善福寺(読み)ぜんぷくじ

精選版 日本国語大辞典 「善福寺」の意味・読み・例文・類語

ぜんぷく‐じ【善福寺】

[一] 東京都港区元麻布にある浄土真宗本願寺派の寺。山号は麻布山(もと亀子山(きしさん))。天長年間(八二四‐八三四)空海が真言宗の寺として創建。のち、親鸞の弟子了海が現宗に改めた。日米修好通商条約締結の翌安政六年(一八五九)、日本最初のアメリカ公使館にあてられ、ハリスなどが滞在した。境内に逆さイチョウの俗称で知られるイチョウがあり、国の天然記念物に指定されている。あざぶさん。
[二] 東京都杉並区西端部の地名。武蔵野の三名池の一つ、善福寺池がある。

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日本歴史地名大系 「善福寺」の解説

善福寺
ぜんぷくじ

[現在地名]港区元麻布一丁目

ふる川の西方にある寺院。浄土真宗本願寺派、麻布山と号し、本尊は阿弥陀如来。もと真言宗寺院で、天長元年(八二四)に空海の開創という伝承があり、都内でも古い寺院の一つに数えられている。

鎌倉時代に住持の了海願明が親鸞に帰依して浄土真宗に改宗し、関東の同宗の拠点をなす寺院となった。親鸞の子弟を系図化した光照寺本親鸞聖人門侶交名牒からは、一向宗とよばれていた初期の真宗教団の関東地方への布教の広がりをうかがうことができる。同交名には武蔵国荒木あらき(現埼玉県行田市)を中心に布教を展開した荒木門徒の開祖である「光信 ムサシノクニアラキノ源海」の弟子の一人として「願明 ムサシノクニアサフノ了海」の名があげられている。光信(寺伝によると文治五年―建治四年)は荒木門徒を率いて活躍した。了海は当寺を拠点に展開された阿佐布門徒の指導者として、品川など江戸の周辺に布教をした。大井おおい(現品川区)に生れ、同地にあった天台宗寺院を改宗して光福こうふく寺として再興、のちに京都仏光ぶつこう(現京都市下京区)の四世となった。当寺には鎌倉時代の製作と推定される了海坐像があり、応永一六年(一四〇九)に二度目の彩色を施したと記す胎内納蔵の木札が残されている。前掲交名には了海の弟子として「性智 アサフ」「了智 アサフ」の名が記されており、了海とともに当寺に依拠した僧と考えられる。

善福寺
ぜんぷくじ

[現在地名]北区有馬町

有馬ありま川左岸、落葉おちば山北東麓にある曹洞宗の寺。光徳山と号し本尊阿弥陀如来。「摂津名所図会」に開山は行基、中興は仁西とあり、曹洞宗としては元弘元年(一三三一)の創立とするが詳細は不明。「臥雲日件録」享徳元年(一四五二)四月二四日条に、湯治に来ていた京都相国しようこく寺の瑞渓周鳳が善福寺を訪ね、前面の山は孝徳天皇行宮跡で今は御所墻内といい、天皇が寺前の橋で月夜の宴を開いた話などを寺僧から聞いている。

善福寺
ぜんぷくじ

[現在地名]長田区御船通四丁目

新湊しんみなと川右岸、山陽電鉄本線の北側にある浄土真宗本願寺派の寺院。一乗山と号し、本尊阿弥陀如来。初め八部やたべ二茶屋ふたつちやや村の市場いちば(現中央区)にあり、往古は境内で交易を行っていたことから市場山と号していたが、のちに一乗山に改めたという。甲斐国武田信虎の四男上野介信久が出家して教祐と称し、本願寺一一世顕如の徒弟となって天正元年(一五七三)に当寺を開創、寛永一六年(一六三九)了庵のときに本尊を下付され、寛文元年(一六六一)本堂を建立、京都西本願寺一四世寂如以降宗主西国巡錫時の宿所となる。余間にはもと京都深草西岸ふかくささいがん(現京都市伏見区)にあった蓮如作の木仏が安置され、文化年中(一八〇四―一八)には五〇〇余戸の門徒を有したという(文化一一年「善福寺来歴」西摂大観)

善福寺
ぜんぷくじ

[現在地名]津島市筏場町

延享五年(一七四八)の村絵図では津島村のほぼ中央筏場いかだばの南低地帯にある。大森山と号し、真宗大谷派。本尊は阿弥陀如来立像。

天正九年(一五八一)一二月七日の方便法身画像(当寺蔵)の顕如光佐裏書に「興正寺門徒興禅寺下、尾州海西郡富吉庄古木江村惣道場也、願主正誓」とある。正誓の俗名は鈴木如菴といい、在家道場であったことが知られる。興禅こうぜん寺は海西かいさい荷之上にのうえ(現海部郡弥富町荷之上)にあったが、後に清須きよす(現西春日井郡)に移り、慶長一七年(一六一二)さらに名古屋城下に移転。

善福寺
ぜんぷくじ

[現在地名]萩市大字川島

松本まつもと川に架かる中津江なかつえ橋の北西、藍場あいば川の東岸にある。臨済宗南禅寺派。指月山と号し、本尊は釈迦如来

創建について「注進案」は「寺社旧記抜萃に云」として、永享年中(一四二九―四一)指月しづき山山麓に創建され、築城の折、現在地に移ったとする。「萩古実未定之覚」も「もと御城山の麓に有之」と述べ、「長門金匱」にも「御城山に洞春寺、妙玖寺御建なされ候御事は彼両寺の上に吉見殿廟所有之、此に指月山善福寺と云寺あり」と記し、当寺開山翔天の位牌には嘉吉元年(一四四一)八月八日没とある。

善福寺
ぜんぷくじ

[現在地名]岸本町久古

久古くご集落の北東、字里坊屋敷りぼうやしきにあり、曹洞宗。松寿山と号し、本尊は聖観音。「伯耆志」などによれば、往時、久古村が大山領であった時代には天台宗寺院であったが、慶長年中(一五九六―一六一五、一説に天正年中)、米子総泉そうせん寺九世玄竜を請して開山一世とし、曹洞宗に改めたという。寛政五年(一七九三)宗旨庄屋の久古村西古甚左衛門などが本願施主となり、日野・会見あいみ汗入あせり八橋やばせの四郡九八ヵ村にわたる施主四七〇人によって修復・寄進された大般若経二〇〇軸が残されている。

善福寺
ぜんぷくじ

[現在地名]宇部市大字藤曲 上条

藤曲の上条ふじまがりのあげじようの丘陵のはずれにあり、北隣は西宮にしのみや八幡宮である。浄土真宗本願寺派で海景山と号し、元禄年中(一六八八―一七〇四)内開作うちかいさくができるまで寺の前面は海であったことを物語る。本尊は阿弥陀如来。

「注進案」によれば開基は了善。俗名金益太郎左衛門尉安善という上方の浪人で、当国へ弟左仲とともに下ってきて毛利家の家臣となり、島原しまばらの乱で弟が戦死したので、その菩提を弔うため豊前国法光ほうこう寺の点然のもとで剃髪、慶長年中(一五九六―一六一五)この地に一宇を建立したのに始まる。

善福寺
ぜんぷくじ

[現在地名]作手村清岳 池ノ坊

金輪山と号し、真言宗御室派。本尊十一面観音。善福寺縁起による聖徳太子の草創は信じられないが、当地域において最も古い寺院である。縁起によれば古くは田源山と号したが、天長元年(八二四)真済により伽藍が建立されて金輪山と改め、大坊・岩本いわもと坊・杉本すぎもと坊・いけノ坊・なかノ坊・松本まつもと坊・しもノ坊の七坊を有し天徳二年(九五八)勅願所となったという。久安三年(一一四七)野火により全焼、建久六年(一一九五)重源により再興されたという。

善福寺
ぜんぷくじ

[現在地名]世羅町戸張

戸張とばり川の右岸で支流が分岐する付近に位置し、臨済宗仏通寺派。大雄山と号し、本尊は大日如来

寺伝は応永三〇年(一四二三)八月創建、毛利氏家臣河面民部の開基という。しかしこれは中興開山による真言宗から臨済宗への転宗を示すものであろう。貞応二年(一二二三)一一月日付備後国大田庄地頭大田康継同康連連署陳状案(高野山文書)山中やまなか郷善福寺の名がみえ、善福寺は以前より地頭進止であると記される。

善福寺
ぜんぷくじ

[現在地名]宇和町西山田

薬師谷にあり、潮光山と号し、曹洞宗。本尊薬師如来。山田やまだ薬師の名で知られ、日本三大薬師の一といわれる。石段を登ると元禄年間(一六八八―一七〇四)建立という檜皮葺総欅造の本堂がある。「宇和旧記」は次のような縁起を記す。

天平年間(七二九―七四九)疱瘡が流行し、伊予国でも宇和郡の人民が多く死んだ。悲嘆にくれていた郡司の貞春は白衣の神人のお告げにより行基を招請して、三尺余の薬師如来像を製作させた。

善福寺
ぜんぷくじ

[現在地名]三郷町立野北三丁目

今井いまい集落に所在。慈光山と号し、黄檗宗。本尊は長谷式の十一面観音。もとは坂上さかね集落にあったが、明治末期に三室山道浄どうじよう(龍田大社奥院)と合併し、現在地に移転。近世の大和川魚梁やな船事業で知られる立野たつのの地侍安村氏の菩提寺で、元禄三年(一六九〇)二月に鉄牛道機によって中興されたという。

善福寺
ぜんぷくじ

[現在地名]天理市和爾町

和爾わに集落の北部に位置する。舎利山と号し、浄土宗。総本山京都知恩院一四世助阿が、大和当麻たいま(現奈良県當麻町)奥院に隠居後、文明九年(一四七七)に建立。明応七年(一四九八)稚賢が師助阿の感得した舎利を奉じて霊宝としたことにより、舎利山明応院善福寺と号された。寺号の額は助阿の自筆。本尊阿弥陀如来坐像(国指定重要文化財)は檜材を用いた寄木造、内刳りの像で、漆箔を施している。

善福寺
ぜんぷくじ

[現在地名]吉田村上山

上山うえやまの中央にあり、徳祥山と号し、曹洞宗。本尊釈迦如来。元和四年(一六一八)僧高喬の開基という。境内に観音堂があり、この観音堂に餅さしという行事がある。伝えによれば、天保一一年(一八四〇)飢饉年で、地区農民は五穀豊穣家内安全を祈り、観音様を開帳した。そして当屋一五人を選び、地区民から餅米を集めて祝餅を捧げたのが行事の始まりといわれる。

善福寺
ぜんぷくじ

[現在地名]松浦市今福町 仏坂免

楠籠くすごもりにある。松豊山と号し、真言宗智山派。本尊は阿弥陀如来。建武二年(一三三五)今福の寺上いまふくのてらげの熊野権現社内に創建されたと伝え、今福神社の別当寺であった。正平一〇年(一三五五)松浦丹後守清が子の亀童丸(のちの丹後守定)との合力によって鰐口(県指定文化財)を寄進している。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「善福寺」の意味・わかりやすい解説

善福寺
ぜんぷくじ

東京都港区元麻布(もとあざぶ)にある浄土真宗本願寺派の寺。山号は麻布山。本尊は阿弥陀如来(あみだにょらい)。832年(天長9)空海の開山と伝えられる。1232年(貞永1)親鸞(しんらん)が帰洛(きらく)の途中、当寺に半年間滞在。この間住職の了海(りょうかい)(六老僧の一)が親鸞に帰依(きえ)して真言(しんごん)宗より浄土真宗に改宗した。1266年(文永3)亀山(かめやま)天皇の勅願寺となり、その後、北条、豊臣(とよとみ)、徳川の保護を受けた。1856年(安政3)アメリカ公使館となった。明治政府は古社保存賜金寺に指定した。境内には初代アメリカ公使館跡ハリス記念碑が立てられている。本尊阿弥陀如来像は恵心僧都(えしんそうず)作と伝える。了海木像、明治天皇御物五大明王、善福寺文書などがある。境内の「逆さ銀杏(いちょう)」は樹齢約700年で国指定天然記念物。

[清水 乞]

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事典・日本の観光資源 「善福寺」の解説

善福寺

(東京都杉並区)
杉並百景」指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報

世界大百科事典(旧版)内の善福寺の言及

【麻布】より

…江戸時代には城南地区の大名,武家屋敷地に当たり,寺社も多かった。幕末には名刹麻布山善福寺にアメリカ公使館が置かれたのを初め,明治以後,外国の大公使館,領事館が多く建てられ,一帯は高級住宅地となった。また東海道沿いを除き,城南地区では最も大きい町屋(商店街)が麻布十番一帯に成立し,第2次世界大戦前までは高級住宅地をひかえた東京旧市内の繁華街として知られ,現在も伝統的な商店街が見られるが,商業中心は六本木に移った。…

※「善福寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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