国民(春日神人)(読み)こくみん

世界大百科事典(旧版)内の国民(春日神人)の言及

【興福寺】より

…春日野には春日東西両塔がそびえ,神仏習合の春日信仰を具現している。かくて興福寺は大和国を春日大明神の神国と称して,七大寺や国中の社寺,これに連なる在地領主を屈従せしめ,大荘園領主となり,また堂衆・衆徒や春日神人(国民)を僧兵団に編成して,12,13世紀の全盛時代を迎える。 1180年(治承4)平氏の南都焼討ちに遭い,東大寺とともに全焼したが,復興も速く,復興気運に乗って鎌倉文化が興隆,奈良の街地が発達するが,興福寺はこれに君臨,なお鎌倉将軍家から大和国守護職として国中支配を許された。…

【尋尊】より

…この70年は,いうまでもなく中世の権門体制が大きく後退した時代にあたる。51年(宝徳3)には当時大乗院があった禅定院が土一揆の放火に類焼し,応仁・文明の乱がはじまると父一条兼良が尋尊のもとに疎開するなどその影響は奈良にも強く及び,乱後は門跡の被官である古市氏ら衆徒・国民(大和国衙領の在地領主で春日大社末社の神人化した者の身分称)が国人としての動きを顕著にし,大乗院配下の座や荘園には有名無実化するものが多く,神事・法会も退転をはじめた。貴種として大乗院に入院した尋尊は,学僧としてはなんらの業績ものこさなかったが,時代の風潮を〈下剋上〉ととらえ,あえてその流れに抗して〈門跡再興〉〈寺社(興福寺,春日社)繁昌〉をみずからの使命とした。…

【大和国】より

…大和国の春日神領国化の始まりだが,神仏習合思想を利用して春日社との一体化を進めていた興福寺は大和国の支配を主張,1135年春日若宮社を創建,翌年から若宮祭を大和一国の大祭として興福寺境内で執行,神国大和を称して国中の社寺の末社・末寺化や社寺をまつる在地領主の土豪らの従属を強いた。土豪らを衆徒(末寺坊主),国民(末社神主)に列して在地代官とし,僧兵として武力に起用した。この末社末寺制と衆徒国民制とによって興福寺は大和国の支配組織を完成,摂関家代官の大和国司を有名無実たらしめた。…

※「国民(春日神人)」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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