代の武将。高時の子。鎌倉幕府の滅亡後、信濃にのがれ、建武政権に抗して挙兵。一時鎌倉を回復したが、足利尊氏に敗れた(中先代の乱)。のち、南朝に属して新田義興らに従い、再度鎌倉を占領したが、敗れて斬られた。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

日本大百科全書(ニッポニカ) 「北条時行」の意味・わかりやすい解説

北条時行
ほうじょうときゆき
(?―1353)

鎌倉末~南北朝期の武将。第14代執権北条高時(たかとき)の次男。幼名亀寿丸(かめじゅまる)。通称相模(さがみ)次郎。鎌倉幕府滅亡(1333年5月)の際、信濃諏訪(しなのすわ)氏にかくまわれたが、京都の西園寺公宗(さいおんじきんむね)、北条泰家(やすいえ)らと通謀、1335年(建武2)7月信濃で挙兵。足利直義(あしかがただよし)を破り、鎌倉を奪還したが、翌8月足利尊氏(たかうじ)に敗れて逃走した(中先代(なかせんだい)の乱)。38年(延元3・暦応1)朝敵赦免の綸旨(りんじ)を得て、西上する北畠顕家(きたばたけあきいえ)軍に参加、美濃青野原(みのあおのがはら)で足利方を破った。52年(正平7・文和1)閏(うるう)2月、尊氏と直義らの争いに乗じ、新田義宗(にったよしむね)・義興(よしおき)兄弟が挙兵。時行もこれに参加し、ふたたび鎌倉を奪還。しかし、やがて捕らえられ、翌年5月鎌倉竜ノ口(たつのくち)にて斬殺(ざんさつ)された。

[奥富敬之]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

百科事典マイペディア 「北条時行」の意味・わかりやすい解説

北条時行【ほうじょうときゆき】

南北朝初期の武将。北条氏最後の得宗(とくそう)高時の子。鎌倉幕府滅亡のとき信濃(しなの)の諏訪頼重のもとに逃れるが,1335年挙兵,足利直義(ただよし)を破って鎌倉を占領したが,足利尊氏軍に敗北(中先代の乱)。後,南朝に属し,1352年鎌倉を奪還するが,翌年尊氏に捕らえられて斬殺された。
→関連項目手越宿

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

朝日日本歴史人物事典 「北条時行」の解説

北条時行

没年:文和2/正平8.5.20(1353.6.21)
生年:生年不詳
鎌倉後期の武将。高時の次男。相模二郎。童名には亀寿丸・全嘉丸・勝長寿丸があり明確でない。北条氏滅亡の元弘3(1333)年,叔父・泰家の命により諏訪盛高が身柄を保護し信濃に下り,建武2(1335)年,泰家と関東申次・西園寺公宗との計略の露顕で諏訪頼重らと信濃で挙兵し,鎌倉の将軍・成良親王と足利直義を攻略し7月25日に鎌倉を占領したが足利尊氏らの反撃にあい8月18日には鎌倉を退去した。鎌倉占拠の期間から「廿日先代」とも号された(中先代の乱)。時行の鎌倉占拠の間,寺に入っていた北条氏一族に還俗が相次いだという。その後,禅律寺院に寄宿して移動し,延元2(1337)年に宮方に降り勅免の綸旨を得,以後,南朝方として行動する。翌年には新田義興と共に東国に派遣され,正平7(1352)年閏2月には新田勢と共に足利基氏の軍勢を破り鎌倉を占領したが,まもなく鎌倉を退去し捕らえられ,5月20日に鎌倉竜の口で長崎駿河四郎,工藤二郎と共に殺害された。

(福島金治)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「北条時行」の意味・わかりやすい解説

北条時行 (ほうじょうときゆき)
生没年:?-1353(正平8・文和2)

南北朝初期の武将。高時の次男。1333年(元弘3)鎌倉幕府滅亡のとき,鎌倉を脱出し信濃の諏訪頼重のもとに隠れる。35年(建武2)西園寺公宗と通じて挙兵。足利直義軍を破って鎌倉を占領したが,東下した足利尊氏軍に敗れた(中先代の乱)。37年南朝に帰順し,西上する北畠顕家軍に従軍する。52年観応の擾乱(じようらん)に乗じて鎌倉を占拠したが,捕らえられ,翌年5月に殺された。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「北条時行」の意味・わかりやすい解説

北条時行
ほうじょうときゆき

[生]?
[没]正平8=文和2(1353).5.20. 鎌倉
鎌倉時代末期,南北朝時代初期の武将。鎌倉幕府の執権高時の子。通称は相模二郎。鎌倉幕府が滅亡したとき,信濃の諏訪氏のもとに逃れ,建武2 (1335) 年京都の西園寺氏とはかって兵を起し,足利直義の軍を破って鎌倉を占領。一時北条氏を復興したが,足利尊氏に敗れた。のち南朝に投じて,北畠顕家,新田義興らに従い,鎌倉に攻め入ったが,義興が敗れると,足利氏に捕えられ殺された。 (→中先代の乱 )  

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「北条時行」の解説

北条時行 ほうじょう-ときゆき

?-1353 南北朝時代の武将。
北条高時の次男。鎌倉幕府滅亡の際,信濃(しなの)(長野県)の諏訪頼重のもとにのがれる。建武(けんむ)2年信濃で頼重らと挙兵,鎌倉を奪還したが,足利尊氏に敗れて逃走(中先代(なかせんだい)の乱)。のち南朝に帰順。観応(かんのう)3=正平(しょうへい)7年新田義興(よしおき)とふたたび鎌倉を一時占拠したが尊氏に敗れて捕らえられ,翌年5月20日処刑された。通称は相模次(二)郎。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

山川 日本史小辞典 改訂新版 「北条時行」の解説

北条時行
ほうじょうときゆき

?~1353.5.20

南北朝期の武将。高時の次男。相模次郎。鎌倉幕府滅亡の際,北条氏得宗家の被官諏訪盛高の手により鎌倉をのがれ,信濃の諏訪頼重にかくまわれた。1335年(建武2)京都の西園寺公宗(きんむね)とはかって挙兵(中先代(なかせんだい)の乱),鎌倉を占領したが,追討に下った足利尊氏に敗れ20余日で鎌倉を奪還された。その後は南朝に属して尊氏に対抗したが,鎌倉竜口(たつのくち)で斬首。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社日本史事典 三訂版 「北条時行」の解説

北条時行
ほうじょうときゆき

?〜1353
鎌倉末期〜南北朝初期の武将
高時の子。鎌倉幕府滅亡のとき信濃国(長野県)にのがれていたが,1335年京都の西園寺公宗 (きんむね) と通謀して中先代の乱をおこす。足利直義 (ただよし) の軍を破って鎌倉を占領したが,足利尊氏に敗れた。のち南朝の新田義興に従ったが,捕らえられて斬られた。

出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報

世界大百科事典(旧版)内の北条時行の言及

【中先代の乱】より

…1335年(建武2)7月北条高時の次男北条時行が建武政権に抗して起こした反乱。当時執権北条氏を先代と呼んだので,その再興を図った時行を中先代と称した。…

※「北条時行」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

脂質異常症治療薬

血液中の脂質(トリグリセリド、コレステロールなど)濃度が基準値の範囲内にない状態(脂質異常症)に対し用いられる薬剤。スタチン(HMG-CoA還元酵素阻害薬)、PCSK9阻害薬、MTP阻害薬、レジン(陰...

脂質異常症治療薬の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android