古代社会(読み)こだいしゃかい

改訂新版 世界大百科事典 「古代社会」の意味・わかりやすい解説

古代社会 (こだいしゃかい)

日本の原始・古代の社会は,採取,漁労,狩猟の社会から,水田耕作を中心とする農耕社会へと発展し,農耕社会の基盤の上に古代の文明が形成された。先土器時代と縄文時代とは採取,漁労,狩猟を中心とする労働によって営まれた時代であり,弥生時代以後は農耕を中心にする社会である。日本の原始・古代の社会は大きくはこの二つの段階に分けられ,文明や社会的な階級,国家形成は後者の段階の社会における歴史的発展の中で行われたものである。この際,日本の原始・古代の社会について,他の世界の諸国にみえる普遍的性格にくらべて注目される点は,独立した時代として,青銅器時代および鉄器時代という段階を経過しなかったこと,農業がはじまってからも牧畜という生産方法が採用されなかったこと,などが大きな特色となっている。またそのことと関連して,日本列島での原始・古代の歴史発展は中国や朝鮮半島での先進文化の存在がたえず前提条件になっており,日本の社会の変化も,このような大陸からの外来的要因をたえずふくみつつ行われたことである。

この段階の原始社会は,先土器文化の時代と縄文文化の時代に分けられる。

先土器文化の時代は前3万年前から前1万年前後までで,世界史的には旧石器時代の後期に相当するといわれている。まだ土器の製作を知らない時代である。

この時代の主たる生業は狩猟と採取とであって,石器を生産用具として用いた。この先土器文化は1945年以後になってはじめて日本列島内でその存在が確認されたもので,研究史も新しく,今後の発掘調査によって明らかにされるであろう部分が大きい。石器は最初は打ったり,割ったりするための敲打器や刃器がつくられ,その後槍先形石器が多くなっていった。これは投槍による遠距離からの狩猟法を可能にしたことを示しており,生産が前進したことを物語っている。しかし弓と矢を使用しはじめた縄文時代よりはおくれている。

この時代の人々は,石器の集中して分布する地点を2~3ヵ所ずつ近接して残しており,このグループが彼らの一つの生活単位をなしていたらしい。さらに関東地方では,武蔵野台地全体にひろがる共通の生活圏をもつグループがその小グループの上に考えられていて,前者の小グループとあわせて,大小二つの重層した集団を構成して生活していたとされている。

 小グループは日常的な採捕生活の拠点であり,大グループは大型獣や動物群に対する集団狩猟を行った単位ではなかったかと考えられている。この時代には土器もなく,貯蔵用の施設もみつかっていないので,剰余生産物を作りだすような生産力段階にまでは到達していなかったものと思われる。

縄文時代は前1万年ころにはじまるが,この時代は人々の生活の範囲と生産技術が大きく上昇した時代である。

人々は弓矢を使いはじめ,また土器の使用もはじまった。弓矢が使われるようになったことは狩猟の対象が拡大し,また収穫量の増大をもたらしたし,土器の使用の開始は,焼くか生でしか物を食べなかった時代にくらべると,煮たきした食物をとることが可能になった。縄文時代人がドングリやトチの実を食べるようになったのは煮たきできるようになったことと関連している。このほか,海浜漁業が成立し,漁労が食料獲得に大きな地位を占めるようになった。

このような生産力の上昇は,一つには弓矢・土器の使用開始という人々の主体的な努力とともに,この時代が比較的温暖な気候にみまわれ,海浜線が上昇し漁労が容易になったことなどの自然状況の変化にも原因がある。まだ人間の労働は自然の力の前に大きく屈していたのである。採取,狩猟および漁労などの労働は集団労働として行われており,この集団は特定の地域にかなりながく定着して居住するようになった。先土器時代の人々が,ほとんど住居跡らしいものを残さなかったのに対して,縄文時代の人々は竪穴住居からなる集落跡を多数残したのである。その竪穴住居は時期や地域によっても異なるが,6~12棟ぐらいで一つのグループをなし,それぞれのグループは環状につらなってつくられている。この竪穴住居にかこまれた広場は集落の祭祀や集会の場として使われたらしい。

このように縄文時代の社会は採取,狩猟,漁労の各種の生産活動によってなりたっており,先土器時代にくらべると生産活動の種類はかなり多様になり,その生活はかなり上昇したものと思われる。縄文時代の後期になると,原始的な農耕--たとえば〈いも〉の栽培等--がはじまり,より生産力の水準は上昇した。しかし,各種の労働のどれ一つをとってみても,自然環境に従属した面が大きく,その収穫量も不安定さを残していた。少なくとも計画的に自分たちの経済生活を安定させるためには,かなりの努力と環境上の幸運とを必要としたものと思われる。それでも,この時代の中期以後は,通常,貯蔵穴といわれるピットが竪穴住居の内外に作られるようになり,ある程度の食料の備蓄が可能になってきたことを示している。

社会的分業については,矢じりなどの石器の原料である黒曜石はその産地が限定されるので,あるいは交易で普及したのかもしれない。また結晶塩が山間部の人々と海浜部の人々とのあいだで交換されたことなどが推定されているが,社会的に大きな意義はもちえなかった。また狩猟や漁労とならんで原始農耕が生まれたが,家畜の馴致という点では,狩猟に使う犬以外には存在しなかったらしい。これは縄文時代人にとって採取,漁労によって得られる植物性の食物がかなり豊かであったことも関連して,食肉用の家畜ないしは牧畜を発展させる必要がなかったためかもしれない。このことはヨーロッパや中国の原始社会が,はやくから牧畜を生業として知っており,その結果,皮革やチーズなどを媒介にして,農業民との間での社会的分業が生まれたのに対して,日本の原始社会が社会的分業を発展させえなかった一つの要因となっている。

前3~前2世紀を境に,日本列島は水田農耕を基本にした経済の上になりたつ社会へと移行する。その過渡期の現象として縄文土器を使用した人々が同時に水田耕作を行うようになった場合があり,それらの遺跡も近年各地でみつかるようになった。

この水田耕作を中心にする弥生時代への移行は,北九州にはじまり,やがて関東地方へ波及するが,それには200年ほどの時間の経過を必要としたらしい。この転換は日本の原始社会に,きわめて大きな変革をもたらした。世界史的にも農業社会への原始社会の移行は,農業革命と呼ばれているように,古代文明の成立の大きな前提となったのである。もちろん縄文時代にも原始的な農耕は行われていたが,それは縄文時代の経済活動へ規定力をもつようなことはなかった。これに対して水田耕作は弥生時代以後の人々の生活に決定的な役割をあたえた。もちろん弥生時代人も,その後の古墳時代奈良時代等々の人々も,その生活の基盤がすべて水田耕作にあったわけではなく,狩猟や漁労,採取経済にもかなりの部分依拠していたことはまちがいない。弥生時代についていえば,銅鐸にみえる狩猟の図や出土する多量の石鏃はその一端を示している。

水田は当時の開発技術から低湿地や谷頭などの稲作に好条件のところにかぎって営まれており,その周辺の大地や海,川などはなお狩猟,漁労,採取のための労働対象として弥生時代人に利用されていたのである。しかし,水田耕作が狩猟や採取を中心とする経済と本質的に違っているのは,あらかじめ予想された収穫量を目的に,計画的に生産活動を営むことができたところにある。つまり,人々は翌年の収穫時期まで,さらには不時の災害への備蓄をも予定に入れて,水田を開発することができるようになったことである。もちろん,これは水田開発に注入できる労働力や自然的条件によっても左右されるが,計画性のある経済としては,はるかに縄文時代の経済をしのぐこととなった。

水田生活はこのほかにも人々の生活を変えていった。土器の形態もそうである。たとえば弥生式土器縄文式土器の多くが深バチか浅バチの2種類に集中しているのに対して,壺,土ナベ,カメなどが主たる形態となっていて,このように器種が変化するのは弥生時代になって米の煮たきや貯蔵に対応して生じたものとされている。また稲を保存しておくために高床の倉庫がつくられるようになり,多量の稲や穀が備蓄されるようになったのである。一方,弥生時代には青銅器と鉄器とが石器と併用して作られ使用された。このためにかつては金石併用時代とも呼ばれ,ヨーロッパのように石器,青銅器,鉄器というように各時代が継起して発展するようなことはなく,石器時代の終末期にあたる弥生時代には青銅器と鉄器とが石器とともに併用されたのである。これは中国,朝鮮ですでに発達していた青銅器文化,鉄器文化が弥生時代にあいついで渡来し,重層的に日本列島内で使用されたためである。したがって両種の道具には使いわけが行われ,青銅器は主として宗教的儀器に,鉄器は実用の道具に使われ,弥生時代の後半には農具も鉄製のものが使われた。このような金属器の使用,とくに鉄器の使用は農工具を改善し,水田の開発や家屋の建設を容易にした。

弥生時代に成立した水田耕作を基礎とする社会の構造は,その後の古墳時代,奈良時代にもその基幹部分が継承・発展させられた。弥生時代の社会の基本的構造は次のような経済の再生産構造をもっている。水田耕作を基盤にし,そこからの収穫物である稲穀が経済循環の媒体になっている。一度収穫された稲穀は村内の高床倉庫に保管され,次の収穫期までの村民の食料と不慮の事態に対処するための備蓄とされた。これによって弥生時代は,縄文時代よりもはるかに経済的再生産構造の安定した社会を作りだすことになった。また一方では剰余生産物が恒常的に存在する社会となったことを示している。したがって,ここでは村ごとの稲穀の備蓄が可能になったのと同時に,私有財産を生みだすことになった。弥生時代の墳墓は縄文時代のそれと違って貧富の差がはっきりとみられるようになった。しかし,村の再生産構造の基本は前述した村内の倉庫が中心であり,その倉庫を管理する族長のもとに村民が指揮された。水田の開発,耕作についての指導権は族長がもっていたらしい。もっとも,族長は本来村民の合意のもとに指導権を実行したものと思われるが,しだいに私有財産を蓄積し,実力を上昇させていくにつれて族長の支配権が強化されたものと思われる。こうして日本の古代社会は階級社会へ移行しはじめたのである。このような村落構造は,古墳時代にも律令制社会にも基本的にはひきつがれたのであるが,しかし,生産技術の発展にもとづいて,この構造にも当然,時代による変化,発展がみられる。

弥生時代終末には,邪馬台国にみられるように,日本列島内部に政治的連合体が生まれるようになった。この政治連合は,各村単位をこえて,各地域を統合するようになった族長を基盤にしてなりたっていたが,このような族長を媒介に支配秩序が組みたてられるようになったのは,族長層への卓越した富の蓄積があったからだと思われる。そのような富の蓄積には,青銅器・鉄器の所有,およびその使用による生産力の族長への集中といった要因があったと思われるが,この金属器の使用に関連して注意されるのは,それらの金属器ないしはその原材料が朝鮮半島からの渡来品であったことである。つまり,族長が保持した金属器は,日本列島内で発展した自立した手工業にもとづいたものではなく,族長の支配する村落とは別に,彼らが接した大陸との直接,間接の交渉によってのみ集積されたものであった。したがって,鉄器生産--原材料からの加工の場合--の発展は族長の富を高めることにはなっても,各村内の社会構成を内側から解体していくことがなく,鉄器は族長間の分配と交易の結果として全国的に普及していったのである。したがって,鉄器・青銅器の普及は族長の権威と経済の上昇を増大させるものにはなったけれども,古くからの共同体的な村落の秩序はあまり変化することがなかった。

 このような族長層を中心とする生産力の集中は,族長を中心とする生産力の消費,なかでも宗教的儀礼と軍事生産の拡大を生みだした。弥生時代の銅剣・銅矛・銅鐸の生産や,後の古墳時代における墳丘の大規模な造営は前者を具体的に示している。族長は,まだ共同体の代表者であるという側面が強かったから,その富の集中・消費は私有財産という側面よりも,共同体の維持のための呪術と権威の誇示のために行われた。前方後円墳の前方部が共同体的祭儀の場ではないかと考えられるのも,このような社会構造が反映しているとみるからである。

ひとたび鉄器が直接生産者にわたって生産活動が前進しはじめると,社会構造にも変化をあたえることになる。5世紀後半にはU字型鍬・鋤先と呼ばれる深耕型の農具が使われるようになり,それまで低湿地を中心に開発されていた水田は,それ以外の灌漑を必要とする土地にまでひろげることができるようになった。したがって水田開発はかなり広い範囲で,しかも計画的に行われるようになった。今日発掘されている水田跡の例でも,均等な小規模な水田が計画的に営まれているものがみつかっている(群馬県御布呂(おふろ)遺跡,熊野堂遺跡)。このような水田耕作の拡大・発展は剰余生産物をいっそう増加させ,族長の管理する経済力を拡大したが,一方では個々の村々での有力層が直接農業労働を経営しながら自立し,私有財産を蓄積していく方向を可能にしていった。このように,漸進的ではあるが族長層や村落有力層における私富の蓄積は,彼らをしだいに階級的な支配者へと変質させていった。6,7世紀になって5世紀までのような巨大な古墳が造営されなくなり,群集墳がかなり盛行するようになっていくのは,このような社会的変質を反映したものといえよう。このような変質は,しだいに村落を基礎とする共同体的諸関係を衰退させていくこととなり,日本の古代社会は新しい支配秩序をつくる必要が生じたのである。この過程は6世紀からしだいにあらわれはじめ,7世紀にはいって発展する。新しい中央政府の建設,国家機構の形成がはじめられたのである。このような動きは7世紀末の律令制社会の確立によって一応の終止符がつけられることになる。

律令制の時代は,これまで述べてきたような日本の内部における生産力の発達にもとづく私的富の発展,共同体的諸関係の衰退によってその前提の一つが作りだされたが,経済の再生産構造に重要な役割をはたしたのは,依然として弥生時代以来の倉を媒介にする村の社会であって,そのかぎりで共同体的関係は強い規制力を残しており,それを打破するような社会的分業の発展もみられなかった。これは鉄器を中心とする手工業の発達が族長の管理のもとに当初からおかれ,共同体の中から発展したものではなかったことにもよっている。しかも製鉄技術者も製玉技術者もいずれも半農半手工業の集団であって,決して農業から分離した手工業者ではなかった。このような農業から分離した手工業者が成立したのは,権力によって都城が設置され,その中に集住させられることによってなされたものである。

このように社会内在的な社会的分業が未発達で,そのために共同体関係が強く残っていた社会に,律令法が7世紀末に大陸から継受され,国家機構への移行が行われたのは,日本がおかれていた当時の国際的条件によるといわれている。6世紀末に隋が中国を統一し,さらに7世紀のはじめに唐が中国を統一して,東アジア全体に大きな影響力をもつ帝国が形成された。その形成の過程で,朝鮮半島の高句麗,新羅,百済の3国が戦乱にまきこまれ,最後は日本も百済に出兵するなど軍事的な影響が朝鮮3国と日本におよび,程度の差はあれ国際的緊張がたかまった。この国際的緊張に対応すべく,日本でも権力の集中がはかられ,中国や朝鮮諸国に似せて律令国家が形成されるようになった。702年(大宝2)の大宝律令の実施は,このような律令法継受の一つの決着を示している。

しかし,日本で成立した律令制は上記のような外的条件によってなされたものであったから,律令制度と日本の在来の社会とにはおのずからずれが存在し,律令法から当時の日本の社会をそのまま復元することはできない。唐の村落制度は州県の下に里制と村制との二つがあり,里制は租税の収奪のための行政組織で100戸を1里として編成したもの,村は自然村をそのまま掌握して警察権をになうようにしたもので,いわば二重の体制になっていた。これに対して日本では,政府は国・郡・里は実施したものの,自然村である村は直接行政的には把握しなかった。したがって50戸1里を原則とする里制と,実際の村々の生活のあり方にはある程度のずれが生じ,律令にみえる里制や,それを実施した際につくられる戸籍・計帳だけによって,8世紀の村落を復元するわけにはいかないのである。現状では里が実際の村々の生活単位とどのようにかかわっていたのかはよくわかっていない。また文献史料にみえる村が里とどのように関係していたのかもわからない。さらに近年発掘調査の結果みつかっている7~9世紀代の集落跡と村・里との関係もまだ研究課題を多く残している。現在残されている下総国,美濃国,筑前国等の戸籍から計算してみると,里(郷)は,複数の集落跡から構成されていたものらしく考えられる。一つの集落は,およそ4~5戸,多くても10戸をこえない程度のものであったと思われる。このように里の下にあった集落は,やはり弥生・古墳時代とほぼ同じような構成,経済生活を基礎にしていた。

ただ7世紀代になると,畿内周辺では竪穴住居がなくなって掘立柱建物にかわるといった,生活様式の変化や技術の発展がみとめられる。また,関東地方では古墳時代の後半以後になると,各竪穴住居ごとにかまどが作られるようになり,消費生活の単位が竪穴ごとになり,かなり小さなものになっていたことが知られている。しかし竪穴住居は5~6棟で一つのグループをなしており,そのグループの多くは農作業用のひろばをもっていて,農業経営の一つのまとまりであったことが知られる。したがって竪穴住居のそれぞれは農業経営として自立していたわけではない。逆に,竪穴住居数棟のグループの方がしだいに農業労働の中で自立していったものと考えられる。7,8世紀の段階の農業労働は,灌漑工事をともなう開発やその他の水利は族長が管理し,倉庫からの稲の出入の管理は族長とその下の共同体成員とによって管理され,田植から収穫にいたる個別の経営は竪穴住居の小グループで,消費生活は各竪穴住居の住人でというように区別されていたものと思われる。

倉庫を中心とする経済の再生産構造も,古墳時代以前と同じように行われた。春,秋には農村では収穫を祈念し祝う祭りが行われ,春祭とともに倉庫から種もみが農民に対して,水田の営料(経営費)や出挙(すいこ)(利稲つきの稲の貸出し)の名目で支出され,秋には営料をうけとった場合には,田主へ収穫物を提出し,出挙の場合は利稲をくわえて倉庫に返納した。律令法によって農民に支給された口分田や,8世紀の後半からみとめられるようになった(743年,墾田永年私財法による)私有の墾田の経営も,この倉庫を中心とする循環を媒介に行われた。ただ古墳時代や弥生時代と違って,律令国家が保管する倉庫が出現した。郡家(ぐうけ)に造られ,国司が管理した正倉(しようそう)がそれである。国司は,かつて村落内にあった小規模の倉も一部管理したが,それとは別にかなり長大な倉庫を建設し,そこに緊急の災害用に備蓄した穀,国衙の経費にあてるための稲をおいた。財源は,口分田から租税として収取される田租,国司管理の田を農民に貸し付けてその5分の1をとりたてる賃租(ちんそ),2分の1ないし3割の利率で農民に貸し付けられる出挙等であり,そのうち最後の出挙の占めるパーセントがしだいに高くなっていった。

律令政府は一般民衆を戸籍・計帳に貫附し,それを台帳にさまざまな租税を課した。成年男子に対する調・庸・雑徭,17歳から20歳にいたる男子に対する中男作物(ちゆうなんさくもつ),6歳以上の男女に支給した口分田に対してかけられた田租などがあり,これらは一応一人一人の名前を限定して租税が賦課されたので,個別人身支配と称されている。もっとも,それぞれの租税が,まったく個人の力量でもっておさめられたわけではなく,調庸布などは1人の人間の織り幅より布の幅が大きいことからみて,族長層を指導者とする協業によってつくられた可能性が指摘されているし,中男作物の多くは海産物ないし採取労働にもとづくもの,簡単な手工業(木工)などによる品目が収取されたが,これら中男作物につけられた荷札(平城宮跡等で出土する遺物の一つ,木簡と称され,一群に租税物資の荷札がある)は郡・郷までを記載するものが多く,個人名のものが少ないところから,若年層の協業にもとづいて貢納されたものと思われる。また,8世紀代は当然,農耕を基本とする社会であったが,調や中男作物にみられるように,人々の生活と同時に租税も採取労働や漁労労働に依拠していた部分が残っていたことが知られる。

律令政府は,統一した全国支配を行うために,全面的な身分制を作りあげた。政治権力を掌握したのは,身分制の上にたって,氏・姓(かばね)をもたない天皇と,その下にあって通貴と称される五位以上の貴族である。この貴族は身分的にも経済的にも国家によって保護されており,前代から畿内を拠点に大和政権を構成していた大豪族の後継者が占めていた。これに対して畿外の豪族は五位以内に昇進することができなかった。また三位以上の位階をもつものはとくに貴と称された。これに対して下級官人と一般民衆は白丁(はくてい)とされ,良民としてあつかわれたが,特別な権益は奪われていた。さらに良民の下には無姓の賤民が設定された。一般に官戸(かんこ),家人(けにん),陵戸(りようこ),公奴婢(くぬひ),私奴婢(しぬひ)がそれで五色の賤といわれ,人権を認められず,法的にも奴隷状態におかれていたが,社会的には数パーセントの人数しか占めなかった。

このような身分制下にあって租税をになった人々がどのような家族を構成していたのかは,まだ解明されていない点が多い。従来から有力な学説として認められていたのは,戸籍にみえる50戸1里の単位となった郷戸を家父長制的世帯共同体とみ,これが農業労働の重要な単位として存在していたとする説である。その説によれば,このような家族は竪穴住居5~6棟の小グループに対応するもので,家父長が絶対的権力をもち,田宅,奴婢などの私有財産の処分権を掌握していたものとされている。これに対して,近年では,家父長の権限はそれほど強力なものではないこと,また家系は男系によってのみつたわるものではなく,父系と母系との双方によってかぞえられる双系制の社会であるという指摘,さらには8世紀段階でも日本は対偶婚の段階にあって,家父長制家族は成立していなかったという見解があいついで提起されており,学界の共通認識は十分得られているとはいえない。

このように家族についての理解が学界で一致をみていないのと同様に,8世紀の社会構成の本質規定についても諸説がある。その一つは,8世紀の社会を地方における族長=在地首長のもつ経済構造を基本とし,在地首長のもとにおける経済活動が律令制の社会を律しているものとする考え方である。この在地首長のもつ生産関係は,首長がその下における共同体成員を奴隷的な人身隷属関係においていることの上になりたっており,この意味では日本の古代をマルクスのいう総体的奴隷制社会と考える学説である。これに対して,地方の族長のもつ奴婢=奴隷の存在に注目し,未発達ではあるが,このような首長と奴隷との関係が国家的規模で展開したものを国家的奴隷制として,8世紀の日本の社会にあてはめようという見解がある。このほかに同じく国家的奴隷制という用語を使って,律令制下における小経営をそのまま奴隷経営とみる考え方もある。これらについてもなお,一致した学界の結論は得られていない。

 このように議論が決着をみない一つの理由は,日本をふくめてアジアの諸国ではギリシア・ローマ世界のように奴隷制があまり発展しなかったこと,したがって古代=奴隷制という図式ではなかなか把握できないという点にある。したがって,日本の古代社会の基本的特質をつかまえるには,なお実証的な事実問題の確定も残されていると同時に,ヨーロッパ史との対比において理論的わくぐみをさらに発展・検討する余地が残されているといえよう。

 このように社会構成の基本的認識については,なお学界の課題として残されている部分も多いが,今日の状況で日本古代の家族について,あるいは家族をこえて,それをふくみこんだ血縁関係について確認されつつあることを,中国と比較しつつ次に述べてみることとする。たとえば中国の社会が父系制による家父長制社会になっており,家長の権限も強いのに対して,日本の場合は相続制についても父系制はかならずしも貫徹していず,家父長権も弱い。また親族呼称も中国が父系と母系とで呼称のしかたが区別されているのに対して,日本ではその区別がない等の違いがある。また婚姻形態も家父長制家族にはふさわしくない招婿婚が行われていた等の諸点がある(〈婚姻〉の項目を参照)。したがって,中国に生まれた律令法を継受した日本の社会は,その社会の単位となる家族のあり方からして,かなり違っていたのである。ちなみに現存戸籍によるかぎり,中国では4世紀代から単婚家族が戸として把握されているが,日本では戸にみえる家族は複合家族になっており,そのことが戸を家父長制家族とみる説を生みだした一つの原因にもなっている。

 このような,社会的基盤の違いのために日本では戸籍と計帳とにもとづく支配は8世紀から9世紀にかけて衰退していく方向をたどった。もちろん,このような籍帳による個別人身支配の後退は,中国をモデルとする律令と実社会との矛盾ということにも一因があるが,当時の民衆が籍帳支配による租税の収奪に対して,たえず浮浪・逃亡(〈浮浪・逃亡〉の項目を参照)といった抵抗をくりかえし,しだいに籍帳による支配のわくぐみから自立し,離れていったためにもよる。この浮浪と逃亡とは,従来自分が生活していた農村から他国への逃亡というコースと,都へ労役にかり出されていたものが故郷に逃げ帰るというコースの2者があるが,後者がその抵抗により,新しい展望をきりひらくことが少なかったのに対して,前者は,新しい土地の開発をもたらし,貴族か寺院の私的な保護を得ることによって,律令制の社会の外縁に新しい社会秩序を作りだしたという点では,社会を変質させる要因となりえたものと評価できる。

律令国家の成立は,その首都としての都城が建設されることとなった。もちろん社会的分業が未発達であったために,日本の国内での自生的な経済発展の結果として都市と農村との分離が生じたわけではない。恒久的な国家機構の所在地として都城が設定され,そこでは農村とは違った生活が強制的に作りだされたのである。したがって都城の経済的基盤は,地方からの租税の収取によってなりたっており,前述したように浮浪・逃亡によって籍帳による貢納経済が後退すれば都城の経済事情も悪化したのである。都城がやがて自立的な都市として変質するためには,律令制とは違った荘園を舞台とする経済秩序,支配秩序が形成される必要があったのである。
飛鳥時代 →古代法 →古墳文化 →縄文文化 →先縄文時代 →中世社会 →奈良時代 →平安京 →平安時代 →平城京 →弥生文化
執筆者:

古代社会 (こだいしゃかい)
Ancient Society

アメリカ文化人類学の先駆者ともいうべきL.H.モーガンの主著(1877)。社会進化論の代表的著作で,あらゆる人類社会は進化の速度はちがっても画一的な段階を通過するという一線進化論の立場から書かれた。その内容は,古典資料のほかモーガン自身の広範なアメリカ・インディアン社会の現地調査,および世界各地のキリスト教宣教師らの報告を参照している点で,当時としては出色のものであった。彼は発展段階を〈野蛮〉〈未開〉〈文明〉の三つに分け,各段階における家族・婚姻形態,財産所有制度,政治体制等を考察した。〈血縁家族〉から〈単婚家族〉へ,〈母系〉から〈父系〉へ,〈共有〉から〈私有〉へ,〈血縁紐帯〉から〈地縁紐帯〉へ,等の図式の大半は今日その妥当性を疑われているが,その基礎となった親族名称の分類は最初の本格的な研究であり,モーガンの偉大な功績といえる。本書はマルクスとエンゲルスが大きな関心をよせたことでも知られ,エンゲルスの《家族,私有財産および国家の起源》(1884)は本書の図式に依拠するところが大きい。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「古代社会」の意味・わかりやすい解説

古代社会
こだいしゃかい
ancient society

L.H.モーガンのように原始社会 (原始共同体の社会) を古代社会と呼ぶ場合があるが,一般的には原始共同体の解体のうえに生じた奴隷制を特徴とする社会をいい,ギリシア,ローマのいわゆる「古典古代」がその代表的形態とみられている。その特徴は私的土地所有と私的経営の成熟にあるが,同時に公有地の維持,管理に必要な義務負担もある。しかも絶えずそれを拡張していかざるをえず,侵略戦争を繰返すことになる。したがって自由民は戦士であり,共同体国家 (典型的には都市国家) は戦士組織でもあり,戦争の成果は,土地と奴隷と産物の獲得をもたらし,奴隷による農耕や手工業が展開された。もちろん,古代社会にも原始共同体から持越された共同体的土地占取の様式や種族的結合の紐帯や弛緩の度合いによっていくつかの形態がみられる。古典古代を典型としながらも,種族共同体的なアジア的な形態から,のちの中世封建社会にまで発展したほとんど地縁的,村落的な形態を示すにすぎないゲルマン的形態にいたるまで多様である。日本の古代社会は2~3世紀の卑弥呼 (ひみこ) の時代から,平安時代を経て,鎌倉幕府によって前期封建制が成立するまで続いたとみてよいであろう。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

山川 世界史小辞典 改訂新版 「古代社会」の解説

古代社会(こだいしゃかい)
ancient society

モーガンのこの名の著述では原始社会が扱われているが,一般に歴史家は原始社会に続き,中世,近世に先行する時代の社会の意味に使う。古代,中世,近世の時代区分は,近世西欧で一般文化史の見地から生まれたものである。ヨーロッパでは三つの時代の社会構成の差異が,ギリシア・ローマの古典古代の奴隷制,中世の農奴制,近世の資本主義社会の賃労働によってはっきりしている。史的唯物論は古代社会すなわち奴隷制社会とするが,アジアにおいては奴隷制度がギリシア・ローマのように発展しなかったため,この史観に立つ人々の間でも,例えば中国の古代社会をどの時代に置くかについては,学者の見解が一致していない。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

百科事典マイペディア 「古代社会」の意味・わかりやすい解説

古代社会【こだいしゃかい】

L.H.モーガンの著書。《Ancient Society》。1877年刊。親族名称を手掛りに,それに相応する婚姻・家族制度を再構成して,人類の文化が野蛮・未開・文明時代へと進化してきたことを述べる。世界のどの民族も例外なくこの発展系列を経てきたものとしており,進化主義的文化人類学の代表的な著である。

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

世界大百科事典(旧版)内の古代社会の言及

【家族】より

… 19世紀末から20世紀にかけてのこの時期は,同時に生物学的進化論が隆盛をきわめた時代でもあり,家族論はこの影響を濃厚に受けて,家族の諸類型を進化論的系列に並べて理解しようとする試みが多く現れた。その典型がL.H.モーガンで,彼は《古代社会》(1877)において,婚姻形態を原始乱婚制からもっとも進化した一夫一婦制に至る数段階に配列し,家族形態もそれに対応させた。この仮説の基礎になっている親族名称の分析は,人類学史上画期的なものとされ,さらにエンゲルスの《家族,私有財産および国家の起源》(1884)にそのまま踏襲されて大きな影響力を振るった。…

【原始共産制】より

…しかし種族は,ヨーロッパ人の記憶にまだ新しくかつ旧約聖書に知られた家族形態すなわち家父長制家族の拡大したものと考えられ,したがってこの原始的共産制は,婦人・子どもの家父への隷属,および奴隷制をともなうものと考えられた(エンゲルス《反デューリング論》1878)。L.H.モーガンの《古代社会》(1877)は,血縁にもとづく自然的共同体(氏族,部族)こそ本源的な人間の社会的結合であり,夫婦という非血縁関係を中核とする家族は,第2次的な関係で,しかも本来の血縁共同体に対立し,その解体にともなって成長してくる新しい関係であること,血縁共同体は本来は母系制であることを示した。これによれば原始共産制は婦人の隷属も奴隷制も知らない真の平等社会ということになる(エンゲルス《家族,私有財産および国家の起源》1884)。…

【氏族制度】より

…しかるにこの方法を進めていくと,これまで氏族の名でよばれてきた組織は,けっして首尾一貫した単一な原理によって形成された固定的なものではなく,むしろその構造原理において,いくつかのカテゴリーに類別しうる多様な組織の総称であり,かつこれらのカテゴリー相互の間には,容易に一方から他方に変化しうる流動性の存することが見いだされるのである。
【研究史と問題の所在】
 人類史における氏族制度の意義をはじめて体系的に明らかにしたのは,L.H.モーガンの《古代社会》(1877)である。モーガンは多年にわたり,みずから北アメリカ東部のイロコイ諸族の中に入って調査にあたったが,ここに発見した母系の氏族制度がイロコイ諸族の社会に占める大きな役割に対してひじょうな興味をおぼえ,この種の形態を,文明のはるか以前,人類進化の初期に生まれた原始的な氏族制度の典型と考えた。…

【モーガン】より

…また《人類の血族と姻族の諸体系Systems of Consanguinity and Affinity of the Human Family》(1871)は人類学調査におけるテーマとしての親族組織の重要性を明らかにし,とくに親族用語を記述的用語と分類的用語に分けて考察することの必要性を指摘した。人類は,その起源と経験と進歩において一つだという前提に立つモーガンは,蒙昧から野蛮の段階をへて文明段階に至るという文化進化の一大図式を《古代社会》(1877)の中で提出した。この図式はエンゲルスの《家族,私有財産および国家の起源》(1884)に借用され,マルクス主義史観に影響を及ぼした。…

※「古代社会」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android