哥沢芝金(読み)ウタザワシバキン

デジタル大辞泉 「哥沢芝金」の意味・読み・例文・類語

うたざわ‐しばきん〔うたざは‐〕【哥沢芝金】

哥沢芝派家元名。歌沢節創始者歌沢大和大掾やまとのだいじょう死後、2代目歌沢寅右衛門を家元とする歌沢寅派から独立したもの。初世は芝田金吉[1828~1874]。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「哥沢芝金」の意味・読み・例文・類語

うたざわ‐しばきん【哥沢芝金】

哥沢芝派の家元名。
[一] 初世。江戸御家人、柴田彌三郎の三男金吉。文久二年(一八六二)、土佐大掾(だいじょう)を受領して芝派を樹立。文政一一~明治七年(一八二八‐七四
[二] 三世。初世の養女本名は勢以。曲節を改良して芝派の発展に貢献した。天保一一~明治四四年(一八四〇‐一九一一

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「哥沢芝金」の意味・わかりやすい解説

哥沢芝金
うたざわしばきん

うた沢芝派家元の芸名

初世

(1828―74)本名柴田金吉。歌沢笹丸(ささまる)(1797―1857。1857年に歌沢節樹立の公許を得、歌沢大和大掾(やまとのだいじょう)を名のったが、その年に病没没後の1861年(文久1)当時遊芸に関する許可などを扱っていた江戸・浅草聖天町の嵯峨(さが)御所出張所から哥沢土佐(とさ)を受領し、芝派家元となった。

[林喜代弘・守谷幸則]

2世

(1868―1907)初世の養子貞之助が初世没後に襲名したが、内気な性格からやがて芸界を退いて職を転じた。

[林喜代弘・守谷幸則]

3世

(1840―1911)江戸・深川廻船(かいせん)業南部屋久次郎の娘で、20歳のとき初世の養女となる。前名芝勢以(しばせい)。1888年(明治21)3世を襲名。1908年(明治41)土佐を名のり、養女の錦に4世を譲った。

[林喜代弘・守谷幸則]

4世

(1892―1981)本名柴田錦。3世の弟柴田保の三女で、長女清は2世哥沢芝勢以(1883―1971)。1908年(明治41)に4世を襲名。58年(昭和33)土佐芝金と改名し、長男修(1934―86)に5世を襲名させた。5世没後、分家家元哥沢芝清(しばきよ)が1990年(平成2)6世芝金を名のる。

[林喜代弘・守谷幸則]

『水谷三郎編『二世哥沢芝勢以伝』(1967・同書刊行会)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「哥沢芝金」の意味・わかりやすい解説

哥沢芝金 (うたざわしばきん)

うた沢芝派(哥沢)の家元名。(1)初世(1828-74・文政11-明治7) 本名柴田金吉。江戸日本橋高砂町の御家人柴田弥三郎の三男。若いころから音曲を好み,愛称〈芝金〉。渋い歌と巧みな三味線で知られ,うた沢創始期にも参画している。歌沢笹丸の没後に家元樹立を出願,1861年(文久1)土佐太夫(とさたゆう)の名を嵯峨御所より受領。〈歌〉の字の偏だけをとった〈哥〉を使って寅派と区別,初代芝金を名のって別派活動を行う。1867年(慶応3)流儀の歌本《松の美どり》を刊行。また河竹黙阿弥や仮名垣魯文などと交遊があり,そうした縁故から歌舞伎への出演を重ねるなど,組織の確立や宣伝と大衆化を積極的に推進した。(2)2世(1848-87・嘉永1-明治20) 本名柴田貞之助。初世の養子。(3)3世(1840-1911・天保11-明治44) 本名柴田勢以子。深川の回船業南部屋久次郎の娘。1859年(安政6)に初世芝金の芸養女となり,初世芝勢以(しばせい)を名のる。1888年に3世を襲名,細事にこだわらぬ気性と,初世をしのぐ芸才とで,うた沢を初心者向けの平易な楽しい音曲に改良して,芝派隆盛の基礎をつくる。1908年姪の錦子(きんこ)に家元を譲り,隠居名として哥沢土佐を名のる。(4)4世(1892-1981・明治25-昭和56) 本名柴田錦子。16歳で家元襲名。伯母の見込んだ才能は,その後〈うた沢振り〉を名舞踊家たちと組んで公演したり,大劇場進出を活発に行い,独特の節調で一時代を築き,先代に劣らぬ派手な歌い方は,うた沢に新味を通わせていた。また,箏曲や洋楽の人たちとも組んで芸域を拡張,多くの作品も残している。1958年長男修武(おさむ)に家元を譲り哥沢土佐芝金となる。(5)5世(1934-86・昭和9-61) 本名柴田修武,宗彦とも。哥沢太夫芝金と名のった。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の哥沢芝金の言及

【うた沢∥哥沢∥歌沢】より

…その一つ,江戸人形町大丸新道の女師匠さわの所に通っていた畳屋の平虎(ひらとら)(2世歌沢寅右衛門),は組火消しの辻音(つじおと)(1824‐94,本名福井音次郎)など,約50人あまりは,〈うたのおさわ〉の弟子というので,〈歌沢連〉と称していた。やがて,さわが亡くなり,妹,きわが稽古を続け,五百石取り旗本の隠居で笹本彦太郎(1797‐1857,号は笹丸,歌沢絃三),御家人の三男坊柴田金吉(初世哥沢芝金),小普請(こぶしん)方の次男森語一郎(1826‐86,のちの萩原乙彦,歌沢能六斎(うたざわのうろくさい))といった武家も仲間となり,端唄の流行が,三味線の騒ぎ歌としかみられなくなったのを嘆いて,〈もっと品のよい重みのある歌,節もていねいに細かくうたうようにしたらどうか〉と考えたのが,端唄を母体とした新しい三味線小歌曲の創作であった。学識のある笹本彦太郎が中心となり,秘書役で森語一郎,平虎,柴田金吉,辻音,そのほか数人が参画,水が集まって〈沢〉になるごとく,いろいろな音曲を加味した〈歌〉の集大成といった意味を含めて〈歌沢〉と称することにした。…

※「哥沢芝金」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android