和気清麻呂(読み)わけのきよまろ

精選版 日本国語大辞典 「和気清麻呂」の意味・読み・例文・類語

わけ‐の‐きよまろ【和気清麻呂】

奈良末・平安初期の官人。磐梨別公乎麻呂の子。姉広虫とともに孝謙天皇の信任を得、藤原仲麻呂の乱の功により藤野和気真人の姓を賜わり、その後、数度の改賜姓があり、和気朝臣となったのは宝亀五年(七七四)。この間、宇佐八幡宮の託宣をもって道鏡の野望をくじいた。そのため大隅に流されたが、道鏡失脚後、召還され、桓武天皇の信任を得て従三位に昇る。薨(こう)ずる時、正三位を贈られた。故事に精通し、また平安遷都や水利事業にも功があった。天平五~延暦一八年(七三三‐七九九

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デジタル大辞泉 「和気清麻呂」の意味・読み・例文・類語

わけ‐の‐きよまろ【和気清麻呂】

[733~799]奈良末期・平安初期の公卿。備前の人。道鏡が皇位に就こうと企てたとき、宇佐八幡の神託によりこれを阻止して怒りを買い、大隅おおすみに配流。道鏡の失脚後、光仁桓武天皇に仕え、平安遷都に尽力した。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「和気清麻呂」の意味・わかりやすい解説

和気清麻呂
わけのきよまろ
(733―799)

奈良末から平安初期の公卿(くぎょう)。父は乎麻呂(おまろ)、姉は広虫(ひろむし)(法均(ほうきん))。長子広世(ひろよ)、5子真綱(まつな)、6子仲世(なかよ)らの父。備前(びぜん)国藤野郡(岡山県和気郡)の人。本姓は磐梨別公(いわなしわけのきみ)。淳仁(じゅんにん)朝に仕えたが、恵美押勝(えみのおしかつ)追討の功により765年(天平神護1)勲六等を授けられた。時に右兵衛少尉(うひょうえのしょうじょう)、従(じゅ)六位上。ついで藤野別真人(ふじののわけのまひと)を改めて吉備(きび)藤野和気(わけ)真人を賜った。翌年従五位下。769年(神護景雲3)輔治能(ふじの)真人。同年大宰主神習宜阿曽麻呂(だざいのかんづかさすげのあそまろ)は道鏡(どうきょう)に媚(こ)び宇佐八幡(うさはちまん)の神教と偽って道鏡を皇位に即(つ)ければ天下太平ならんと奏上した。称徳(しょうとく)女帝は大いに迷い、清麻呂を召し姉法均(ほうきん)にかわって神教を確かめるよう命じた。その出発にあたり道鏡は清麻呂に威嚇(厳罰)と懐柔(大臣)の二策を試み、道鏡の儒学の師路豊永(みちのとよなが)は、道鏡即位せば我は今日の伯夷(はくい)たらん(隠棲(いんせい)する)と哀訴した。意を決した清麻呂は宇佐から帰るとただちに「天(あま)つ日嗣(ひつぎ)は必ず皇儲(こうちょ)(皇統に連なる人)を立てよ。無道の人は宜(よろ)しく早(すみやか)に掃(はら)い除くべし」との神教を奏上した。激怒した道鏡は清麻呂の官爵を削り名も別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と改めて大隅(おおすみ)(鹿児島県)に配流した。翌年女帝が崩じ光仁(こうにん)天皇が即位するとただちに召還され、ついで本位従五位下に復し、和気公(わけのきみ)、和気宿禰(すくね)を経て774年(宝亀5)和気朝臣(あそん)を賜った。784年(延暦3)長岡造京の功により従四位上、796年平安京造営の功により従三位(じゅさんみ)に昇る。この間平安遷都を建議し、摂津大夫(せっつのだいぶ)としては大和(やまと)川を西に通じて難波(なにわ)の洪水を除かんとした。799年に没して正三位を贈られたが、降って1851年(嘉永4)正一位護王(ごおう)大明神の神階神号を授けられ、86年(明治19)京都市上京(かみぎょう)区の護王神社に祀(まつ)られた。

[黛 弘道]

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朝日日本歴史人物事典 「和気清麻呂」の解説

和気清麻呂

没年:延暦18.2.21(799.3.31)
生年:天平5(733)
奈良時代後期から平安初期の貴族。備前国(岡山県)藤野郡(のち和気郡)の豪族の出身。父は乎麻呂,姉は広虫(法均尼)。本姓は磐梨別公,のち藤野別真人,吉備藤野別真人,輔治能真人などと改氏姓を重ねた。姉広虫と共に称徳天皇に愛され,右兵衛少尉になり,藤原仲麻呂の乱(764)での功により勲6等を授けられた。天平神護2(766)年従五位下,次いで近衛将監に遷任,特に封50戸を与えられた。神護景雲3(769)年道鏡を皇位につけようとするいわゆる宇佐八幡宮(宇佐市)の神託事件に際し,広虫の代わりに宇佐八幡宮に派遣され,「日本では臣下が君主となった例はない。皇位には皇族を立てるべし」という神託を上奏。道鏡の野心を阻止したが,称徳天皇により本官を解かれて因幡員外介とされた。姓名を別部穢麻呂と改められて大隅国(鹿児島県)に配流された。その途次,道鏡は刺客を放って清麻呂殺害を謀ったが未遂に終わったという。藤原百川は備後国(広島県)の封戸20戸を割いて配所に送り,清麻呂を援助した。宝亀1(770)年,光仁天皇の即位に伴い召還,本姓名を回復。桓武朝では延暦2(783)年摂津職(大阪府)の長官に任じられ,7年中宮大夫,民部大輔も兼ね河内と摂津の境に川を掘り,河内川を導いて水害を除こうと図ったが成功しなかった。同年,美作(岡山県)・備前両国の国造として,備前国和気郡からの磐梨郡の分割を申請して許された。また,10年間工事をしても長岡京が完成せず,深刻な財政状況のなかで,ひそかにほかの土地での新都造営を上奏。延暦12(793)年桓武天皇は遊猟にかこつけて山背国葛野郡(京都市)の地を藤原小黒麻呂らに調査させ,平安京造営に着手。清麻呂は15年ごろに造宮大夫に任じられた。17年,致仕を願い出たが許されず,翌年従三位民部卿兼造宮大夫,美作備前国造で死去し,正三位を追贈された。性格は剛直で君に対して忠節,庶務に練達し,「民部省例(20巻)」を選修。また桓武天皇の母新笠を出した和氏(高野氏)の系譜を選したという。子は広世,真綱,仲世など6男3女。<参考文献>平野邦雄『和気清麻呂』

(増渕徹)

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改訂新版 世界大百科事典 「和気清麻呂」の意味・わかりやすい解説

和気清麻呂 (わけのきよまろ)
生没年:733-799(天平5-延暦18)

奈良中期より平安初期にかけての官人。本姓は磐梨別公(いわなすわけのきみ),また藤野別真人(ふじのわけのまひと)を称し,和気宿禰(すくね)さらに和気朝臣に改姓された。備前国藤野郡に生まれ,その後,孝謙(称徳)天皇に近侍していた姉和気広虫の引きによって,おそらく兵衛(とねり)として出仕したものと思われる。《続日本紀》にはじめて名が記録されるのは,765年(天平神護1)従六位上,右兵衛少尉のときで,広虫とともに称徳天皇に重用された。やがて皇位を望んだ僧道鏡の事件にさいし,姉に代わって宇佐八幡に使し,神託をうけてこれを阻止した(宇佐八幡宮神託事件)。そのため一時別部穢麻呂と名をかえられ,大隅国に流されたが,光仁天皇の即位とともに770年(宝亀1)京に召されてもとの従五位下に復し,桓武天皇の側近として活躍した。長岡京造営には陰の役割をはたし,従四位下より正四位下に昇叙し,ついで平安京造営には造宮大夫として事業をにない,従三位に叙せられ,公卿に列した。この間,摂津大夫として水利事業を進め,民部大輔として〈民部省例〉を撰するなど,民政にあかるく,さらに美作・備前両国国造(くにのみやつこ)に任ぜられ,故郷の百姓の利益にも力をつくした。799年姉広虫についで没したときは民部卿・造営大夫・従三位で,正三位を贈られた。人となり高直,匪躬の節ありと評された。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「和気清麻呂」の意味・わかりやすい解説

和気清麻呂
わけのきよまろ

[生]天平5(733).備前
[没]延暦18(799).2.21. 京都
奈良時代末期~平安時代初期の廷臣。父は乎麻呂。本姓は磐梨別公 (いわなしのわけのきみ) 。孝謙天皇の頃京に上り,武官として右兵衛少尉,従六位上の官位を得,天平神護1 (765) 年勲六等を受け,吉備藤野和気真人の姓を賜わった。これらは恵美押勝 (→藤原仲麻呂 ) 追討の功によるものと思われる。神護景雲3 (769) 年道鏡が宇佐八幡の神託と称して帝位につこうとしたとき,神託を聞くことを命じられた清麻呂は,道鏡が皇位を望むことは神霊もこれを震怒すとして道鏡の野心を退けた。そのため,道鏡の怒りを買って大隅に流された。宝亀1 (770) 年光仁天皇が即位すると,京に召し返されて和気朝臣の姓を賜わり,天応1 (781) 年従四位下となった。その後,民部大輔,摂津大夫などを経て延暦 15 (796) 年従三位となった。彼は吏務に精通し,『民部省例』 (20巻) を撰し,『和氏譜』を奏上した。また長岡京の造営が停滞していることを憂え,天皇に葛野 (かどの。平安京 ) への遷都を進言したり,摂津大夫のとき治水工事を行なったり,延暦初年,神護寺の前身である神願寺を河内に建立したりした。死後,彼の遺志によって,備前国の彼の私墾田 100町を,百姓賑給田 (しんごうでん) として農民の厚生の料にあてた。

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百科事典マイペディア 「和気清麻呂」の意味・わかりやすい解説

和気清麻呂【わけのきよまろ】

奈良末〜平安初期の高官。備前(びぜん)の豪族の出。称徳天皇に用いられた。769年道鏡が皇位につこうとした際,宇佐八幡の神託を受けて道鏡の野心をくじいた(宇佐八幡宮神託事件)。その奏上のため大隅(おおすみ)に流されたが,のち桓武天皇の信任厚く,平安京遷都などに功を立てた。
→関連項目孝謙天皇弘文院護王神社神護寺和気氏

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「和気清麻呂」の解説

和気清麻呂
わけのきよまろ

733~799.2.21

8世紀後半の公卿。備前国藤野郡を本拠とする豪族和気氏の出身で,しばしば改氏姓があった。姉の広虫(ひろむし)(法均尼)とともに孝謙(重祚して称徳)天皇に重用され,764年(天平宝字8)恵美押勝(えみのおしかつ)の乱で活躍。766年(天平神護2)従五位下。769年(神護景雲3)道鏡(どうきょう)を皇位にたてるべきとした宇佐八幡宮の神託を偽りと奏したため,別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と改名され大隅国へ配流。翌年称徳天皇が没し召還され,771年(宝亀2)本姓・本位に復した。のち摂津大夫・民部大輔・中宮大夫を歴任。この間長岡京造営に功があったが,ひそかに新都造営を上奏し,平安京の造営大夫に任じられた。799年(延暦18)没し,正三位を追贈。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「和気清麻呂」の解説

和気清麻呂 わけの-きよまろ

733-799 奈良-平安時代前期の公卿(くぎょう)。
天平(てんぴょう)5年生まれ。和気乎麻呂(おまろ)の子。姉に和気広虫(ひろむし)。神護景雲(じんごけいうん)3年道鏡が皇位をのぞんだとき,宇佐八幡宮の神託をうけてこれを阻止した。そのため名を別部穢麻呂(わけべの-きたなまろ)とかえられ,大隅(おおすみ)(鹿児島県)に流された。光仁(こうにん)天皇の即位で召還され,のち桓武(かんむ)天皇にもつかえた。造宮大夫として平安遷都につくす。従三位,民部卿。延暦(えんりゃく)18年2月21日死去。67歳。備前(岡山県)藤野郡出身。

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旺文社日本史事典 三訂版 「和気清麻呂」の解説

和気清麻呂
わけのきよまろ

733〜799
奈良末期・平安初期の官人
備前(岡山県)の出身。従三位。姉広虫とともに称徳天皇に仕え,769年皇位に就こうとした道鏡の計画に対し,宇佐八幡宮の神託を告げ,藤原氏勢力を背景として道鏡の野心を退けた。そのため大隅国(鹿児島県)に配流となったが,道鏡失脚後召還された。桓武天皇の信任厚く,平安遷都を進言した。

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世界大百科事典(旧版)内の和気清麻呂の言及

【宇佐八幡宮神託事件】より

…当時大宰帥は道鏡の弟弓削浄人(ゆげのきよと)であるから,合意のうえの奏上であろう。天皇は夢に八幡神が,神教を聴かせるから尼法均(和気広虫)を派遣せよとあるが,法均は女で軟弱,遠路にたえがたいからと,その弟和気清麻呂を宇佐に派遣した。彼は神前で託宣を請うと,その神託は〈道鏡を天位につかしめば〉という前回と同様であった。…

【護王神社】より

…京都市上京区に鎮座。和気清麻呂と姉広虫を主神とし,藤原百川(ももかわ),路豊永を配祀する。清麻呂は藤原仲麻呂の乱平定,道鏡追放,平安遷都などで功をあげたが,そのゆかりの神護寺に,平安末期文覚(もんがく)がその霊社を建ててまつっていた。…

※「和気清麻呂」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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