北野天満宮(読み)キタノテンマングウ

デジタル大辞泉 「北野天満宮」の意味・読み・例文・類語

きたの‐てんまんぐう【北野天満宮】

京都市上京区にある神社。主祭神は菅原道真豊臣秀頼造営の社殿は国宝。「北野天神縁起」をはじめ多数の文化財を所蔵。太宰府天満宮とならび全国天満宮の本宮。北野天神北野神社

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精選版 日本国語大辞典 「北野天満宮」の意味・読み・例文・類語

きたの‐てんまんぐう【北野天満宮】

京都市上京区馬喰町にある神社。旧官幣中社。祭神は菅原道真とその夫人、および長子の高視。道真の霊をしずめるため、天慶五年(九四二)多治比文子が祠(ほこら)を創建したのに始まるという。天暦元年(九四七)社殿を建立。現在の社殿は慶長一二年(一六〇七)豊臣秀頼の造営。本殿・石の間・拝殿・楽の間は国宝。また北野天神縁起(国宝)を所蔵。全国各地に勧請(かんじょう)されている天神社、天満宮、菅原神社の宗社。北野の神社(かみやしろ)。北野天神。天満宮。天満天神。火雷(ほのいかずち)天神。北野の宮。北野聖廟。

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日本歴史地名大系 「北野天満宮」の解説

北野天満宮
きたのてんまんぐう

[現在地名]上京区馬喰町

東西に通る今出川いまでがわ通に南面し、南北に通る御前おんまえ通西側に沿って北に広がる。境内西側を天神てんじん川が南流する。今出川より北に向かって一の鳥居・二の鳥居・三の鳥居・楼門・中門(三光門)をくぐり、拝殿・本殿に至るが、すべて南面する。天満宮・天満大自在天神・天満天神・北野天神・北野社・北野神社などとよばれてきたが、現在は北野天満宮を正称とし、北野の天神さんと通称される。境内には多くの摂社・末社がある。祭神は菅原道真で、道真の死後の霊を怨霊と観じ、それを御霊として祀ったのに始まる。やがて学問神として信仰されるようになる。旧官幣中社。

〈京都・山城寺院神社大事典〉

〔道真の怨霊〕

宇多・醍醐両天皇に重用された道真は、延喜元年(九〇一)藤原時平の讒言により大宰権帥に左遷され、大宰府だざいふ(現福岡県太宰府市)で延喜三年二月二五日に没した。道真死後、時平が同九年四月四日三九歳の若さで死んだのをはじめ、京都では災異がしきりに起こった。これらは道真の怨霊のなせるわざと考えられたようで、延長元年(九二三)三月二一日、時平の女仁善子を御息所とする保明親王が没した時、「挙世云、菅帥霊魂宿忿所為也」という。そこで同年四月二〇日には道真の怨霊を鎮めんとして、道真を右大臣に復し、正二位を追贈した。しかし同三年六月一九日には保明親王の子で仁善子を母とする慶頼王が五歳で死去し(以上「日本紀略」)、道真の怨霊が時平の縁者、さらには醍醐天皇にも祟るだろうと意識されるようになった。同八年は旱天が続き、六月二六日に殿上で請雨についての会議中にわかに清涼殿に落雷、大納言藤原清貫・右中弁平希世らが震死した。醍醐天皇は病床につき、同年九月二九日死去した(日本紀略)。道真の怨霊が雷神・天神と結び付いて説かれるようになったのはこの事件が契機と思われる。「伊呂波字類抄」は「是則、右大臣之成天満大自在天神、所御為給也」と記し、道賢上人冥途記(扶桑略記)も道真の怨霊の姿を述べている。

〔創祀の経緯〕

道真の怨霊を北野に祀る経過は、当宮蔵の「北野天神縁起」によれば、天慶五年(九四二)西京にしのきように住む多治比文子に北野右近馬場うこんのばばに祀れとの託宣があった。文子は貧賤のためかなわず、家の辺りに小祠を構えて祀っていたが、天暦元年(九四七)六月九日再度託宣があり、北野に遷し祀ったという。また時を同じくして近江国比良ひら宮の禰宜神良種の息男に、北野右近馬場に道真の霊が存在する旨の託宣があり、その後良種が北野朝日寺の最鎮とはかって社殿を設けたのが、北野天満宮のはじめと伝えている。

北野天満宮
きたのてんまんぐう

[現在地名]北野町中

筑後川支流の旧陣屋じんや川右岸、横町東よこまちひがしに鎮座。法人名は天満神社。旧県社。祭神は菅原道真。京都北野社の最初の神領である河北かわきた庄に鎮守神として同社の分霊を勧請。江戸時代成立の筑後国北野天神縁起(三巻、県指定文化財)によれば、天喜二年(一〇五四)関白藤原道隆の孫貞仙に勅して社殿を造営し、末社七五と二八ヵ所の寺院社家があり、一千町歩の社領があったという。仁平二年(一一五二)「北野天満宮」に直属する田楽座があり、徳有法師が田楽政所職に補任され、副料田一町が付されている(同年二月一三日「北野天満宮田楽政所職補任状」梅津文書/平安遺文六など)。同職には鎌倉期に徳増法師(文永元年七月三日「北野天満宮田楽法師補任状」同文書/鎌倉遺文一二)、南北朝期に長寿法師が補任されている(建武三年八月一八日「仁木義長補任状」同文書/南北朝遺文(九州編)一)

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改訂新版 世界大百科事典 「北野天満宮」の意味・わかりやすい解説

北野天満宮 (きたのてんまんぐう)

京都市上京区馬喰町に鎮座。祭神は菅原道真,相殿には中将殿(道真の長子,高視),吉祥女(道真の北の方)をまつる。道真は903年(延喜3)に大宰府で没し,905年に味酒安行が神託によって墓地に神殿を造立した。これが太宰府天満宮である。942年(天慶5),右京七条二坊の多治比文子(たじひのあやこ)が神託によって自宅の辺に道真をまつったという(現,下京区天神町,文子天満宮)。947年(天暦1),神良種(みわのよしたね)の子,太郎丸に託宣があり,北野朝日寺の僧最珍の尽力があって,同年,北野の右近衛府の馬場の地に神殿を造立した。これが鎮座の由来である。道真の怨霊をまつったため道真に対する信仰があり,かつ無実の罪を救い,正真の徳を守る信仰が起こった。これに,この地に古くから天神社があり,また,雷公(雷神)をまつった場所でもあったため祈雨,避雷,五穀豊穣の神としての信仰を併せた。また,所在地が皇居の背後に近接していたので国家鎮護の神となり天皇家,藤原氏に尊崇された。中世には念仏往生思想が導入されて往生守護の神ともなり,また,本地垂迹(ほんじすいじやく)思想からは本地仏は観世音菩薩とされた。文学の神として尊崇されたことは986年(寛和2)の慶滋保胤(よししげのやすたね)の願文に見えている。平安時代から道真が能書であると評されて,書道の神とされ,さらに,14世紀末からは渡唐天神の伝説が加わった。また,野見宿禰(のみのすくね)の後裔であるとされるところから相撲界の尊信もある。中世の天神信仰は《北野天神縁起》(北野天満宮蔵,国宝)によって知ることができる。菅原氏の崇敬はもちろんであるが,とくに足利氏は尊氏以来,あつく庇護したので室町時代には最も隆盛であり,社領も山城,丹波,近江をはじめとして24ヵ国,80ヵ所を数えた。また,豊臣氏は社殿を造営し,徳川氏もさらに庇護を加えた。明治になって官幣中社北野神社と改名されたが,第2次世界大戦後,旧名(北野天満宮)に復した。社務の別当職は1004年(寛弘1),比叡山の僧是算(ぜさん)が補せられたのに始まり,天仁年間(1108-10)寺号を曼殊院と号し,明治維新まで続いた。北野には目代を置いて事務を処理した。祠官は宮仕(みやじ)と称し,松梅院,徳勝院,妙蔵院その他があり,江戸時代には松梅院が神事奉行として責任者となり,宮仕が交替して年預(ねんよ)となり社務をつかさどった。祭礼は25日が月例祭で,ほかに10月4日の〈ずいき祭〉など多い。道真が和歌を好んだことから宮中の年中行事に北野聖廟法楽和歌があり,また天神が連歌を好むという伝説から,鎌倉末より社頭で連歌が興行され,連歌所が設けられ月次会が興行された。
天神信仰
執筆者:

現在の社殿は豊臣秀頼が片桐且元を奉行として,1607年(慶長12)に再建したもので,本殿(桁行5間,梁間4間)の前に拝殿(桁行7間,梁間3間)をおき,両者を石の間(桁行3間,梁間1間)で連結したいわゆる権現造の形式である。さらに拝殿の両側に楽の間が接続している。権現造は,秀吉をまつった豊国廟にも採用され,桃山時代の霊廟に広く用いられ,日光東照宮に用いられたことから,この名称がつけられた。権現造は,石の間造とも呼ばれ,元来土間であった石の間は,本殿,拝殿より一段床が低く張ってある。この形式の社殿は,北野神社では平安時代にすでに成立していた。権現造は江戸時代にも好んで用いられたが,その発達をみると,当社は古式を保っている。その最も特徴的なところは,石の間で,化粧屋根裏の雄大な姿をみせている点,また建物の外部は素木を主体とし,蟇股などの彫刻に彩色をほどこす点も保守的である。
執筆者:

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「北野天満宮」の意味・わかりやすい解説

北野天満宮
きたのてんまんぐう

京都市上京(かみぎょう)区馬喰町(ばくろちょう)に鎮座。祭神は中殿に主神菅原道真(すがわらのみちざね)朝臣(あそん)、東間(ひがしのま)に中将殿(道真の長子高視(たかみ))、西間に吉祥女(きちじょうにょ)(道真夫人)を祀(まつ)る。太宰府(だざいふ)天満宮とともに全国天満宮1万余の宗祠(そうし)で、北野天神、天満天神、火雷(からい)天神、天満宮天神など種々の称号がある。二十二社に列する。

 道真は左遷されて大宰府で903年(延喜3)に没したが、その後京都に異変が多くおこり、これを道真の祟(たた)りとおそれ、天神信仰を生じた。942年(天慶5)7月13日、西京(にしのきょう)七条に住む巫女(みか)多治比奇子(文子)(たじひのあやこ)は道真の託宣を受け、邸内に小祠(しょうし)を構えて神霊を奉祀(ほうし)、947年(天暦1)山城(やましろ)国葛野(かどの)郡上林(かんつはやし)郷なる北野の現在地に移祭した。同じとき近江(おうみ)(滋賀県)比良社(ひらしゃ)禰宜(ねぎ)良種(よしたね)の子太郎丸に神託があり、北野朝日寺の僧侶(そうりょ)最鎮(さいちん)もこの移祭に協力して社殿を設けたのが北野天満宮の創祀である。この地には以前から北野天神とよばれていた雷神の祠堂があり、現在も本殿の背後に摂社北野天神社として祀られている。959年(天徳3)には九条右大臣藤原師輔(もろすけ)が三間三面庇(ひさし)檜皮葺(ひわだぶ)きの殿舎を造営、菅公(かんこう)命日の2月25日に鎮霊するとともに宝物を献じ、祭文を捧(ささ)げて子孫繁栄を祈請、九条家の隆盛は天神の加護によるといわれた。社観を一新すると、孔子の聖廟(せいびょう)に倣って北野聖廟とよばれ、菅公の霊は「文道の祖、風月の本主」と崇(あが)められた。現在も学問の神として受験成功祈願の参詣(さんけい)者が多い。

 987年(永延1)一条(いちじょう)天皇の皇太后宮の典侍(てんじ)に神教があって神殿を改造、同年8月5日、菅原氏の者を奉幣使にたてて北野祭(まつり)を始行し、以後、官幣社となった。993年(正暦4)には道真に左大臣正一位、さらに太政(だいじょう)大臣が追贈された。1004年(寛弘1)10月には一条天皇により初度の北野行幸があり、以後歴朝の行幸が続けられた。社務別当(べっとう)職はこの年菅原氏出身の比叡山(ひえいざん)西塔東尾坊の僧是算(ぜさん)が任ぜられ、のち曼殊院(まんしゅいん)と称し、明治維新まで代々相承される。

 豊臣(とよとみ)秀吉の尊崇はとくに厚く、1587年(天正15)10月北野大茶湯を催し、93年(文禄2)5月には征韓のことを祈請したという。現社殿は秀頼(ひでより)の寄進になるもので、1607年(慶長12)片桐且元(かたぎりかつもと)を普請奉行(ふしんぶぎょう)として本社をはじめ末社に至るまで大規模に造営された。1779年(安永8)塙保己一(はなわほきいち)が『群書類従』1000巻の完成を祈願したことは有名。旧官幣中社。8月4日の例祭(北野祭)のほか、菅公命日2月25日の梅花祭(ばいかさい)、10月1~5日の瑞饋祭(ずいきまつり)など神事は数多い。

 八棟造(やつむねづくり)の本殿・拝殿(国宝)は権現造(ごんげんづくり)の最古のもので、豊国(とよくに)廟や日光東照宮はこれを模して造営された。中門(扁額(へんがく)「天満宮」は後西院(ごさいいん)天皇の宸筆(しんぴつ))、回廊、平唐門(ひらからもん)、透塀(すきべい)、東門はいずれも国の重要文化財。社宝に『北野天神縁起』(国宝)のほか、数種の縁起や太刀(たち)、絵画、経巻など国の重要文化財を蔵する。

[菟田俊彦]


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百科事典マイペディア 「北野天満宮」の意味・わかりやすい解説

北野天満宮【きたのてんまんぐう】

京都市上京区馬喰町に鎮座。旧官幣中社。菅原道真をまつる。道真は大宰府に流されて死んだが,その後しきりに京に災異が起こった。世人はこれを道真の怨霊(おんりょう)のたたりとし,942年鎮魂のためこれをまつり,947年現在地に神殿を建てたと伝える。959年には右大臣藤原師輔が壮麗な社殿を建て,8月5日(のち4日)を官祭として朝野の信仰を集めた。また往生守護の神,文学の神,書道の神としても尊崇された。例祭(8月4日)のほか筆始祭(1月2日),梅花祭(2月25日),ずいき祭(10月4日)などがある。→天神
→関連項目大内荘上京[区]北野北野大茶湯北野天神縁起絵巻倉月荘権現造ずいき祭菅原荘天満宮

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「北野天満宮」の解説

北野天満宮
きたのてんまんぐう

北野寺・北野聖廟・北野神社とも。京都市上京区馬喰町に鎮座。二十二社下社。旧官幣中社。祭神は菅原道真・中将殿・吉祥女。道真の託宣をうけた乳母の多治比文子(たじひのあやこ)が942年(天慶5)自宅の祠に祭り,947年(天暦元)現在地に勧請したのが創祀と伝える。959年(天徳3)社殿を建立。1004年(寛弘元)是算(ぜさん)の任命以降,別当により支配された。当初は道真の怨霊を鎮める鎮魂・雷神信仰が中心だったが,室町時代頃から文学・学問の神としての性格が強まる。中世には麹(こうじ)などの座が結ばれた。例祭は8月4日。「北野天神縁起」や1607年(慶長12)造営の本殿などは国宝。

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デジタル大辞泉プラス 「北野天満宮」の解説

北野天満宮

京都府京都市上京区にある神社。10世紀半ば頃の創祀と伝わる。祭神は菅原道真、中将殿(道真の長子、高視)、吉祥女(道真の妻)。全国の天満宮、天神社の宗祠(そうし)。国宝の本殿など数多くの文化財を保有。梅、紅葉の名所。地元では「北野の天神さん」などとも呼ばれる。

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事典・日本の観光資源 「北野天満宮」の解説

北野天満宮

(兵庫県神戸市中央区)
新・こうべ花の名所50選」指定の観光名所。

北野天満宮

(長野県下水内郡栄村)
信州の神社百選」指定の観光名所。

北野天満宮

(京都府京都市上京区)
日本三天神」指定の観光名所。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「北野天満宮」の意味・わかりやすい解説

北野天満宮
きたのてんまんぐう

北野神社」のページをご覧ください。

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世界大百科事典(旧版)内の北野天満宮の言及

【神木】より

…松,杉,ヒノキなどの常緑樹が一般的だが,神社によって特定の神木がある。有名なものに,京都の伏見稲荷大社や奈良の大神神社の験(しるし)の杉,福岡の香椎宮の綾杉,太宰府天満宮の梅,北野天満宮の一夜松(ひとよまつ),滋賀の日吉大社の桂,熊野大社,伊豆山神社の梛(なぎ),新潟の弥彦神社の椎などがある。奈良春日大社の神木(榊に神鏡を斎(いわ)いつけたもの)は中世に何度か興福寺の衆徒が春日大明神の御正体と称して担ぎ出し,朝廷に強訴(ごうそ)する手段とされた。…

【菅原荘】より

…もとは菅原保と称し国衙領であった。藤原基頼が能登守在任中,住人弘行の未進を理由に私領化し,1110年(天永1)10月にその田数50町(現作20町,荒野30町)を北野天満宮へ寄進した。この北野社領化に伴い〈菅原〉と命名されたという。…

【古物市】より

…東寺境内での毎月21日(弘法大師の命日)の弘法市は,1500の露店が並び,12月はとくに〈しまい弘法〉といわれる。北野天満宮の毎月25日(菅原道真の命日)の市も〈天神さん〉としてにぎわい,とくに1月は〈初天神〉と呼ばれる。また東京世田谷(代官屋敷跡付近)の〈ぼろ市〉も江戸時代からあり,今は12月15~16日と1月15~16日の2回開かれる。…

※「北野天満宮」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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