名古屋(市)(読み)なごや

日本大百科全書(ニッポニカ) 「名古屋(市)」の意味・わかりやすい解説

名古屋(市)
なごや

愛知県の県庁所在市。京都と東京の中間に位置するため中京ともよばれる。東京圏、関西圏に次ぐ名古屋圏の中心都市で、人口では東京都区部、横浜市、大阪市に次いで全国第4位。なごやは那古野、那護野などと書かれ、由来にも諸説があって一定しないが、名古屋に統一されたのは1870年(明治3)の名古屋藩監察令による。1871年の廃藩置県に際して名古屋県が置かれたとき、区画章程によって名古屋と熱田(あつた)の範囲は第一大区とされ、県庁、鎮台、裁判所などの官公署が設置され、城下町から近代行政都市へと転身する基礎が整った。翌1872年に愛知県と改称されたが、1878年の郡区町村編制法施行のとき熱田を分離し、名古屋区となった。これが独立行政体としての名古屋の誕生である。

 1888年(明治21)に公布された市町村制によって、名古屋も翌1889年に県下で初の市となった。面積約13.34平方キロメートル、人口15万7496人であった。市域は26回の町村併合を重ねて拡大したが、重要なものでは第二次世界大戦前の3回、戦後の3回があげられる。すなわち、1907年(明治40)の熱田町・小碓(おうす)村新田地区合併、1921年の愛知郡・西春日井(にしかすがい)郡16町村合併、1937年の下之一色(しものいっしき)町・庄内町・萩野村合併、1955年の隣接3郡6町村合併、1963年の守山(もりやま)市・鳴海(なるみ)町合併、1964年の有松(ありまつ)町・大高(おおたか)町合併である。この間、区制は1908年4区、1937年10区、1944年13区、1945年12区、1963年14区を経て、1975年に現在の16区となった。現在の面積は326.50平方キロメートル(境界一部未定)。人口は1934年(昭和9)に100万人を、1969年に200万人を超え、2020年(令和2)国勢調査時の人口は233万2176人を数える。1966年から社会増減(転入数-転出数)がマイナスに転じ、1972年から自然増(出生数-死亡数)の縮小が続いていたが、1995年以降、社会増のマイナスが減少(転入数が微増、転出数が微減)していることもあり、1997年以降、総人口はほぼ横ばいの状態にある。

[伊藤達雄]

自然

市域の地形は、東部丘陵・熱田台地・沖積平野の三つに大別され、東から西へ高度を下げる配置で、市街の中心は熱田台地上に位置している。伊勢(いせ)湾に面する低地には名古屋港を含む埋立地が広がる。最高地点は守山区の東谷(とうごく)山(198メートル)、最低地点は港区新茶屋4丁目(マイナス1.73メートル)。

 気候は温暖な東海気候区に属し、1981年から2010年までの平均値によると、年平均気温15.8℃、年平均降水量1535.3ミリメートル。最暖月(8月)の平均気温は27.8℃、最寒月(1月)のそれは4.5℃。冬は乾期で快晴日が多いが北西の卓越風が強く、ときに降雪をもたらすが積雪は少ない。市街中心部では都市気候とよばれる、周辺部に比べて高温域となるヒートアイランド現象がみられる。

 大きな自然災害としては、1891年(明治24)の濃尾地震(のうびじしん)、1944年(昭和19)の東南海地震、1953年の台風13号、1959年の伊勢湾台風などが記録に残る。とくに伊勢湾台風では満潮と重なった高潮が名古屋港で5.3メートルにも達し、低湿地帯を中心に死者行方不明1851人、住宅被害約11万8000戸、被災者約53万人という被害をもたらし、未曽有(みぞう)の都市型災害として多くの教訓を残した。

[伊藤達雄]

歴史

「なごや」が古書に初出するのは鎌倉時代末期で、平安時代末期に開発された荘園(しょうえん)「那古野荘」(建春門院法花堂領。領家は九条氏出身の小野顕恵)からである。台地縁辺部には貝塚など縄文時代の遺跡が分布し、先史時代から人が住み着いていたことが推察され、古墳群のあるところをみると、その後も引き続き集落が存在したといえよう。しかし台地上に城ができたのは16世紀で、現在の二の丸付近に今川氏親(うじちか)が那古屋城を築城、末子の氏豊(うじとよ)(義元(よしもと)の弟)が居城したが、海部(あま)郡の勝幡(しょばた)城主の織田信秀(のぶひで)によって奪取され、信秀が古渡(ふるわたり)城(現、東本願寺名古屋別院)をつくって移るとともに、二の丸近辺は元の原野に戻ってしまった。当時は尾張(おわり)国の中心は清洲(きよす)であった。

 尾張の中心が名古屋に移ったのは1610年(慶長15)に徳川家康が壮大な城下町をつくってからのことである。関ヶ原の戦いで勝利を収めた家康は、大坂方に対する防衛第一線を木曽(きそ)川とし、軍事・行政上の拠点を名古屋城とし、水害のおそれのある清洲から台地上に移すことにした。また、尾張藩の穀倉は尾張平野と考え、水害防止のために木曽川左岸に堅固な「御囲堤(おかこいづつみ)」といわれる堤防をつくらせ、尾張藩主には第9子義直(よしなお)を甲府から移封した。名古屋城の着工は1610年2月、天守閣完成は1612年12月である。新城下町には旧城下町清洲から武士・町人を町ぐるみ移転させた。これが有名な「清洲越(きよすごし)」である。「清洲越」によってにぎやかになった城下町は、早くも1654年(承応3)には武家・町家の人口は8万4932人を数え、江戸、大坂、京都、金沢に次ぐ第5番目の大城下になった。明治維新を迎え、1871年(明治4)の廃藩置県まで、尾張藩16代義宜(よしのり)まで261年間、親藩62万石の城下として商工・文化の中心として栄えた。とくに7代宗春(むねはる)は「芸どころ」名護屋の繁栄に努めた。

 熱田は『和名抄(わみょうしょう)』では「厚田」と書かれ、城下町にとっては外港であり、東海道五十三次の宮宿、熱田神宮門前町である。『万葉集』に詠まれている年魚市(あゆち)潟に近く、古代は尾張国造(くにのみやつこ)尾張氏の統治下にあって大和(やまと)朝廷との関係も密接で、大和政権の東方開拓の前線基地の役割を果たした。国造尾張氏は外戚(がいせき)でもあった。日本武尊(やまとたけるのみこと)、国造尾張氏の女(むすめ)宮簀媛(みやずひめ)にまつわる故事が生まれるのもしごく当然といえよう。草薙剣(くさなぎのつるぎ)を祀(まつ)る熱田神宮の創始は7世紀と伝える。明治初年の行政区「第一大区」では城下町熱田は一体、名古屋区では分離、1907年の合併でふたたび同一市域になった。この合併は熱田町と尾張藩の命によってできた愛知郡小碓村熱田新田東組・熱田前新田・稲永(いなえい)新田を含むもので、これによって名古屋港築造のきっかけができた。

 近代の名古屋は、日本を代表する工業都市として発展するが、その要因となったのは、鉄道・海運の結接点としての位置、木曽三川の豊富な水、広大な濃尾平野、懐(ふところ)の深い伊勢湾の存在など、地の利に負うところが大きい。

 1886年(明治19)に東海道線が名古屋を通過して開通し、これによってそれまで東海道から外れた位置にあった名古屋は陽(ひ)の当たる国土幹線に沿うことになった。続いて1895年に関西鉄道、1900年には中央線も開通した。また伊勢湾の有力港は長く四日市港であったが、1907年(明治40)に開港場に指定されてからの名古屋港の発展は目覚ましく、四日市に置かれていたアメリカ領事館が1919年(大正8)に名古屋に移転し、1921年には早くも貿易総額において四日市港を抜き、伊勢湾最大の国際貿易港となった。

 第二次世界大戦中は、大軍需工業都市となり、最盛期には日本の航空機の6割を生産した。そのため63回もの空襲を受けて約8000人の死者を出し、市街地の4分の1が焼失する被害を受けた。

 第二次世界大戦後は、産業に加えて国際化や、文化の充実した総合都市を目ざしてきた。1959年(昭和34)ロサンゼルス市、1978年メキシコ市、1980年シドニー市、2005年(平成17)トリノ市と姉妹都市提携を、また1978年南京(ナンキン)市と友好都市提携をそれぞれ結び、1989年(平成1)には「世界デザイン博覧会」を開催し、1994年には念願の国際会議場を全館オープンさせ、1995年にはアジアで初の「世界インテリア・デザイン会議」を誘致するなど国際化に努めた。1998年度から始まった「名古屋市新世紀計画2010」では、「生活・環境・文化・産業」のすべてにわたり調和のとれた「誇りと愛着のもてるまち名古屋」を目ざした。

[伊藤達雄]

変わる産業構造

名古屋市の製造業は、明治・大正期までは繊維工業が、昭和中期までは機械・金属・化学工業がそれぞれ主流を占めて工業都市としての特色が明らかであった。しかし、それ以後は工場立地の市域外への遠心的拡大と日本の産業の構造変化とともに、市内の製造業は出版・印刷など付加価値生産性の高い都市型サービス関連部門に移行してきた。

 現在の名古屋の産業は、かつての工業にかわって商業・サービス関連産業が主流を占め、製造業がそれに続く構造となっている。名古屋駅から栄(さかえ)・広小路に続く都心地区に集積する百貨店・専門小売店や卸売業、飲食などの店舗群、情報化社会を反映した情報サービス・広告・調査研究業、金融・保険業、商社・流通業、ホテル業などが高い業績の伸びを続けている。市は、世界デザイン会議、世界デザイン博覧会の開催などによって蓄積されたデザイン資産を活用するため、国際デザインセンターを設立するなど、デザインの産業化に努めている。

 これらは広く中部経済圏にサービスを提供するもので、名古屋市が中部の中枢都市として機能する基幹産業となっている。また国の地方機関のほとんどが名古屋城付近に立地しており、中部5県はもとより一部は北陸地方までを統括範囲とする広域行政都市としての役割も重要である。

 このような変化を産業別従業者数の推移でみると、近代以後長く第1位を占めていた製造業従業者数は、1969年(昭和44)に減少に転じ、同時にトップの座を商業・飲食業に譲った。さらに1989年にはサービス業にも抜かれた。商業・飲食業とサービス業の従業者数はその後も増加を続けている。

 市内総生産は約12兆円(2001年)規模であるが、産業別の順位とその割合をみると、第1位サービス業(27.9%)、第2位卸・小売業(21.2%)、第3位製造業(13.0%)である。これに政府サービス生産(6.3%)と対家計民間非営利サービス生産(1.9%)を加えると、サービス部門は全体で36.1%となる。成長率でもっとも高い部門はサービス業で、製造業は減少、卸・小売業も微減の傾向にある。

[伊藤達雄]

商業

商業の年間販売額は29兆0500億円(2002年)で、うち卸売業が89%を占める。また年間販売額の愛知県に占める比率は70%に上る。販売額は減少(2002年は1997年と比べて36%減)傾向にあるが、市が中部圏の流通都市として重要な地位にあることを示している。繊維、木材、陶磁器、菓子、履物などは古くから都心周辺部にまとまった問屋街を形成しており、なかでも中区長者町の繊維問屋街は有名である。小売業では、1997年と2002年の比較で、商店数14%減、販売額8%減に対して従業員数は7%増となっている。最近では、都心の百貨店、郊外のショッピング・センターが堅調で、商業の大規模化が進んでいる。名古屋の都心は、栄・広小路と名古屋駅前であるが、副都心として今池(いまいけ)、大曽根(おおぞね)、金山(かなやま)、熱田などがあり、再開発による商業・ビジネス拠点整備が進められている。また名古屋は1957年(昭和32)に全国で初めて地下街を完成させた都市としても知られている。

[伊藤達雄]

工業

工業の特色を出荷額でみると、3兆3800億円(2002年、従業員4人以上)のうち、一般機械(18%)、輸送用機器(14%)など加工組立型の比重が高く、食料品(9%)がこれに続く。市は都市型工業の育成を計るため、笠寺に分譲型ハイテク企業団地、尾頭橋に賃貸型工業団地(名古屋ビジネスインキュベーター)を造成し、さらに志段味(しだみ)地区に大学・公的研究機関、民間企業などを計画的に集積させるサイエンスパーク構想を進めている。

[伊藤達雄]

貿易

名古屋港は、輸出額において成田国際空港に次いで日本第2位、輸入において成田国際空港・東京港に次いで第3位を占める。2011年の実績は輸出総額9兆0630億円(全国の13.8%)、輸入総額4兆3849億円(同6.4%)であった。輸出主要貨物は自動車・自動車部品、産業機械などの機械器具で、輸入はLNG、鉄鉱石、原油、石炭など。相手国のなかではアジア諸国の伸びが著しい。かつての特色としては日本の陶磁器輸出の9割を受け持ち、また羊毛・綿花の主要輸入港であったことなどがあげられる。

[伊藤達雄]

交通

市内交通

市内交通機関別利用状況(2001年輸送人員)は、自家用車71.6%、地下鉄9.6%、バス4.8%、名古屋鉄道・東海旅客鉄道・近畿日本鉄道が12.0%などで、東京圏・大阪圏に比べて自家用車の比率がかなり高い。かつて市民の足であった市電は1965年(昭和40)から順次撤去され1974年に全廃された。これにかわったのが市バスと地下鉄で、地下鉄は1957年に名古屋駅―栄間2.4キロメートルが初めて開通して以来順次延長を重ね、2018年(平成30)3月現在93.3キロメートルが営業している。2004年10月には地下鉄名城線の名古屋大学―新瑞橋間が開通し、名城線は日本初の地下鉄環状線となった。また同時に名古屋臨海高速鉄道あおなみ線(名古屋―金城ふ頭)が開通、これは貨物線を旅客化したものである。2005年には愛知高速交通東部丘陵線リニモ(藤が丘―八草)が開通した。市バスの乗客は減少傾向にあるが、その対策として、1982年に都心部の道路中央に専用レーンを設けて表定速度時速25キロメートルを確保する基幹バス・システムを全国に先駆けて導入するなどの利用率向上が図られている。また、市内には高速道路の整備も進んでいる。

[伊藤達雄]

域外交通

県内と岐阜県の一部は名古屋鉄道(名鉄)が、三重県方面へは近畿日本鉄道(近鉄)が独占的鉄道網をもち、利用率も圧倒的に高い。遠距離交通は東海旅客鉄道(JR東海)と高速自動車道で、東海旅客鉄道は名古屋駅を結節点として東海道本線、関西本線、中央本線が通じ、名古屋駅は新幹線ひかり・のぞみ号の停車駅である。高速自動車道は名古屋を中心に東名・名神、中央道、東名阪、東海北陸道などが放射状に展開している。

 空の玄関は中部国際空港と県営名古屋空港である。中部国際空港は市内にはなく常滑(とこなめ)市沖にあるが、名古屋都心部と空港を結ぶ名古屋鉄道(名鉄)空港線やセントレアライン(知多横断道路・中部国際空港連絡道路)が開通し、空港への交通は整備されている。県営名古屋空港は西春日井(にしかすがい)郡豊山(とよやま)町と小牧市、市内の北区にまたがり、空港への鉄道乗入れはないが、名古屋駅から直行バスが運行されている。同空港は中部国際空港が2005年2月に開港するまでは国際・国内航空輸送の拠点となる重要な空港であったが、その機能は中部国際空港に移り、現在はコミューター機やビジネス機など小型機の拠点空港となっている。

 海の玄関名古屋港は、日本の五大港の一つである。近年の課題は大交流時代に対応する水深16メートル以上の岸壁を有するコンテナ基地を備えることとされている。一方「市民に親しまれる港づくり」を目ざしてポートタワーや水族館などが建設され、新しい港の顔が生まれつつある。

[伊藤達雄]

観光・文化

観光資源の第一は近世の三英傑(信長・秀吉(ひでよし)・家康)ゆかりの史跡で、その中心は伊勢音頭に「尾張名古屋は城でもつ」と唄われた名古屋城である。城跡は特別史跡で、焼け残った隅櫓(すみやぐら)と表二の門など三門(国指定重要文化財)、二の丸庭園(国指定名勝)などがある。金の鯱鉾(しゃちほこ)で知られる天守閣は戦災で焼失したが1959年に再建され、重要文化財の障壁画・天井板絵など数百点を展示する歴史博物館となっている。名古屋城は平城(ひらじろ)の典型で、その基盤割は慶長年間(1596~1615)に計画的に造成されもので、武家屋敷、寺町、町屋、堀川などに当時をしのぶことができる。

 歴史史料館には、徳川美術館、秀吉清正(きよまさ)記念館、大須(おおす)文庫、蓬左(ほうさ)文庫などがある。そのほか、文化施設として、名古屋市博物館、名古屋市科学館、名古屋市美術館などがある。

 名古屋は近代都市としても知られるが、それは戦災復興事業として建設された100メートル道路、平和公園、東山公園などによる。平和公園は市内にあった277寺院の18万9000基の墓碑を東山丘陵の一角に集めた一大墓苑で、東山公園は動・植物園を備えた総合公園で、高さ134メートルの東山スカイタワーもある。また地下鉄創設時(1957年)につくられた地下商店街は全国では最初のものである。名古屋文化の特色は「芸どころ」といわれるように、江戸時代から庶民の間で茶・華道、舞踊などが盛んで愛好者の裾野が広く、民俗芸能の伝承も多い。

 旧東海道の宮宿に近く、草薙剣をまつる神社として知られる熱田神宮も産業・民生と深くかかわる多くの古例の神事を伝える。

[伊藤達雄]

『『名古屋市史』全12巻(1916~1934・名古屋市)』『『大正昭和名古屋市史』全10巻(1953~1955・名古屋市)』『『愛知の文化財』全4巻(1980~1985・愛知県)』『伊藤郷平他監修『愛知県風土記』(1981・トラベル・メイツ社)』『『産業の名古屋'96』(1996・名古屋市経済局)』『『名古屋』日経都市シリーズ(1996・日本経済新聞社)』『『新修名古屋市史』全10巻(1997~2001・名古屋市)』


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