千葉(市)(読み)ちば

日本大百科全書(ニッポニカ) 「千葉(市)」の意味・わかりやすい解説

千葉(市)
ちば

千葉県北西部、東京湾に面する県庁所在地。政令指定都市。内陸部は下総(しもうさ)台地が広がっていて、その間を小河川が刻んで谷津田(やつだ)(谷あいの水田)をつくり、海岸部には広大な埋立地が造成されている。気候は全般に温和でしのぎやすい。面積271.78平方キロメートル、人口97万4951(2020)。

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沿革

1921年(大正10)市制施行。1937年(昭和12)千葉郡検見川(けみがわ)町、蘇我(そが)町、都賀(つが)村、都(みやこ)村、1944年千城(ちしろ)村、1954年犢橋(こてはし)村、幕張(まくはり)町、1955年生浜(おいはま)町、椎名(しいな)村、誉田(ほんだ)村、1963年泉(いずみ)町、1969年には山武(さんぶ)郡土気(とけ)町を編入。地名は船だまりの意のアイヌ語チプ・パに由来するとか、緑の草木の多い土地がらから池田郷(ごう)を千葉郷に改めたともいわれる。縄文時代には海岸線が現在よりも内陸に入っており、長径160メートルの北貝塚と185メートルの南貝塚からなる加曽利貝塚(かそりかいづか)は日本最大級の規模を誇り、国指定特別史跡である。大和(やまと)国家の時代に入ると大私部氏(おおきさいべうじ)が千葉国造(くにのみやつこ)に任ぜられて一帯を支配し、下総国内で有力な地位にあった。平安時代、桓武(かんむ)天皇の子孫平忠常(ただつね)は市内土気の大椎(おおじ)城に居を構え、その子常将(つねまさ)は千葉氏を名のったが、1126年(大治1)常将の曽孫(そうそん)である常重(つねしげ)のときに市内亥鼻台(いのはなだい)に千葉城を築いて城を移した。常重の子常胤(つねたね)は源頼朝(よりとも)を支援し下総国の守護に任ぜられて以後、千葉六党といわれる武士団を形成し、300年以上にわたって北総(ほくそう)一帯に勢力を振るった。当時の千葉は表8000軒、裏8000軒、小路は560余といわれ、鎌倉と比べられる有力な城下町であったという。その後、15世紀中ごろ、千葉一族の内紛が起こり、千葉胤直(たねなお)はその叔父の馬加康胤(まくわりやすたね)によって千葉城を攻められて没し、馬加氏は佐倉(さくら)の将門(まさかど)山(現、酒々井(しすい)町)に本拠を移したので、ここに繁栄を誇った千葉の町は一寒村に戻ることになった。江戸中期堀田正亮(ほったまさすけ)が出羽(でわ)山形藩から佐倉へ入封し、千葉は一部がその所領となって、寒川(さむがわ)港に佐倉藩の米蔵が設置され、米や物資の積出し港とともに千葉街道の宿場町として機能しつつ明治維新を迎えた。

 1873年(明治6)千葉町に県庁が置かれ、行政機関や千葉師範学校、千葉医学専門学校、さらに陸軍鉄道第一連隊など軍関係施設が増えて発展を遂げた。1894年には市川―佐倉間に総武(そうぶ)鉄道が通じ、千葉町に千葉駅が開設されたが、市制施行した1921年(大正10)には東京―千葉間が電化され、一方、京成(けいせい)電鉄も押上(おしあげ)―千葉間が開通して沿線の住宅地開発が盛んとなった。第二次世界大戦後は東京湾岸に埋立地が造成されて工業化・都市化が進展するとともに、下総台地上にも7000戸を超える大規模の花見川(はなみがわ)団地をはじめ大規模住宅団地が多数建設され、急激な人口増加を招いた。1992年(平成4)に政令指定都市に移行し、中央、花見川、稲毛(いなげ)、若葉、緑、美浜(みはま)の6区が設けられた。

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産業

第二次世界大戦前には商業が盛んで消費都市的性格を有し、台地上での農業と東京湾岸でのノリや貝の浅海養殖業も千葉市の産業を特色づけていた。1940年(昭和15)に内務省土木会議は軍需産業を活発にすべく東京湾臨海工業地帯造成計画を決定し、今井地先が埋め立てられて1943年に日立航空機工場が進出したものの、すぐに終戦となった。その跡地が県や市当局の積極的な工業誘致策によって、川崎製鉄(現、JFEスチール)に無償で提供されることになり、これが戦後の千葉市以南の東京湾岸の重化学工業化の先駆けともなった。1953年の1号高炉操業を経て、1957年には東京電力火力発電所が隣接地で稼動を始め、京葉臨海工業地域(けいようりんかいこうぎょうちいき)形成に拍車がかかった。千葉港中央地区には食品コンビナート、自動車、木材、総合卸売団地などが建設され、犢橋(こてはし)、長沼などの内陸地域にも金属・機械工業が発達した。こうして京葉臨海コンビナート地域を含む千葉港の貨物取扱量は、1994年(平成6)に神戸を抜いて首位を示すほどとなった。製造品出荷額は、従業員数で3分の1を占める鉄鋼業をはじめ重化学工業が多く、百貨店やスーパーマーケットによって販売額が大幅に伸びた商業に匹敵する。農業は近郊農業畜産主体がある。美浜区の幕張浜の埋立地には、千葉幕張新都心が建設され、国際会議場や国際展示場を擁する幕張メッセ、大型インテリジェントビル、ホテルなどの施設が集まり、国際ビジネスセンターとして機能している。

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交通

房総(ぼうそう)半島各地への交通の結節点に位置しており、JRでは総武本線が通じるほか内房線、外房線が分岐し、総武本線から成田線を経由して成田国際空港にも直結している。総武本線は1981年(昭和56)津田沼―千葉間が複々線化され、千葉駅のプラットホーム増設工事も行われた(1983年使用開始)。また、千葉市中央区蘇我から東京湾岸の埋立地を走って新木場(しんきば)経由、東京駅に至る京葉線が1990年(平成2)に開通した。私鉄では京成電鉄千葉線が通じている。1992年京成電鉄千葉中央―大森台、1995年千葉中央―ちはら台駅間に開通した千葉急行線は、1998年京成電鉄に営業譲渡され、京成電鉄千原線となった。内陸部の住宅地と都心および臨海部を結ぶ新たな市内の都市大量輸送交通機関として期待された千葉都市モノレールは、2号線が1988年スポーツセンター―千城台、1991年千葉―スポーツセンター間で開通、1号線が1995年千葉―千葉みなと間、1999年千葉―県庁前間で開通した。

 国道は14号、16号のメインルートのほかに51号、126号、357号が走る。自動車道路では、東京と結ぶ京葉道路、東京および成田・茨城県潮来(いたこ)方面と結ぶ東関東自動車道、館山方面へ向かう館山自動車道のほか、千葉東金(とうがね)道路、千葉外房道路が通じている。

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生活文化

通勤者の大半は東京方面への通勤者であり、千葉市はベッドタウンの機能が強いので、市当局は地区図書館や運動施設、公民館を設け、地域に根ざしたコミュニティ活動を活発にしている。市域が広く緑が多く残っていて、泉(いずみ)自然公園や昭和の森、千葉市動物公園などが整備され、埋立地先には人工海浜のいなげの浜、幕張の浜が造成された。夏には親子三代祭が市の中心部で盛大に催され、埋立地では花火大会が行われる。西千葉には千葉大学があり、私立大学、短期大学も多い。そのほか幕張地区には放送大学などの教育施設や団地が開設された。千葉城跡の亥鼻台には県文化会館、郷土博物館や千葉大学医学部があり、埋立地には県立美術館が、青葉の森公園には県立中央博物館などがある。加曽利貝塚をはじめ多数の貝塚や青木昆陽(こんよう)甘藷(かんしょ)試作地、稲毛浅間(いなげせんげん)神社の神楽(かぐら)などの文化財がある。1986年(昭和61)には千葉ポートタワーが完成し、広大な埋立地を一望できる。

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『『千葉市史』全3巻(1974・千葉市)』


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