千家尊福(読み)せんけたかとみ

精選版 日本国語大辞典 「千家尊福」の意味・読み・例文・類語

せんけ‐たかとみ【千家尊福】

神道家、政治家男爵。第七九代出雲国造尊澄長子出雲大社宮司を辞してのち、大社教管長元老院議官貴族院議員などを歴任。のち文部省普通学務局長、埼玉静岡・東京の各府県知事を経て、西園寺内閣司法大臣をつとめる。弘化二~大正七年(一八四五‐一九一八

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デジタル大辞泉 「千家尊福」の意味・読み・例文・類語

せんげ‐たかとみ【千家尊福】

[1845~1918]神道家・政治家。島根の人。出雲大社宮司。明治15年(1882)大社教(のちの出雲大社いずもおおやしろ)初代管長。のち、元老院議官・東京府知事・司法相などを歴任、政界で活躍した。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「千家尊福」の意味・わかりやすい解説

千家尊福
せんげたかとみ
(1845―1918)

明治期の神道(しんとう)家、政治家。教派神道出雲大社教(いずもおおやしろきょう)の組織者。弘化(こうか)2年8月6日、出雲国造(くにのみやつこ)79代千家尊澄(たかずみ)(1816―1878)の長男として生まれる。維新後、太政官(だじょうかん)に奉職しながら出雲大社(たいしゃ)の大宮司を兼務。宗教行政に携わり神道西部管長などを務める。その過程で教法としての神道を確立する必要を感じ、1873年(明治6)に出雲大社敬神講(おおやしろけいしんこう)を結成、1882年にこれが神道大社派(たいしゃは)として一派独立すると、初代管長に就任。1888年には管長を辞して元老院議官となり、1890年には貴族院議員となる。以後、静岡、東京の知事などを歴任し、また第一次西園寺公望(さいおんじきんもち)内閣の司法大臣を務めるなど、もっぱら政治家として活動を続けた。詩人千家元麿(もとまろ)の父。著書は『大道要義』『大道問答』『国の真柱(まはしら)』など多数ある。ちなみに、「年の始めの例(ためし)とて」に始まる『一月一日』の唱歌は彼の作詞である。大正7年1月3日没。

[井上順孝 2017年10月19日]

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朝日日本歴史人物事典 「千家尊福」の解説

千家尊福

没年:大正7.1.3(1918)
生年:弘化2.8.6(1845.9.7)
明治大正期の宗教家,政治家。出雲国(島根県)出身。出雲国造で国学者・尊澄と婦美子の長男。明治5(1872)年出雲大社大宮司となり,出雲大社の祭神である大国主命の経国・治幽・和譲の精神の普及に努め,在来の出雲講を拡充,組織化して,出雲大社敬神講を組織した。15年大国主命信仰を自由に展開するため,出雲大社宮司を辞し,出雲大社敬神講の後身である出雲大社教会を神道大社派として独立させ,自ら初代管長となる。17年男爵。21年元老院議官となり,政,官界に転ずる。23年貴族院議員となり,翌年院内会派である研究会の設立に尽力した。以来貴族院の重鎮として知られる一方,文部省普通学務局長,埼玉県,静岡県,東京府知事などを歴任し,41年3月司法大臣になった。<著作>『教学大要』『出雲大神』<参考文献>出雲大社教編『千家尊福公』,千家尊統『出雲大社』

(西尾林太郎)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「千家尊福」の意味・わかりやすい解説

千家尊福
せんげたかとみ

[生]弘化2(1845).8.6. 出雲
[没]1918.1.3. 東京
神道家,政治家。出雲国造家尊澄の長子。明治4 (1871) 年国造が廃されたが,同5年出雲大社宮司に改めて任ぜられ,大教正をもって神道西部官長に補せられた。 1882年大社宮司を辞し,大社教管長となり,神道のため尽力。 84年特旨により男爵。 88年管長を辞し,元老院議官。 90年貴族院議員。次いで,文部省普通学務局長,埼玉,静岡,東京の各府県知事を歴任。 1908年西園寺内閣の司法大臣となる。国学,和歌をよくし,遺集『越の道ゆきふり』,『筑紫の道ゆきふり』など。詩人千家元麿は庶子。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「千家尊福」の解説

千家尊福 せんげ-たかとみ

1845-1918 明治-大正時代の神職,政治家。
弘化(こうか)2年8月6日生まれ。千家尊澄(たかずみ)の長男。明治5年出雲(いずも)大社大宮司(だいぐうじ)となり,政府の大教正を兼任。15年神道大社(たいしゃ)教(現出雲大社(おおやしろ)教)をおこし初代管長となる。21年元老院議官。以後貴族院議員,東京府知事,第1次西園寺(さいおんじ)内閣の法相などをつとめた。大正7年1月3日死去。74歳。出雲(島根県)出身。著作に「大道要義」「国廼真柱(くにのまはしら)」など。

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百科事典マイペディア 「千家尊福」の意味・わかりやすい解説

千家尊福【せんげたかとみ】

神道家,政治家。出雲国造(いずもこくぞう)家の出身。1872年出雲大社の宮司(ぐうじ)。1882年宮司を辞し,大社教(たいしゃきょう)管長として神道宣布に努めた。1888年管長をやめて元老院議官。静岡・埼玉・東京の各府県知事を歴任し,1908年司法大臣となる。元麿はその子。

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世界大百科事典(旧版)内の千家尊福の言及

【貴族院】より

… もっとも,日露戦争後のいわゆる桂園時代に,政友会は山県閥の貴族院支配に挑戦を試みた。まず第1次西園寺公望内閣の末期に,研究会の指導者堀田正養(子爵)を逓信大臣として入閣させて同会の分裂をはかり,また研究会の勢力外であった男爵議員の掌握をめざして木曜会の千家尊福(男爵)を司法大臣として入閣させた。後者の背景には,日清・日露戦争の結果,軍功などによる男爵の数が増加し,勅選議員と子爵議員を中心とする山県閥の貴族院支配に若干の動揺が生じたという事情があった。…

【大社教】より

…出雲大社を基盤とする教派神道の一派。立教者千家尊福(たかとみ)(1845‐1918)は,神道教化の徹底をはかるため,1873年出雲大社敬神講を結集し,敬神講を76年に大社教会と改称,79年に杵築(きづき)(現,島根県簸川郡大社町)に大社教本院を新築,民衆教化に尽力。また大教院奉斎のアメノミナカヌシノカミ,タカミムスビノカミ,カミムスビノカミ,アマテラスオオカミの4神に,幽冥界をつかさどるオオクニヌシノカミの合祀を主張し,伊勢派との祭神論争を展開。…

※「千家尊福」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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