国際連合(読み)こくさいれんごう(英語表記)United Nations

翻訳|United Nations

精選版 日本国語大辞典 「国際連合」の意味・読み・例文・類語

こくさい‐れんごう ‥レンガフ【国際連合】

(The United Nations の訳語) 第二次大戦後、国際平和と安全の維持、諸国間の友好と協力を目的として成立した国際機構。一九四五年設立。本部ニューヨーク。国際連盟の精神を受けつぎ、さらに強化。総会、安全保障理事会、経済社会理事会、信託統治理事会、国際司法裁判所、事務局の六つの主要機関と各種委員会、専門機関などから成る。日本は昭和三一年(一九五六)に加盟。略称UN。国連。

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デジタル大辞泉 「国際連合」の意味・読み・例文・類語

こくさい‐れんごう〔‐レンガフ〕【国際連合】

第二次大戦後、国際平和と安全の維持、国際協力の達成のために設立された国際機構。国際連盟の欠点を補正し強化・発展させた組織で、国連憲章に基づき、1945年10月24日発足。本部はニューヨーク。総会安全保障理事会経済社会理事会信託統治理事会国際司法裁判所事務局の六つの主要機関からなり、15の専門機関をもつ。日本は1956年(昭和31)に加盟。国連。UN(United Nations)。UNOユノー(United Nations Organization)。
[補説]国連の専門機関には、FAO国連食糧農業機関)、ICAO(国際民間航空機関)、IFAD(国際農業開発基金)、ILO(国際労働機関)、IMF(国際通貨基金)、IMO(国際海事機関)、ITU(国際電気通信連合)、UNESCO(国連教育科学文化機関)、UNIDO(国連工業開発機関)、UPU(万国郵便連合)、WHO(世界保健機関)、WIPO(世界知的所有権機関)、WMO(世界気象機関)、世界銀行グループがある。

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改訂新版 世界大百科事典 「国際連合」の意味・わかりやすい解説

国際連合 (こくさいれんごう)
United Nations

第2次世界大戦の勃発によって事実上解体した国際連盟に代わって,戦後新たに設立された国際平和機構。国連,UNと略称。本部所在地ニューヨーク。世界平和の実現と諸国民の福祉増進を主たる目的とする一般的世界機構という点では,戦前の国際連盟と本質的に異ならない。しかし,成立の事情も,構造や機能においても,二つの国際機構には少なからぬ相違点がみられる。また今日の国際連合は,設立の当初と比べてかなりの変容を遂げている点も見逃せない。国際連合とは別に,福祉面での国際協力の特定分野を担当する世界的機構が多く存在し,そのおもなものは,国際連合と協定を結んで,国連の〈専門機関specialized agency〉となっている。国際連合を中心として,その外郭団体である専門機関が集まって形成される集団は,〈国連ファミリーUNFamily〉または〈国連システムUN System〉と呼ばれる。

国際連盟(以下連盟と略記)が第1次大戦後パリの講和会議において戦後処理の一環として設立されたのに対して,国際連合(以下国連と略記)の創設の歴史は第2次大戦中にさかのぼる。1942年1月,日独伊の枢軸国と交戦した米,英,ソを中心とする26ヵ国が,アメリカの首都ワシントンで〈連合国共同宣言〉に署名し,枢軸国に対する戦争遂行の決意を新たにし,団結を誓った。今日国連を意味する〈United Nations〉という言葉は,第2次大戦中の一方の交戦者である反枢軸国陣営,すなわち〈連合国〉を指す名称として,このとき初めて用いられたのである。しかし連合国宣言当時の戦況は,枢軸国側が優勢で,連合国には戦後の平和機構の問題を取り上げる余裕はなかった。連合国の側でこの点についての最初の意思表示がなされたのは,戦況が連合国側に有利に展開するにいたった43年の10月,米,英,ソ,中の4ヵ国によってなされた〈モスクワ宣言〉においてである。この〈一般的安全保障に関するモスクワ4ヵ国宣言〉の中で,〈戦後できるだけ早い機会に,すべての平和愛好国の主権平等の原則にもとづく,国際平和と安全の維持のための一般的国際機構を設立する必要〉が認められた。この宣言にもとづいて,44年の8月から9月にかけ,米,英,ソ,中の四大国代表会議がアメリカの首都ワシントンのダンバートン・オークスDumbarton Oaksで開かれ,ここで一般的国際機構の具体案が審議されて,その結果は,〈ダンバートン・オークス提案〉として公表された。この提案は,のちの国連憲章の原案であり,大国間に合意をみた第2次大戦後の平和機構の青写真であった。さらに,45年2月に米,英,ソ3国の首脳会談がソ連のクリミア半島のヤルタで開かれ,ここでダンバートン・オークス会談では未解決のまま残された若干の問題,すなわち安全保障理事会における投票手続や,加盟資格の問題などについて大国間の意見が調整され,同年4月25日から,連合国全体の国際会議がサンフランシスコで開催され,新機構の憲章の起草が行われた。サンフランシスコ会議に招請された国は,それまでに前記の連合国宣言に署名していた46ヵ国,および会議の途中で出席を認められた4ヵ国(ウクライナ,白ロシア(現ベラルーシ),アルゼンチン,およびデンマーク)であった。50ヵ国の参加を得て憲章の起草を行ったサンフランシスコ会議は,2ヵ月にわたる審議ののち,6月25日に国連憲章を採択し,翌日署名を行った。憲章は10月24日,所定の手続を経て発効し,ここに国連は正式に発足したのである。国連憲章が,戦争のたけなわのときに,交戦当事者の一方である連合国の側のみによって審議され採択されたことは,新機構の性格に影響を与えずにはおかなかった。憲章中に見られる若干の戦時色を帯びた規定(たとえば〈旧敵国条項〉)や第2次大戦中に指導的役割を果たした大国に優越的な地位(たとえば安全保障理事会の常任理事国の拒否権)が認められているのは,こうした憲章成立事情の反映とみられよう。

国連憲章The Charter ofthe United Nationsでは,規定の改正のための二つの方法を定めている。一つは通常の修正手続で,修正案が総会の3分の2の多数で採択されたのち,安全保障理事会の5常任理事国を含む全加盟国の3分の2による批准を経て発効する方法である(108条)。もう一つは,国連憲章の再検討のための国連加盟国の会議を開き,そこで憲章の規定の全般的見直しを行い,上記と同じ手続で修正を行うものである(109条)。この規定は,サンフランシスコ会議において,ダンバートン・オークス提案に対する修正案が大国の反対によって容れられなかったことに対する,中小国の不満をなだめるために挿入されたものである。前者の通常の手続による憲章の修正は,これまで3度行われた(安全保障理事会の議席拡大に関する1965年8月31日発効の修正,経済社会理事会の議席増大に関する,68年6月12日,および71年12月20日にそれぞれ発効の2度の修正)。これに対し,憲章再検討の会議は今日まで開かれたことはない。

今日の国連は,連盟と比べて,量的にも質的にも,文字どおり世界機構としての普遍的性格をそなえるにいたっている。連盟では,加盟国が欧米諸国にかたより,しかも大国の参加を欠いた点も弱体化の一因であった。これに対し,国連では,今日すべての大国を含め,世界の異なる政治・経済体制や,文化圏に属する諸国を包含していることは注目に値する。もっとも,国連も,初めから加盟国の普遍性が得られたわけではない。発足の当初は,むしろ連盟よりも閉鎖的であり,加盟手続もいっそう複雑であった。連盟では,第1次大戦の戦勝国32ヵ国のほかに,中立国13ヵ国も原加盟国に加わったのであるが,国連では,その成立事情を反映して,原加盟国は第2次大戦中の連合国に限られ,それ以外の国は,めんどうな加盟手続をふまねばならなかった。加盟の条件としては,〈平和愛好国であり,憲章に掲げる義務を受諾し,義務履行の意思と能力がある国〉でなければならず,それを認定する手続は,安全保障理事会の推薦にもとづき総会が決定することになっており(4条),安全保障理事会の決議には,常任理事国に拒否権が与えられている。このため,国連の発足後,最初の10年間は東西間の冷戦が加盟問題に反映して,多くの国が加盟への門を閉ざされた。すなわち米ソ両陣営は,互いに相手の側が国連での勢力を増やすことを恐れて牽制しあい,相手側の陣営にくみする国の加入を阻止したのである。このため最初の10年間に加盟できた国は,アフガニスタンをはじめわずか9ヵ国にすぎなかった。しかし加盟問題の行詰りは,冷戦の緩和とともに打開され,1955年に東西間の妥協の結果16ヵ国の一括加盟が実現し,日本もその翌年の12月18日に加盟が正式に認められた。その後は,アジア,アフリカ,米州カリブ地域の新興諸国の加盟が相次ぎ,今日,国連加盟国は185ヵ国(1997年現在)と,発足当初のほぼ3倍半となっている。現在の未加盟国は,スイスを除けば,若干の〈極小国家〉にとどまる。中国は,1949年の革命成立後も,台湾の国民政府が国連での代表権を維持し,中国本土は国連から締め出されてきたが,第26回国連総会は中華人民共和国政府の代表権交替を認め,問題は決着をみた。加盟国のなかには人口や領土,資源の乏しい,いわゆる〈極小国家〉と呼ばれる国々があり,これらの国の取扱いが今後の課題である。次に,加盟国の国連からの脱退については,国連憲章には規定がない。しかし,これは脱退を禁止する趣旨ではなく,サンフランシスコ会議でも,このことが了解されたのである。今日まで,加盟国が国連から脱退する意思を表明した唯一のケースとして,インドネシアが1965年1月に脱退を通告したが,その翌年の9月には復帰した。このため国連はこれを脱退の事例として扱っていない。一方,除名については,憲章に規定がある(6条)。南アフリカ共和国やイスラエルに対して,制裁措置の一環として除名を求める主張もみられたが,適用例はない。

国連の主要機関は,総会,安全保障理事会経済社会理事会信託統治理事会国際司法裁判所,および事務局の六つであり,連盟の総会,理事会,事務局の3主要機関よりも増えている。主要機関のほかに,とくに国連総会や経済社会理事会のもとで設置された多くの補助機関が存在し,国連は極めて複雑な仕組みになっている。主要機関のうち,全加盟国で構成する総会は,国連の中心的機関であり,その任務は,国連のすべての事項に及ぶため,三つの理事会と権限が競合する関係にある。このうち経済・社会・文化面での国際協力を担当する経済社会理事会と,信託統治制度の監督を行う信託統治理事会は,憲章上〈総会の権威の下に〉任務を行うとされており(60条,87条),この両者に対しては総会が優位に立つのに対し,安全保障理事会との関係は,むしろ逆で,平和と安全の維持の分野では,大国を中心とする安全保障理事会に第一次的な責任が認められ(24条),総会の権限は制限されている。たとえば,総会が平和と安全の維持に関する問題を討議する場合,行動を必要とするものは,討議の前または後に安全保障理事会に付託しなければならないこと(11条2項),また後者が現に取り上げている問題につき,総会は勧告することはできないこと(12条)などである。もっとも,国連の実践面では,1950年に総会が採択した〈平和のための結集〉決議に見られるように,平和維持に関する総会の権限強化の企ても,しばしばなされている。安全保障理事会は常時開催できる体制にあるのに対し(28条),総会の会期は,毎年9月の第3火曜日から約3ヵ月間開かれる年次通常会期があり,このほか特別会期,緊急特別総会が随時招集される(20条)。経済社会理事会は年2回の定例会期(1月と5月)と特別会期が開催される。信託統治理事会は,適用地域の独立により,任務を終了した。

アジア,アフリカ,米州地域の新興国の加盟により,安全保障理事会と経済社会理事会の議席を増員する必要が生じ,1965年の憲章改正により,安全保障理事会は当初11であった理事国(米,ソ,英,仏,中の5常任理事国と,総会から任期2年で選出される6非常任理事国で構成)が15に増員され,非常任理事国の数は10となった。また経済社会理事国は当初の18から68年の改正により27に,さらに73年の再度の改正で54に議席が増員された。一方,これとは逆に信託統治理事会の構成国の数は,信託統治地域の相次ぐ独立にともないしだいに減少し,最後の信託統治地域であったパラオの独立(1994)により,その歴史的使命を終えた。以上の政治的機関と異なり,国際司法裁判所と事務局の二つは,構成員が国家代表ではなく,個人としての資格で選ばれ,その意味で中立的な性格をもつ機関である。国際司法裁判所は,他の五つの主要機関と異なり,オランダのハーグに置かれ,15人の裁判官からなる。裁判官は9年の任期で,安全保障理事会と総会での同時選挙により,個人的資格と地理的配分の考慮にもとづいて選挙される。一方,事務局は,事務総長と,その他の事務職員により構成する。このうち国連事務総長は,安全保障理事会の勧告にもとづいて総会が選任するが,他の職員は事務総長により直接採用される。採用にあたっては,職員の個人的資質と,なるべく広い地理的配分を考慮しなければならない。職員の総数は約1万5000人,うちニューヨーク本部の職員は約5200人を数える。事務局の職員は,いわゆる国際公務員として国連にのみ責任を負い,特定の国家からの干渉をうけることなく,中立的な立場をとることを要求される。事務総長の権限は,首席行政官として事務運営のすべてに及ぶほか,政治的影響力が大きく,平和維持の機能面でも,憲章上一定の権限が認められ,主要機関からの授権にもとづいて,または憲章上固有の権限により,重要な任務の執行を行う。なお歴代事務総長は,初代T.H.リー(ノルウェー),2代目D.ハマーショルド(スウェーデン),3代目ウー・タント(ビルマ),4代目ワルトハイム(オーストリア),5代目J.P.デ・クエヤル(ペルー),6代目ブートロス・ガリ(エジプト),7代目コフィー・アナン(ガーナ)であり,いずれも大国以外の出身者である。

国連の各機関における表決制度は,原則として全会一致主義によった連盟と異なり,多数決の原則を採用している。経済社会,信託統治の両理事会は出席し投票する理事国の過半数で,また総会では,重要事項については出席し投票する国の3分の2の多数で,その他の事項については過半数で決議が採択される。一方,安全保障理事会では,決議の成立は9理事国の賛成を必要とするが,ただし,手続事項を除いては,その中に常任理事国の賛成が含まれることが要件とされ,いわゆる五大国に拒否権が認められている。もっとも,総会や安全保障理事会の決議は,以上の憲章上の表決手続によるよりも,いわゆるコンセンサス方式によってなされることが多い。すなわち,利害の衝突する問題について決議の採択を強行すれば,対立を激化することになり,これを避けるために,投票によらず,決議案についてあらかじめ非公式の協議を行い,対立点の歩みよりを最大限にはかったのち,大筋において意見の一致が得られれば,表決によらず,決議案に対して反対意見が表明されなかったとして決議成立の効果を生ぜしめる方式をいう。コンセンサス方式により,安全保障理事会における東西間の対立や,総会における南北間の対決を回避することが可能となった。一方,国際司法裁判所の判決や勧告的意見の決定は,出席した裁判官の過半数で行われ,可否同数のときは,裁判長が決定投票権を行使する。各機関の決議の効力は,それぞれの場合について異なる。総会の決議は,加盟国や他の機関,または他の国際機構に対して向けられるとき,勧告としての効力をもつのみである。しかし,総会の内部の運営に関する事項や予算の承認等の場合,決議は加盟国や他の機関に対して拘束力をもつ。安全保障理事会の決議は,加盟国や他の国連機関に対する単なる勧告の場合と,拘束力をもつ場合とがある。そのいずれの場合かは,決議の文言,決議採択の際の議論,憲章の関連規定などを考慮して,決議ごとに判断しなければならない。経済社会理事会と信託統治理事会の決議は,内部運営に関するものを除き,単なる勧告にとどまる。国際司法裁判所の判決は,紛争当事国を拘束する。しかし国連機関からの法律問題に関する諮問に対してなされる〈勧告的意見〉には,拘束力がない。

国連の予算案は,事務総長が総会に提出し,総会により審議,採択される。国連の予算の大部分は,加盟国に割り当てられた分担率に従い,加盟国からの分担金で賄われている。各加盟国の分担率は,国民総生産,1人当り国民所得などを考慮して,上限25%(アメリカが該当),下限0.01%の間で3年ごとに決められる。後述のように日本の分担率は15.65%であり,アメリカ(25%)に次ぐ高率である。分担率の下限の0.01%が適用される国は約70ヵ国にのぼる。通常経費(職員の俸給や会議運営費など)に対して,国連開発計画(UNDP)など大部分の活動経費は,各国からの自発的拠出金により賄われる。

国連の目的は国際社会の平和と諸国民の福祉増進の二つに大別できるが,その実現のために,国連は種々の手段を講じ,活動を行っている。平和と福祉の両面で国連システムがどのような機能を果たしているかを以下にみよう。

(1)国際紛争の平和的解決 連盟では,平和を支える3本の柱として,紛争の平和的解決,安全保障,軍備縮小があげられた。同様に国連もこれらの方式を基本的に踏襲している。連盟規約は,国際紛争解決のために戦争に訴えることを一定の範囲で禁止したが,国連憲章では,戦争の違法化をさらに進めて,自衛のためにする場合を除き,国家が他国に武力を行使することを一般に禁止している(2条4項)。そして加盟国が国家間の紛争を,平和的手段によって解決しなければならない一般的な義務を課している(2条3項)。しかし,実際に国連憲章が定めた国連機関による紛争の平和的解決の制度は,不完全なものであって,この点,連盟規約の下での紛争解決制度に比べて本質的な改善はみられない。憲章が予定しているのは,政治機関である安全保障理事会と総会による広い意味での調停手続(6章10条,14条)と,国際司法裁判所による裁判の制度(14章)であるが,前者の二つの政治機関による紛争解決は,紛争の審査や和解の斡旋,解決案の勧告を含む一連の手続をふんで解決をはかるもので,いずれもその決定に拘束力がなく,当事者の和解を促進する努力にすぎず,紛争を直接に解決する効果をもつものではない。国連事務総長のインフォーマルな調停活動も同様である。これに対して,国際司法裁判所に紛争を付託する場合は,その判決は当事者を拘束し,当事者はこれに服従する義務を負うが,しかし,紛争を裁判にかけることは紛争当事者の一般的な義務となっておらず,当事者が事前または事後に合意しなければ,裁判は行われないことになる。したがって,国連の下では,紛争の解決は結局当事者の意思にかかっており,紛争が未解決のまま残される余地が制度上残されていることに注意しなければならない。国連の実践においても,安全保障理事会や総会は,国家間の紛争の政治的解決をはかる会議外交の場として一定の役割を果たしているが,調停機関として十分に機能しているとはいい難く,また国際司法裁判所には,これまで約100件の紛争が付託されたが,今日も国家間の紛争を裁判にかけることを敬遠する一般的な傾向(とくに大国の態度)は変らない。

(2)集団安全保障 国際紛争が武力紛争に発展する可能性は残されており,このような事態に対して,連盟や国連がとったのは,〈集団安全保障の制度〉であった。この制度は,国際機構の加盟国が互いに領土の不可侵を約束し,この約束に反して武力を行使する国に対しては,他の加盟国が一致して被害国を助け,加害国に対して外交的・経済的な圧力あるいは軍事力による制裁を加え,諸国の結集した力によって違法な武力行使の防止あるいは抑圧をはかろうとするものであり,国連では,憲章第7章において,平和の破壊,侵略行為が発生した場合,安全保障理事会の認定にもとづいて,武力行使を防止し,抑圧するために,加盟国の協力によって経済的・軍事的措置をとることを定めている(39,41,42条)。憲章の規定が連盟規約と比べてとくに注目されるのは,(a)強制措置を開始する時期や,加盟国がとるべき措置を決定する権限を安全保障理事会に与え,加盟国はこれに服従する義務があるものとして,制裁の発動を加盟国の判断にゆだねた連盟と異なり,安全保障理事会の中央集権的な統制により制裁の効果を発揮できるようにしたこと,(b)経済制裁その他の非軍事的な措置とともに,陸・海・空軍による軍事的強制措置を重視し,それに使用するために加盟国が安全保障理事会に提供する兵力の種類や規模,準備などについても規定したこと(43条),つまり軍事制裁の組織化,制度化を企てた点である。しかし,このような憲章の仕組みは,憲章が予定していたかたちでは機能していない。とくに冷戦時代には大国間の対立によって,安全保障理事会の決議の採択は容易でなく,大国や大国と特別な利害で結ばれた国に対しては,侵略者と認定したり,強制措置の適用を決議することは極めて困難であった。また軍事的措置にそなえて加盟国が提供する兵力や便益の内容を定めた取決めを結ぶ企ては,早くも放棄された。もっとも,1950年の朝鮮戦争の際には,安全保障理事会は第7章の下での平和の破壊と認定し,〈武力攻撃を撃退するために必要な援助〉を韓国に与えることを勧告する決議を採択し,これにもとづいてアメリカを中心とする〈国連軍〉が編制された。このように,安全保障理事会で軍事強制行動に関する決議が採択されたのは,当時ソビエトが,中国代表権問題にからんで,安全保障理事会をボイコットする戦術をとっていた偶然によるものであった。そこで同年11月に国連総会が採択した〈平和のための結集〉決議は,大国の拒否権に妨げられて機能できない安全保障理事会に代わって,拒否権のない総会に安全保障の機能を移すことにより,強制行動の決議採択を容易にすることを意図したものであった。

 しかし,集団安全保障を現実に適用することの困難さは,たんに拒否権の回避という手続面での操作によって片づくものでないことは,その後の実績が示している。国連加盟国間の武力行使の事例は枚挙にいとまがないが,国連が第7章の下での強制措置に踏み切ることはまれであった。冷戦体制下,80年代までに行われた経済制裁のわずかな例として,南ローデシアや南アフリカ共和国に対する措置があげられるが,これらはむしろ一国の人種政策に向けられた特殊な事例にすぎない。強制措置の発動の困難さは,加盟国が自国の利益を国際社会の利益よりも優先させるため,諸国の協力を得ることが難しいという事情がある。それに,国家間の力の偏在の著しい今日の国際社会においては,大国に対する経済制裁の発動は効果をあげにくく,まして軍事制裁ともなれば,大戦争に発展する危険を覚悟しなければならない。朝鮮戦争はこのことを実証したのである。軍事的強制措置が効果を発揮できるためには,制裁に加わる側の圧倒的な軍事力の優位が確保されねばならない。しかし,このような基礎的条件をつくりだすための,各国の軍備の削減は,国連の諸機関およびジュネーブ軍縮委員会での長期にわたる軍縮交渉にもかかわらず,実質的な成果がいまだに得られないのが実情である。今日までのわずかな成果としては,包括的核実験禁止条約,核不拡散条約,非核地帯の設置,および生物兵器,環境破壊兵器などに関する諸条約であり,軍備の削減,撤廃の交渉はいまだに出発点にあるといってよい。

 東西間の冷戦が終結し,大国間の協調体制により安全保障理事会の機能が回復すると,国連の集団安全保障への期待が高まった。そのなかで,湾岸危機に際して国連がとった対応は,安全保障理事会の下での平和強制機能の復活を印象づけた。1990年8月のイラクによるクウェート侵攻とともに,アメリカを中心とする諸国はいち早くサウジアラビアとその周辺海域に多国籍軍を派遣したが,安全保障理事会は,イラクに対する第7章の下での平和破壊の認定,経済制裁に関する一連の決議をやつぎばやに採択し,さらに決議の実効性を確保するため,湾岸地域に展開する多国籍軍に対して,武力行使を含む〈あらゆる必要な手段〉をとる権限を委ねる決議を採択した。しかし,多国籍軍による〈砂漠の嵐〉作戦と呼ばれる軍事行動は,朝鮮戦争のときと同様,国連のコントロールを離れて遂行されたのである。これは,強制行動への参加が国連の指揮の下に行われることへの諸国の拒否反応によるものであり,その後の国連の平和強制機能においては,いずれも湾岸戦争型の変則的な方式が踏襲されている。

(3)平和維持活動 朝鮮動乱の終結を境として,国連においては,平和破壊に対して強制力ないし制裁を加えることにより平和を回復する集団安全保障よりも,武力紛争の悪化を防ぎ,また武力衝突を平和的に収拾するための諸方策に力点を置く傾向が強まっている。そのような方式として,1956年のスエズ動乱の際に国連が現地に派遣した国連緊急軍をはじめ,その後の一連の国連軍活動のように,交戦者の停戦,撤退という武力衝突の収拾を容易ならしめる手段として,平和維持軍や軍事監視団を現地に派遣し,その現地駐留によって停戦や兵力の撤退を促進し戦闘の再開を防止する,いわゆる〈平和維持活動〉の方式が重視され,活用されるようになっている。平和維持活動に従事する軍隊は,集団安全保障のための軍隊と異なり,紛争当事者に対して中立の立場をとり,戦闘を目的とした強制軍としての性格をもたない点に特色がある。

経済的・社会的分野での国際協力に目を向けると,国連は諸国民の福祉増進と進歩の実現のためにさまざまな活動を行っており,この分野での国連の活動は,資金面でも,実績の面でも,平和維持のそれに劣らぬ重要なものとなっている。その中でも注目されるのは,(1)植民地住民の自決権擁護,(2)人権の国際的保障,(3)経済開発・援助の諸活動であろう。ところで,これらの分野は,これまで一般に〈国内問題〉として一国の国内政策にゆだねられ,国連憲章でも,国内問題の不介入が基本原則の一つとして掲げられていた(2条7項)。しかし,この原則にもかかわらず,国連はしだいにこの分野の諸問題を積極的に取り上げて,解決にのりだしている。

(1)植民地問題 国連は発足当初予想もされなかった積極さをもって,この課題と取り組んでいる。国連憲章は植民地を〈信託統治地域〉と〈非自治地域〉の二つのカテゴリーに分け,それぞれ異なる制度の下に置いた。このうち前者は,(a)連盟時代の委任統治地域,(b)敵国から分離された地域,(c)加盟国が自発的に信託統治制度の下に置く地域で,戦後11の地域がこの特殊な制度の下に置かれた。信託統治地域の施政国は,住民の福祉増進と漸進的自治,独立の達成に努力する国際的義務を負わされ,その実施につき国連の監督に服するものとされた(12章)。一方,それ以外の植民地,すなわち〈非自治地域〉の統治については,施政国が国連に対して負わされる義務は,わずかに国連事務総長に対する統治状況の情報提供にとどまった。これは,植民地問題は一般に国内問題であるとの憲章起草者の考えを反映したものといえよう。ところが,第2次大戦後,民族自決主義運動の進展にともない,アジア,アフリカやカリブ地域の植民地が相次いで独立し,国連に加盟すると,国連の場で植民地主義の是非が論ぜられるようになり,1960年の総会は,歴史的な〈植民地独立付与宣言〉を採択した。この決議は,信託統治地域,非自治地域を問わず,あらゆる形の植民地制度をできるだけ速やかに,かつ無条件で終わらせることを宣言して,人民の自決権を承認し,独立達成に必要な措置をとるよう要請したものである。この宣言に刺激されて信託統治地域はすべて独立を達成し,非自治地域もかなりの部分が独立,残された地域に対しても上記の宣言履行のための特別委員会(25ヵ国で構成)を通じ,独立を促進している。

(2)人権保障 個人の人権擁護の問題も,従来〈国内問題〉とされてきたが,国連憲章では〈人種,性,言語又は宗教による差別なく,すべての者のために人権及び基本的自由を尊重するように助長奨励することについて,国際協力を達成すること〉を目的の一つに掲げており,国連は発足以来,その具体的内容を確定し,規範を形成する仕事に取り組んできた。その成果として,1948年に〈世界人権宣言〉が総会で採択され,さらに65年,宣言の内容を条約化した〈市民的及び政治的権利に関する国際規約〉と〈経済的,社会的及び文化的権利に関する国際規約〉の二つが総会で採択され,76年に発効した(国際人権規約)。このほか,人権の特殊な分野では,〈集団殺害罪の防止及び処罰に関する条約〉,〈人種差別撤廃条約〉,〈女子差別撤廃条約〉,〈子どもの権利条約〉,〈難民の地位に関する条約〉など多くの条約が成立しており,また国連の専門機関の一つである国際労働機関(ILO)では,労働条件の改善のための条約や勧告を数多く採択し,人権の社会的面での国際基準化がはかられている。また国連は,南アフリカにおける人種差別(アパルトヘイト)問題など,人権侵害に関するさまざまな事件を取り上げて,その解決のために積極的に取り組んできており,また難民の救済などの現地活動を行っている。

(3)経済開発・援助 国連が1960~70年代以降,大きな課題として対応を迫られているものに,〈南北問題〉がある。戦後,アジア,アフリカ,米州地域の植民地住民が自決権を行使して独立を達成したが,これら新興独立国のかかえる共通の問題は,独立はしたものの,経済的自立がともなわず,植民地時代の経済体制から脱却できないまま先進工業国との経済格差がますます広がるという厳しい現実であった。こうした南北間の富の偏在の是正のため,今や国連で多数派になった南の新興国は,いわゆる〈77ヵ国グループ〉を結成して,国連に強い措置を求めるようになった。その要請にこたえるべく,国連は1960年代を〈国連開発の10年〉として,南北問題の解決に取り組むことになった。この努力はさらに70年代を〈第2次開発の10年〉,80年代を〈第3次開発の10年〉,90年代を〈第4次開発の10年〉として引き継がれている。その結果,国連システムを構成する専門機関と協力して〈国連開発計画(UNDP)〉を発足させ,発展途上国への開発援助にのりだし,また国連貿易開発会議UNCTAD(アンクタツド))を国連の機関として創設し,途上国の輸出拡大を促進するための方策を検討している。同様に1974年の第6回特別総会が採択した〈新国際経済秩序の樹立に関する宣言〉や,〈諸国家の経済的権利義務憲章〉は,先進工業国を中心とした既成の国際経済秩序に代わって,発展途上国の利益を中心とした新国際経済秩序を樹立して,国際社会に実質的平等を実現することをうたっている。さらに,新興国の経済的自立をめざす原則を述べたものとして,1962年の国連総会が採択した〈天然の富と資源に対する恒久主権〉に関する決議をあげることができる。これは,すべての国が自国内の天然資源を自由に処分できる権利をもつことを承認し,これまで外国企業の支配下にあった自国の天然資源を国有化する権利を認めたものである。82年に第3次国連海洋法会議が採択し,94年に発効をみた海洋法条約にも,上記の宣言の海洋資源への適用とみられる新しい規定が盛られている。この新海洋法条約では,排他的経済水域や群島水域,深海海底などの新しい制度が設けられたが,これらは,新興途上国のための海洋資源の開発と利益の分配の主張を制度化したものであった。とくに深海海底制度は,技術の進歩にともない深海底の開発が可能になったことから,一部の先進国による独占的開発を排して,深海底の資源を人類全体の利益のために開発しようとするものである。そこで,深海底の区域と資源は〈人類の共同財産〉であって,資源開発の利益は,発展途上国の利益と必要をとくに考慮して国家間に衡平に分配されるものとし,このために国際海底機構を設けてこの区域での活動を規制し,開発は,国家や私企業とともにこの機構の一機関である公社(エンタープライズ)を通じて海底機構が直接に行うという画期的な制度となっている。新海洋法秩序の下で南北問題の解決をはかる動きとして,成行きが注目される。

国連が地球環境問題に積極的に取り組みはじめたのは,1972年にストックホルムで開催の〈国連人間環境会議〉からである。この会議が採択した〈人間環境宣言〉は,各国の環境政策に大きな影響をあたえた。同会議が設置した〈国連環境計画(UNEP)〉(事務局はケニアのナイロビ)は,国連諸機関の環境関連活動の総合的調整を図り,地球環境の監視や環境条約の立案にあたる国連機関となった。しかしその後20年の努力にもかかわらず,地球環境は一向に改善をみず,国連に一層の取組みが要請されるようになった。

 こうした世界的世論にこたえて,1992年にブラジルのリオ・デ・ジャネイロで〈地球サミット〉(国連環境開発会議(UNCED))が開催された。地球サミットは,国連が世界各国や産業団体,市民団体などを招集して催した大規模な国際会議であり,世界から約180ヵ国の代表が参加した。そこで採択された〈環境と開発に関するリオ宣言〉には,〈持続可能な開発〉の原則をはじめとする世界の今後の環境保全のあり方を示す諸原則が盛られた。このほか,21世紀に向けた人類の行動計画である〈アジェンダ21〉が採択され,気候変動枠組み条約地球温暖化防止条約),および生物の多様性に関する条約(生物多様性条約)が採択された。地球サミットのあと,国連が経済社会理事会の下に設置した〈持続可能な開発委員会(CSD)〉は,リオ諸条約の実施方法を検討し,持続可能な開発にたずさわる各国政府その他の団体に指針を提示する活動を行っている。また,地球サミットから5年目にあたり開催された国連環境開発特別総会では,リオ宣言やアジェンダ21などUNCEDの成果の実施状況の再検討を行うなど,地球サミットの成果のフォローアップがなされている。これらの会議では,経済成長の重要性を強調して先進国の側に対応を迫る発展途上国と,途上国側にも犠牲を求める先進国との対立が目だち,また先進国内部でもEUと他の先進国の対立が表面化しはじめ,合意形成の困難さが浮彫りされている。

 国連システムの下で,これまで170を超える環境関係の諸条約が締結され,その実施計画の策定のための国際会議が開かれている。主なものをあげれば,オゾン層の保護に関するウィーン条約(1985締結)およびモントリオール議定書(1987締結),地球の温暖化防止のための気候変動枠組み条約(1992締結)の締約国会議(1997年の地球温暖化防止京都会議),砂漠化防止条約(1996発効)の締約国会議,生物の多様性に関する条約(1992締結)の締約国会議などがある。このように,国連は地球環境保全の問題に総合的に対処する場として,その重要性を増しつつある。

日本は,1956年12月18日に国連の80番目の加盟国となった。加盟申請は,すでにサンフランシスコ講和条約成立の直後から行われていたが,東西間の冷戦の影響で,その実現が遅れたのである。国連加盟は,日本にとって国際社会の檜舞台への復帰を意味する象徴的な出来事であった。そしてその後の国連に対する日本の基本的態度は,いわゆる〈国連中心主義〉という外交政策として表明された。岸信介首相は1957年2月,国会での施政方針演説で,〈わが国は,国際連合を中心として世界平和と繁栄に貢献することを,外交の基本方針とする〉と述べ,この基本原則は,〈自由主義諸国との協調〉および〈アジアの一員としての立場の堅持〉という原則とならんで,日本の外交三原則の一つとなった。

 加盟以来,日本は,国連内での地位の向上に努め,安全保障理事会,経済社会理事会,国際司法裁判所の主要機関をはじめ,多くの国連機関のメンバーとなり,国連財政に対する寄与も,日本は,アメリカに次いで2番目に多く(1997年現在の日本の国連経費の分担率は,15.65%),経済分野での日本の役割と地位は,しだいに重みを加えている。しかし,総じていえば,日本の国連での態度は,受身的ないしは控えめなものであったといわねばならない。日本の国連外交が積極性を欠いた理由としては,第1に,満州事変とそれに続く国際連盟からの脱退という戦前の経験に対する反省,および自信の喪失があり,第2に,戦後の日本外交は,日米安全保障条約を主軸とする二国間外交に重点を置き,国連外交ないし会議外交は,二国間外交を補充する二次的な役割しか与えられなかったこと,第3に,国連をとりまく現実政治は,東西間の冷戦に加えて,先進国対発展途上国間の〈南北問題〉という新たな対立関係が顕在化することにより複雑さを増し,先進国でありながら,アジアの一国であるという二重人格的性格のゆえに,日本の立場は困難な選択を迫られ,いきおい日本の国連外交を〈ひ弱な〉ものたらしめていることが指摘されよう。たとえば,南アフリカ共和国の人種差別問題やパレスティナ問題,新国際経済秩序の構築問題などについて,日本は西側先進国寄りの立場をとらざるをえず,このような態度に対してアジア・アフリカ諸国からの批判をうける場面もみられた。

 一方,日本の国連での地位の向上につれ,より積極的な役割を望む声が高まりつつあり,これに対して,日本は経済面のみならず,政治的な分野でも貢献が期待されるようになった。たとえば,国連の〈平和維持活動(PKO)〉に対する日本の寄与はこれまで財政面に限られてきたが,1990年の湾岸危機に際して,平和維持の分野での日本の貢献のあり方が問題となり,それを契機に日本は1992年に国連平和維持活動協力法を成立させ,憲法上の制約はあるものの,これまでいくつかの国連PKOや人道援助活動に自衛隊を参加させている。さらに,環境問題や天然資源の開発などの人類共通の関心事項についても,大局的見地からの寄与が望まれ,この面で日本が南北間の橋渡し的な役割を果たすことが期待される。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「国際連合」の意味・わかりやすい解説

国際連合
こくさいれんごう
The United Nations

国際連合(以下国連と略称)は、国際連盟The League of Nationsの後を受けて、第二次世界大戦直後に設立され、国際平和と安全の維持をおもな目的とする、普遍的な平和機構である。一般的には、この名称は、国連憲章Charter of the United Nationsに基づいて設立された国連機構(本部)をさすが、憲章で定められた手続に従ってこの機構と連携関係をもつ専門機関をも含めた国連ファミリー全体をさすこともある。国連は、全世界に開かれ目的が多岐にわたるいわゆる普遍的一般的国際機構であるが、同時に主権国家の集合体であり、各加盟国の主権は平等である。したがって、国連は世界国家のような強い統制力をもった機構ではない。そして、その発足以降における国際環境の進展と変貌(へんぼう)のため、その機構も機能も逐次拡大するとともに著しい変容を遂げてきた。

[斎藤鎮男・黒神直純 2022年12月12日]

成立

1943年10月、モスクワで開かれたアメリカ、イギリス、ソ連三国外相会議において第二次世界大戦後の平和維持機構設立問題が正式に取り上げられた。その結果、この3か国に中国を加えた4か国が、「国際平和と安全の維持のために、すべての平和愛好国の主権平等の原則に基づく世界的国際機構の設立を必要と認める」とうたったモスクワ共同宣言を発して、新機構設立の連合国の意向を明らかにした。翌1944年、アメリカのダンバートン・オークスで開かれた前述4か国代表の会議において新機構に関する具体案が練られ、その結果ダンバートン・オークス提案が生まれた。これが「一般的国際機関の設立に関する提案」で、この提案は今日の国連憲章の原案となったものである。

 さらに翌年の1945年2月の米英ソ三国首脳によるヤルタ会談において、安全保障理事会の表決方法や信託統治制度など未決事項についての合意が成立し、同年4月、連合国の全体会議が50か国の代表を集めてサンフランシスコで開かれ、2か月にわたる審議を経て、前記ダンバートン・オークス提案を修正・追加して憲章草案ができあがった。この草案は同年6月26日、参加国全部の50か国によって署名され、10月24日、所定の批准数を満たしたので、国際連合が正式に発足することとなった。毎年10月24日は「国連の日」(国連デー)として記念され、世界各国で各種行事が催されている。発足時に加盟国となった国を原加盟国とよぶ。ポーランドは、国連発足時に新政府が成立していなかったので会議に出席できなかったが、のちに原加盟国に加えられ、全部で51か国となった。中立国、日本を含む旧敵国、旧敵国の援助を受けていた政権の支配するスペインなどは国連のなかに入れられなかった。以上の経緯をたどって成立した国連は、大戦中の五大国(アメリカ、イギリス、ソ連、中国、フランス)のイニシアティブと特権のうえに築かれ、1946年1月1日、その第1回総会をロンドンで開催した。

[斎藤鎮男・黒神直純 2022年12月12日]

発足時の特徴

国連の特徴の最大のものは、旧連合国重視ということである。発足時には、前述のごとく、多くの国が原加盟国たることから排除され、旧連合国から成立していた。そのなかでも五大国は、常任理事国としての特権(拒否権)を与えられ、特別扱いされた。第二の特徴は、それにもかかわらず、51か国という多数の国が加盟し、そのなかにはアメリカ、ソ連を含む五大国がいずれも最初から参加していたことである。そして第三の特徴は、国際連盟の教訓を尊重して、その欠点であったヨーロッパ的性格、すなわち加盟国のヨーロッパ中心主義、活動にあたっての法律主義や手続偏重を排し、普遍的加盟、実際的処理を重視し、全会一致制を変えて多数決制を原則としたことである。最後に、国際連盟が平和と安全の維持を目的としたことに加え、国連は経済、社会、人権などの分野における国際協力を独立してその目的のなかに加えたことがあげられる。

[斎藤鎮男]

主要機関

国連は六つの主要機関からなっている。総会、安全保障、経済社会および信託統治の3理事会、国際司法裁判所ならびに事務局がそれである。国連は、これらの主要機関のほかに補助機関を設けることができることになっている。

〔1〕総会General Assembly 主要機関のうちで最高の機関は総会で、国連機能の全般にわたって討議し、加盟国、安全保障理事会に対して勧告を行うことができる。総会は全国連加盟国(2022年10月時点で193か国)で構成する。また総会の決定は、出席しかつ投票する構成国の過半数の賛成により、重要問題については3分の2の多数の賛成によって行われる。

 総会(通常会期)は毎年1回(9月の第3火曜日から)開かれることになっているが、必要があれば特別会期Special Sessionを開くことができる。また、安全保障理事会が国際の平和と安全の維持に関する主要な責任の遂行に失敗したときには、国際の平和と安全を維持しまたは回復するための集団的措置を加盟国に勧告するために、総会の会期中でないときには、安全保障理事会の要請(9理事国の多数によって)か、加盟国の要請(過半数によって)があってから24時間以内に、緊急特別会期Emergency Special Sessionを開くことができる(1950年11月3日に成立した「平和のための結集」決議による)。

〔2〕安全保障理事会Security Council 安全保障理事会は、国際の平和と安全の維持に関して第一次的責任を負う機関である。国連加盟国は、安全保障理事会の決定を受諾し履行しなければならないから、この責任遂行のために、総会よりも強い権限を有しているわけである。理事会は、常任理事国5か国(アメリカ、イギリス、ロシア、フランス、中国)と非常任理事国(発足当初は6か国。1965年に4か国増員され10か国となった。任期は2年だが引き続いて再選されない)で構成する。また理事会の決定は、手続事項については9理事国(いかなる理事国であってもよい)の賛成投票によって、その他の事項(非手続事項や実質事項とよばれる)の決定については、常任理事国の同意投票を含む9理事国の賛成投票によって行われる。したがって、実質事項の決定では常任理事国の反対投票は拒否権vetoの行使となる(ただし、常任理事国の棄権や欠席は拒否権の行使と認められないことが慣行として確立している)。

〔3〕経済社会理事会Economic and Social Council 経済社会理事会は、経済的、社会的、文化的、教育的および保健的国際問題について、研究、報告、発議を行い、総会、国連加盟国および関係専門機関に対し勧告を行うことができる。理事会はこのほかに、専門機関Specialized Agenciesとの連携関係を設定する協定を締結し、その活動の調整を行う。また、NGO(非政府組織)と協議を行い、そのための取決めを行う権限をもっている。理事会は54の加盟国で構成する。その決定は、出席しかつ投票する理事国の過半数の賛成によって行われる。

〔4〕信託統治理事会Trusteeship Council 信託統治理事会は、信託統治地域について統治国を監督するための機関である。この理事会は、旧委任統治地域を取り扱うための信託統治協定に基づき活動してきたが、1994年のパラオを最後に管轄下の11の地域すべてが独立したため任務をほぼ終了したものとみなされている。そのため信託統治理事会は手続を改正し、今後は必要が生じた場合のみ会議を開くことになった。

〔5〕国際司法裁判所International Court of Justice 国際司法裁判所は、国際連盟時代の常設国際司法裁判所を引き継いだもので、15人の裁判官(任期9年)よりなる、国連の主要な司法機関である。この裁判所は、国連憲章と不可分の一体をなす国際司法裁判所規程に従ってその任務を行うことになっており、すべての国連加盟国はこの規程の当事国である。また、すべての国連加盟国は、自国が当事者であるいかなる事件においても、その裁判に従わなければならない。なお、総会、安全保障理事会、あるいは、その他の国連機関や専門機関で総会の許可を得るものは、法律問題についてこの裁判所の勧告的意見を求めることができる。この勧告的意見には法的拘束力はない。

〔6〕事務局Secretariat 事務局は、事務総長Secretary Generalと職員からなる。事務総長は、安全保障理事会の勧告に基づいて総会が任命する。事務総長は、各会議に出席し、委託された任務を遂行し、年次報告を行うなど事務機能を統率しているが、同時に国際の平和と安全の問題について安全保障理事会の注意を促したり、総会に年次報告をするなど、政治的機能も担う。歴代事務総長は、初代のトリグブ・リー以下、ダグ・ハマーショルド、ウ・タント、クルト・ワルトハイム、ハビエル・ペレス・デクエヤル、ブートロス・ブートロス・ガリ、コフィ・アナン、潘基文(ばんきぶん/パンギムン)、アントニオ・グテーレスである。事務局の職員は、総会が設ける規則に従って事務総長が任命する。

〔7〕補助機関Subsidiary Organs 総会および各理事会は補助機関を設けることが認められている。総会関係では、人権理事会(UNHRC)、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)、国連開発計画(UNDP)、国連環境計画(UNEP)などがあり、安全保障理事会関係では旧ユーゴスラビア国際刑事裁判所(ICTY、1993~2017)やルワンダ国際刑事裁判所(ICTR、1994~2015)などがあげられる。また、総会と安全保障理事会の両方の下に、国連平和構築委員会(PBC)がある。経済社会理事会関係では、麻薬委員会や女性の地位委員会などの機能委員会と、地域委員会(5地域)がある。

〔8〕専門機関Specialized Agencies 専門機関は次の19の国際組織からなる(2022年10月時点)。国際労働機関(ILO)、国連食糧農業機関(FAO)、国連教育科学文化機関(UNESCO)、世界保健機関(WHO)、国際民間航空機関(ICAO)、万国郵便連合(UPU)、国際電気通信連合(ITU)、世界気象機関(WMO)、国際海事機関(IMO)、国際通貨基金(IMF)、世界銀行グループ(国際復興開発銀行=IBRD、国際開発協会=IDA、国際金融公社=IFC、多数国間投資保証機関=MIGA、投資紛争解決国際センター=ICSID)、世界知的所有権機関(WIPO)、国際農業開発基金(IFAD)、国連工業開発機関(UNIDO)、世界観光機関(UNWTO)。なお、国際原子力機関(IAEA)は専門機関に類するものであるが、性質上、経済社会理事会のみならず総会、安全保障理事会とも関係をもっているので専門機関には入らない。また、世界貿易機関(WTO)も専門機関と類似するが、連携協定は締結されていない。

[斎藤鎮男・黒神直純 2022年12月12日]

成立以後の歴史と現状

国連はその発足後、多くの試練を経て今日に至っている。

〔1〕東西関係 第二次世界大戦を通じて保たれた東西間の協調は、国連の発足後まもなく、レバノン、シリア、ギリシアにおける外国軍隊の撤退を主張したソ連の第1回拒否権行使によって動揺を始め、これに対応してなされた1947年のトルーマン・ドクトリン発表やマーシャル・プランの成立のために、冷戦Cold Warによって置き換えられるに至った。この冷戦期間は、1953年のスターリンの死まで続き、東西ともに国連を自己に有利に活用しようとしたが、拒否権の乱発によって国連は麻痺(まひ)状態になった。スターリンの死後平和共存の時代に入り、さらに米ソ間のいわゆるデタント時代がこれに続くに及び、米ソ両国による国連の共同管理の様相を呈するに至った。

〔2〕第三世界諸国の大量加盟 冷戦構造がなお続く1955年、アジア・アフリカ新興諸国は、バンドン会議における反帝反植民地のスローガンのもとに16か国が一括加盟に成功した。それ以後も第三世界の新加盟が続き、第三世界の全加盟国数に占める比率は、35%(1956年末)、50%(1964年初頭)と増大し、今日では3分の2を超えている。強烈な民族主義と非同盟主義に支えられたアジア・アフリカ勢力の国連における台頭は、当然に西欧体制下の国連の勢力関係に変化をもたらした。そのうえソ連や新しく国連に席を占めた中国はこれを支援し、アメリカをはじめとする西欧諸国は、その数の力にフラストレーションを覚えるようになった。このことは、米ソ両国の主導下にあった国連の勢力関係が多極化し、超大国の自由にならなくなったことを意味した。

〔3〕国連主要機関の役割の消長 東西関係が冷戦下にあった国連史の最初の10年は、安全保障理事会の機能が麻痺して総会の役割が上昇したが、それに続く10年間は安全保障における事務総長の機能を高め、さらにその後の10年間では、第三世界の総会における勢力増大の影響を避けようとする西欧側の態度を反映して、安全保障理事会の比重が高まった時代ということができる。中東問題や南ア(南アフリカ共和国)問題に関する総会の決議の無視、安全保障理事会におけるアメリカを含む拒否権行使の頻発がその好例である。

〔4〕安全保障理事会の活性化 冷戦後安全保障理事会が以前と比較して機能するようになった。安全保障理事会は、1990年代初頭の湾岸危機を契機として、国連憲章第7章に基づいて、多国籍軍や地域的機関に強制措置を授権するようになった。また、各地で内戦が頻発し、平和維持活動の派遣件数が飛躍的に増大した。さらに、1992年に国連事務総長ブートロス・ガリによって提出された報告書「平和への課題」では、紛争予防および平和維持活動と並び、紛争後の復興を支援するいわゆる平和構築の重要性が唱えられた。その後平和構築委員会(PBC)が設置され、紛争後の地域においては、平和維持活動以外に国連政治・平和構築ミッションとよばれる新たな活動が展開している。また、紛争後の地域での司法機関による法の秩序の確立として、1990年代に起きたユーゴスラビアとルワンダの内戦において、国際人道法上で違反したものを裁くために、安全保障理事会のもと国際刑事裁判所がそれぞれ設けられた。

〔5〕改革機運の高まり アナン事務総長の在任中(1997~2006)、世紀の変わり目には「国連ミレニアム宣言」、また国連創立60周年には「世界サミット成果文書」と、大きな節目に重要な文書が採択された。これらにおいて国連の目標や原則が再確認されるとともに、あらゆる活動分野における提案が多く盛り込まれ、アナンは積極的に国連改革を推進した。1997年7月の報告書「国連を刷新する」には、副事務総長の新設、部局の統廃合や職員の大幅な削減など斬新な考えを盛り込み、設立以来もっとも包括的かつ大胆と評された。2002年9月の報告書でうたわれた「国連を強化する」との目的のもとに人権理事会の設置が決定され、事務局の改革も提案された。

〔6〕世界的目標設定の試み 近年国連は、世界を巻き込む形で開発や発展に関する達成目標を設定し、各国の自発的な行動を促進することに力を入れてきた。その代表的なものとして、「ミレニアム開発目標Millennium Development Goals:MDGs」と、「持続可能な開発目標Sustainable Development Goals:SDGs」があげられる。前者は、2000年9月にニューヨークで開催された国連ミレニアム・サミットで採択された。これは、極度の貧困と飢餓の撲滅など八つの目標をうたった開発分野における国際社会共通の目標であった。事務総長の潘基文は、目標の最終年にあたる2015年7月に「ミレニアム開発目標報告2015」を発表し成果を強調した。

 SDGsは、開発のみならず経済、社会および環境にも広がるもので、2015年の国連サミットで採択された「持続可能な開発のための2030アジェンダ」の一部を構成した。17のゴール・169のターゲットからなるこの目標は、2030年までの達成を目ざす。これら一連の目標は、世界各国における国レベルから市民レベルまで浸透し一定の効果を示してきた。

[斎藤鎮男・黒神直純 2022年12月12日]

制度上の発展

複雑な国際環境に直面して機構面でも機能面でも行き詰まったかにみえる国連においても、制度上、種々打開策が試みられてきた。先にあげた「平和のための結集」決議以外に重要なものを次にあげる。

〔1〕意思決定におけるコンセンサス制の採用 国連においては、意思決定は投票によって行われるのが原則である。しかし、投票によるときは、より広い賛同が得られないまま投票に付されるから、賛否が大きく分かれ、のちにしこりを残すばかりでなく、せっかくの決定が実施されない場合が多い。コンセンサス制consensusは、投票によることなく、議長などが、異議がなければこれを採択したいと宣言して表決にかえるのである。コンセンサス案が成立するためには十分な事前協議がなされねばならない。コンセンサスは全員が満足するものとは限らないから、満場一致とは異なるが、反対しないということで総意となったものであるから実施に移しやすい。したがって、コンセンサス制は投票にかわる意思決定方式として定着してきたといえる。

〔2〕平和維持活動の展開 国連は、冷戦に拒まれて本来の国連軍を編成することに失敗したが、これにかわる平和維持活動Peace-keeping Operations(PKO)を展開し、平和維持の重要な役割の一端を担わせることができた。PKOは、安全保障理事会または総会の勧告に基づき、武力行使を目的とせずに、紛争当事国間に介在して停戦の確立、治安維持などにあたることにより、戦火の拡大、再発を防止することを任務とする予防的警察行為である。したがって、侵略の防止や軍事制裁などの軍事行動を目的とするものとは異なっている。冷戦後は、1992年にカンボジアに派遣された国連カンボジア暫定機構(UNTAC)のように、従来の兵力引き離しや停戦監視以外の、選挙監視や文民警察機能などを備えた大規模かつ包括的な目的を帯びたPKOが奏功した。他方、1993年に、国連事務総長ブートロス・ガリの報告書「平和への課題」のもとでソマリアに派遣された第二次国連ソマリア活動(UNOSOMⅡ)のように、武装しかつ紛争当事者の同意なく介入するものは、失敗に終わった。その後、憲章第7章のもとで、自衛力を強化されたPKOが派遣されるようになり、また、スーダンのダルフール地域における国連アフリカ連合合同ミッション(UNAMID)のように地域的機関の軍と連携したハイブリッド型の活動も見受けられ、PKOは新時代を迎えている。

〔3〕NGO活動の重視 主権国家の集合体である国連にとって、NGOの活動は有意義であることが認められ、憲章もそのため1か条(憲章71条)を割いている。NGOが注意を払われるようになったのは、その数のおびただしい増大とともにその政治的重要性が高まったこと、通信技術の発達によって、経済・社会分野における国境を越えた民間の活動が活発化したことのためである。国連は、これら組織の特殊な地位を認めて国連活動への協力を望んできた。国連の主要機関の一つである経済社会理事会と協議する関係にあるNGOを、一般に国連NGOとよぶ。なお近年の国連では、しばしばNGOのことを市民社会civil societyとよぶ。

[斎藤鎮男・黒神直純 2022年12月12日]

安全保障理事会の改革

冷戦後、ソ連からロシアへと安全保障理事会の議席がスムーズに承継され、また、湾岸危機の際、五大国の意見の一致により安全保障理事会が機能するようになった。このことは、他の加盟国に対して、大国による安全保障理事会支配という不信感を喚起し、安全保障理事会の構成を再考する契機となった。1991年の総会で改組の議論が始まり、1993年12月には、安全保障理事会改組作業部会が設置された。改革問題の争点は、主に、(1)安全保障理事会拡大の範囲と(2)拒否権の問題であった。

 1997年3月には、作業部会から、安全保障理事会の拡大の幅を常任理事国5か国(そのうち2か国は先進国)とし、新規常任理事国には拒否権を認めないことなどを盛り込んだ提案(議長の名をとって「ラザリ案」とよばれる)が出された。日本とドイツ、さらに地域の大国であるブラジルとインドにとっては、常任理事国入りが目前に迫ったが、同年10月にイタリア、カナダ、エジプト、メキシコ、パキスタンなどの反対により、ラザリ案は採択されなかった。

 2001年9月11日にアメリカを襲ったテロを契機とし、2003年9月には、総会で事務総長アナンが国際社会の新たな脅威に対処するための改革を検討する「ハイレベル・パネル」の設置を提唱した。翌年12月には同パネルが報告書を提出した。ここでは、二つの方策、すなわち、常任理事国(拒否権なし)6か国と非常任理事国(2年任期)3か国の増加(A案)と、準常任理事国(任期4年で再選可)8か国と非常任理事国2か国の増加(B案)が提案された。日本、ドイツ、ブラジルおよびインド(G4)は歩調をあわせて、A案を推進すべく、アフリカ連合(AU)との交渉を進めたが時間がかかり、安全保障理事会の改革は、暗礁に乗り上げた。

[黒神直純 2022年12月12日]

国連の財政

国連の通常予算は2年ごとに編成されてきたが、2020年から単年度予算(1月1日~12月31日)が導入されている。2022年の通常予算は、約31億ドルである。国連の経費は加盟国の分担金によってまかなわれる。分担金は、総会が任命し個人資格で勤務する18名の委員から構成される分担金委員会の助言に基づいて、総会が決定する分担率に従って加盟国が支払うことになっている。分担率は、加盟国の国民総所得などに基づいて決められ、原則として3年に1回改定される。2022~2024年の基準では、1位アメリカ(22.000%)、2位中国(15.254%)、3位日本(8.033%)、4位ドイツ(6.111%)、5位イギリス(4.375%)である。国連には、通常予算のほかに、自発的拠出金その他の特別勘定または信託基金などがある。なお、PKOの経費は別の分担方式によりまかなわれる。2022年時点で、PKO予算はアメリカが全体の26.9493%を負担しており、以下、中国18.6857%、日本8.0330%、ドイツ6.1110%、イギリス5.3592%と続いている。

[黒神直純 2022年12月12日]

国連と日本

日本は戦後、独立を回復するとまもなく、1952年(昭和27)6月23日、国連加盟の申請を行った。しかし、米ソ対立の激しいなか、ソ連はアメリカの推す国は日本をはじめどの国の加盟も拒否権をもって阻止した。1955年になって、日本を含む18か国の一括加盟案が上程されたが、国民政府(中華民国)がモンゴル人民共和国の加盟に反対したため、ソ連は日本にのみ拒否権を行使し、モンゴルとともにこのときも日本は加盟の機を逸した。結局日本の加盟は、翌1956年の12月、日ソ国交正常化交渉の成立をまって実現することができた。なお、日本は国連加盟前に、すでに国際司法裁判所とすべての専門機関に加盟していた。

 日本は、平和国家として国連重視の立場をとり、今日までその立場を堅持してきた。日本政府は、国連加盟直後、自由と正義に基づく平和の確立と維持という外交の根本目標に従い、外交活動の基調として、国連中心、自由主義諸国との協調、アジアの一員としての立場堅持、の三原則をあげた。その後、日本は安全保障理事会の非常任理事国、経済社会理事会の理事国にしばしば当選し、また、分担金負担率も逐次増大して高額負担をすることになった。しかし、日本はその憲法のたてまえ上、軍事力の行使を伴う国連活動に参加することができず、PKOにも経費負担以外の協力を控えてきた。1992年のカンボジアへ派遣されたPKO(UNTAC)を機に自衛隊をはじめ要員を派遣するようにはなってきたが、依然、日本の人的貢献度は低い。

 ところで、日本に関連する憲章上の問題として、旧敵国条項削除問題がある。国連憲章上には明文の説明はないものの、第二次世界大戦時に連合国と交戦していた旧「敵国」という語が53条、77条1項bおよび107条の3か所にある。これらの規定を総称して旧敵国条項とよぶ。日本は、1970年の外務大臣愛知揆一(あいちきいち)(1907―1973)の総会演説以降、戦後国際社会に復帰した日本にこのような規定の適用の余地はないものとして、一貫してこれら規定の削除を主張した。この問題に関しては、1994年(平成6)の第49回総会で削除の検討を含む国連憲章特別委員会の報告に関する総会決議が賛成多数で可決され、翌年の総会決議では、108条に基づいて、旧敵国条項を削除するための憲章の改正手続を将来のもっとも早い適当な時期に開始する意思が表明された。

[斎藤鎮男・黒神直純 2022年12月12日]

『斎藤鎮男著『国際連合論序説』改訂3版(1981・新有堂)』『斎藤鎮男著『国際連合の新しい潮流』改訂増補版(1984・東京新有堂)』『桐山孝信ほか編『国際機構』第4版(2009・世界思想社)』『明石康著『国際連合―軌跡と展望―』(岩波新書)』『北岡伸一著『国連の政治力学 日本はどこにいるのか』(中公新書)』


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百科事典マイペディア 「国際連合」の意味・わかりやすい解説

国際連合【こくさいれんごう】

United Nations。略称は国連,UN。国際連盟の活動を受けつぎ,1945年10月24日発足した史上最大の国際平和機構。本部ニューヨーク。事務総長潘基文(2007年就任)。2012年現在の加盟国は193。〔成立経過〕 設立の構想は第2次世界大戦初期から連合国(枢軸国と交戦した米,英,ソなど)の間で高まっていた。1941年の大西洋憲章,1942年の連合国共同宣言などにそのきざしがみられるが,1943年米・英・ソ・中4ヵ国の発したモスクワ宣言の中で初めて具体的に提起され,1944年ダンバートン・オークス会議で国際連合憲章の草案が採択された。1945年ヤルタ会談をへて同年サンフランシスコ会議で正式に憲章が採択され,10月24日(国連の日)正式に発足した。→国際連合旗国際連合本館〔目的と原則〕 国連の目的と活動原則は国際連合憲章の前文および第1章に規定されている。目的は国際平和と安全の維持のために集団的保障措置を講じ,経済・社会・文化など非政治的分野での国際的協力による問題解決を図ることなどである。行動原則は国連およびその加盟国が遵守(じゅんしゅ)すべきものとして,加盟国の法的主権の平等,憲章に基づく義務の履行,紛争の平和的解決,他国の領土主権に対する武力行使の禁止,国連の行動に対する加盟国の協力と援助,加盟国の国内問題に対する国連の干渉禁止,および非加盟国もこれら諸原則に従って行動するよう国連が努力することを規定している。〔加盟国〕 憲章の定める義務を承認し,その義務を遂行する意思と能力があると国連によって認められた平和愛好国はすべて加盟国となりうる。加盟希望国は事務総長を経由して安全保障理事会に申請し,同理事会の承認と勧告に基づき,国連総会が決定する。脱退については特別の規定はなく,自己の意思により行われることが了解されている。憲章違反国に対する除名・権利停止などの措置は,安全保障理事会の勧告に基づき総会が決定する。加盟国のうち,国連発足時に憲章に署名し,批准をすませていた51ヵ国を原加盟国といい,これは第2次大戦中の連合国に限られていた。原加盟国はアルゼンチン,オーストラリア,ベルギー,ボリビア,ブラジル,白ロシア(現,ベラルーシ),カナダ,チリ,中国,コロンビア,コスタリカ,キューバ,チェコスロバキア(現,チェコ,スロバキア),デンマーク,ドミニカ共和国,エクアドル,エジプト,エルサルバドル,エチオピア,フランス,ギリシア,グアテマラ,ハイチ,ホンジュラス,インド,イラン,イラク,レバノン,リベリア,ルクセンブルク,メキシコ,オランダ,ニュージーランド,ニカラグア,ノルウェー,パナマ,パラグアイ,ペルー,フィリピン,ポーランド,サウジアラビア,シリア,トルコ,ウクライナ,南アフリカ連邦(現,南アフリカ共和国),ソ連(現,ロシア),英国,米国,ウルグアイ,ベネズエラ,ユーゴスラビア。その後冷戦が影を落とし,10年間は米ソが互いに相手陣営の国の加盟を妨害したため加盟数は伸び悩んだが,1955年東西間の妥協の結果,16ヵ国が加盟。ここにはイタリアも含まれ,さらに1956年に日本,1973年に東西両ドイツと,第2次大戦の敗戦国もすべて加盟した。また,とくに1960年代以降,植民地から独立した多くのアジア・アフリカ諸国が加盟し,国連の普遍性は高められた。なお,中国に関しては1949年中華人民共和国の成立をみるが,国連では台湾の国民政府が代表権を維持,1971年に台湾政府から中華人民共和国政府に代表権の交代が認められた。1990年には南北イエメンの統一,東西ドイツの統一により,それぞれ単一加盟となった。1991年には南北両朝鮮が加盟するととともに,ソ連や旧ユーゴスラビアなどの解体の結果,バルト三国(1991年),独立国家共同体(CIS)8ヵ国,クロアチア,ボスニア・ヘルツェゴビナ(1992年)などが次々と加盟,2002年にはスイス,東ティモールが加盟した。2006年には,セルビア・モンテネグロから分離独立したモンテネグロが,2011年には南スーダンが加盟した。バチカン市国,パレスティナなどはオブサーバーとして参加。世界の大部分が加盟し,2011年時点の加盟国数は193ヵ国となっている。〔機構〕 主要機関には国連総会,安全保障理事会,経済社会理事会信託統治理事会国際司法裁判所国連事務局がある。これら主要機関にはそれぞれ多くの補助機関が付置され,さらに外部には国連と密接な連携を保っている協力機関,国際団体,各国政府機関がある。総会は国連の最高機関で全加盟国で構成され,三つの理事会の中では安全保障理事会が総会と並ぶ重要な地位を占めて実質的に国連の中枢となっている。経済社会理事会は経済,文化,教育などの事項について,各種専門機関の政策・活動を調整する機関。国連創立以前の組織を継承した国際労働機関(ILO),万国郵便連合(UPU)や,世界保健機関(WHO),ユネスコ(UNESCO)など17の専門機関を付置している。各専門機関は独立した自治体で,特別の協定で国連と関係をもつ一種の外郭団体ともいうべきもので,それぞれが独自の活動を行っているため,経済社会理事会の役割は相対的に低下している。しかし,〈国連NGO〉の多くはこの理事会に登録されるなど,広範な領域を連動・調整する機能をもっている。このほか総会・三理事会には国連難民高等弁務官事務所国連大学,国連児童基金(ユニセフ),国連開発計画など,多数の特別機関が付設されている。国際司法裁判所は国連の司法機関で法律的な国際紛争の審理に当たる常設機関である。事務局を統括する国連事務総長の役割が大きくなりつつあり,ガリからアナンへの交代(1997年)にみられたように,その選任自体が争点となる。職員は2万5000人を超え,国際公務員と呼ばれる。〔財政〕 通常経費の大半は,加盟国がそれぞれの国民所得を基礎として算定された比率に応じて支払う分担金でまかなわれている。しかしスエズ動乱コンゴ動乱などの際の平和維持活動(PKO)費についてはフランス,共産圏諸国が特別分担金支払いを拒否したため財政危機を招き,各国の寄金募集や国連債発行を余儀なくされたこともある。その後も財政負担能力の弱い小国の加盟が多く,またアメリカをはじめとして国連分担金の支払いが滞っている国が多いため,財政難に陥っている。〔活動の歴史〕 1946年以降,毎年定期総会が開催されている。国連は当初より,1946年の国連憲章採択,1948年の世界人権宣言採択,1955年の戦争防止・永久平和達成宣言採択などにより基本的姿勢を明らかにしてきた。具体的な平和維持活動(PKO)としては,1949年インド・パキスタン戦争中東戦争(第1次)の停戦実現,1950年朝鮮戦争,1956年スエズ動乱,1959年コンゴ動乱,1964年キプロスの民族紛争,1967年から1973年にかけて断続的に戦闘があった中東戦争,1978年イスラエルのレバノン侵攻などに際しての国連軍の派兵,1960年カシミール紛争の停戦実現,1988年アフガニスタン和平協定調印,イラン・イラク戦争の停戦実現,また近年では1992年―1993年のUNTAC(カンボジア暫定行政機構)の活動,旧ユーゴスラビア内戦,ソマリア内戦への派兵などがある。1988年には国連平和維持軍(PKF)がノーベル平和賞を受賞。しかし,平和維持活動については,冷戦終結を境に民族紛争あるいは非西欧地域の国家間紛争が多くなり,これまでの西欧中心的国際ルールの強制では対応しきれなくなってきており,今後のあり方が問われている。2003年のイラク戦争は国連決議なしで開戦され,国連の意義が問われるものとなった。軍縮・核兵器問題では,1952年から国連軍縮委員会が活動しており,1954年原子力平和利用決議採択,1957年国際原子力機関設置,1959年完全軍縮に関する全加盟国共同決議採択,1968年核拡散防止条約推進決議採択,1972年生物・毒素兵器禁止条約採択,1977年環境改変技術使用禁止条約採択,1992年化学兵器禁止条約採択などがある。その他1949年パレスティナ難民救済機関設置,1956年ハンガリー国民救援決議採択,1960年植民地独立付与宣言採択,1960年人種差別撤廃宣言採択(1965年人種差別撤廃条約採択),1964年発展途上国援助のための国連貿易開発会議(UNCTAD)開催,1968年宇宙平和利用会議主催など多方面の活動を行ってきた。1960代年以降は〈南北問題〉が一つの大きな主題になっており,国連の果たした役割は大きい。また,1972年国連人間環境会議(ストックホルム会議)開催,1974年以降の世界人口会議開催,1979年女子差別撤廃条約採択,1989年子どもの権利条約採択,1992年国連環境環境会議開催,1993年の国連世界人権会議開催,1993年の国際先住民年実施,1995年北京世界女性会議(国際婦人年)開催など,環境や人権,人口,女性といった国家を超えた問題にも取り組んでいる。北京世界女性会議では女性団体など多くのNGO(非政府組織)間で有意義な議論がなされ,また政府間会議にも参加するなど活発な活動が展開された。最近は,こうしたNGOの主張や提言を取り入れつつ国際的合意を形成することが,国連の重要な役割として求められている。2001年ノーベル平和賞が与えられた。〔日本と国連〕 日本は第2次大戦後,未加盟時代から国連中心主義を外交政策の基調とし,サンフランシスコ講和条約の前文でも国連憲章の遵守と将来の国連加盟をうたっていた。1952年主権回復後毎年加盟を申請していたが,安全保障理事会におけるソ連・台湾政府の反対で実現せず,1956年ようやく加盟が認められた。以後各種理事会・機関においてしばしば理事国に選出され,財政的にも大きく寄与してきた。その結果,国連における日本の地位は次第に重要性を増し,PKOなどにおいても経済面だけでなく人的・物的貢献が望まれるようになり,1992年カンボジアにはじめて自衛隊が派遣された。しかし自衛隊のPKO参加は憲法に抵触するとの声もあり,日本国内でもいまだに議論が分かれている。1993年日本は常任理事国入りを表明,2005年からそのために活発に活動を開始したが,常任理事国になれば国連の軍事活動に関する姿勢も問われることとなり,ほかにも常任理事国入りのための重要課題は多い。
→関連項目安全保障FAO国際警察軍国際難民機関国際世論国際連合行政裁判所国際連合特別基金児童の権利に関する条約集団安全保障ジュネーブ軍縮委員会信託統治スマッツ難民条約武器輸出山口仙二ワルトハイム

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「国際連合」の意味・わかりやすい解説

国際連合
こくさいれんごう
United Nations

国際連盟に代わって,1945年10月24日の国連憲章に基づき設立された国際機構。国際間の平和と安全を維持し,平等と民族自決の原則に基づく諸国間の友好関係の発展を育成し,国際間の経済・社会・文化・人道的問題を解決するうえでの国際協力を奨励することを目的としている。本部所在地はアメリカ合衆国ニューヨーク。国際連合ということばは,もともと第2次世界大戦において枢軸国(ドイツ,イタリア,日本)に対抗して連合した諸国を表すために用いられた。1944年8月21日から 10月7日まで四大国(イギリス,アメリカ,ソビエト連邦,中国)が出席してワシントンD.C.のダンバートンオークスで開かれた会議で,国連憲章の原案となるものが採択された(→ダンバートンオークス提案)。これは 1945年2月のヤルタ会談で,ウィンストン・チャーチル,ヨシフ・スターリン,フランクリン・D.ルーズベルトによってさらに討議された。2ヵ月後にサンフランシスコで開かれた「国際機構に関する連合国会議」は,この 3人が補足した提案を基礎として国連憲章を起草した。国連憲章は同年 6月に採択され,10月に発効した。
主要機関は,総会,安全保障理事会,経済社会理事会,信託統治理事会,国際司法裁判所,事務局の 6機関である。国連総会は国連の全加盟国の代表者からなる。総会は毎年開催されるが,必要があれば特別会期を招集することもできる。安全保障理事会は常任理事国 5ヵ国(アメリカ,ロシア,イギリス,フランス,中国)と,非常任理事国 10ヵ国(1965年以前は 6ヵ国)で構成される。国際間の平和と安全の維持を主要な責務とし,理事会の決定は 9理事国以上の賛成投票によって行なわれるが,常任理事国はいずれも,実質事項についての拒否権をもつ。経済社会理事会は国連の経済的,社会的,人道的,および文化的活動に関与し,経済・社会の発展のために研究と勧告を行なう。国際司法裁判所は国家間の争いを裁き,総会や安全保障理事会に対して裁決や意見を言い渡す。国連事務局は国連の管理部門であり,国連事務総長を長とする。国連事務総長は重要な政治的任務をもち,任期は 5年で,安全保障理事会の勧告に基づいて総会が任命する。
国連はこれまでに国際間の,あるいは国家内の紛争を解決するために,いくたびか平和維持活動を行なってきた(国連平和維持活動は 1988年ノーベル平和賞を受賞)。国連の監督下にある機関としてはほかに,国際復興開発銀行 IBRD(世界銀行),国際通貨基金 IMF,国際労働機関 ILO(1969年ノーベル平和賞),国連食糧農業機関 FAO,世界保健機関 WHO,国際連合教育科学文化機関 UNESCO,国連児童基金 UNICEF(1965年ノーベル平和賞)などがある。日本は 1956年12月加盟を認められた。国連は 2001年,コフィ・アナン国連事務総長とともにノーベル平和賞を受賞。2011年に南スーダンが加盟し,加盟国総数は 193となった。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「国際連合」の解説

国際連合(こくさいれんごう)
United Nations

第二次世界大戦後,国際平和と国際協力を目的に設立された国際組織。国際連合の名称は,第二次世界大戦の「連合国」(the United Nations)を用いたものであり,考え方はすでに「連合国宣言」(1942年)に表れているが,国際的平和維持組織設立の構想が正式に国際関係において認められたのは,モスクワ外相会議(43年10月)である。その後,テヘラン会談ダンバートン・オークス会議ヤルタ会談をへて,国連憲章制定のサンフランシスコ会議が開催され(45年4~6月),1945年6月26日に国連憲章を採択,同憲章が10月24日に発効し,原加盟国51カ国で発足した。本部はニューヨーク,ヨーロッパ本部がジュネーヴにある。加盟国は,2006年末現在で192カ国。日本は1956年12月18日加盟。国際連合の目的は,国際の平和と安全を維持すること,および,経済的・社会的・文化的国際協力を推進することである。国際連盟では,安全保障の問題を第一次的に考え,国際協力を二次的なものと捉えていたが,国際連合では,両者を同列に捉え,相互に補完するものとした。このような安全保障と国際協力の関係を最も端的に表したのが,国際連合と密接な関係を持つユネスコ憲章の前文の「戦争は人の心の中で生まれるものであるから,人の心の中に平和のとりでを築かなければならない」という表現である。国際連合は,総会安全保障理事会経済社会理事会,信託統治理事会,国際司法裁判所,事務局の6機関で構成される。国際連合は,国際の平和と国際協力の広範囲にわたる任務を遂行しているが,最も重要なのは,現在の国際社会で活動する多くの国際組織の中心としての役割を果たしていることである。

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知恵蔵 「国際連合」の解説

国際連合

1945年に発足した、ニューヨークに本部を置く国際機構。第1次世界大戦後に設立された国際連盟が米ソという2大国を欠き(ソ連は37年に加盟)、主に安全保障に主眼が置かれていたのに比べ、加盟国(2006年8月現在192カ国)の普遍性、活動分野の総合性のいずれをとっても、史上類を見ない代表的な世界的機構。主要な機関として、国連総会、安全保障理事会(安保理)、経済社会理事会、信託統治理事会、事務局、国際司法裁判所(ICJ)を持つが、それ以外にも、女性の地位委員会、社会開発委員会など、数多くの委員会を設けている。公用語は中国、英、仏、ロシア、スペイン語だが、総会、安保理、経済社会理事会ではこれにアラビア語が加わる。現在は世界の大多数の国家が加盟するに至っているが、the United Nationsという名称の起源が第2次世界大戦時の「連合国」だったことからも明らかなように、戦勝国による戦後世界管理機構として構想された。原加盟国は連合国側の51カ国で、機構設立の誓約である国連憲章の調印も、45年6月26日、大戦終了前に行われた。そのためもあって、国連の大きな目的の1つは連盟と同じく平和の維持にあるが、国際経済の諸問題の解決や人権保障の推進などを、平和の建設に密接にかかわるものとして活動目的に掲げている点が連盟と異なる。とはいえ国連は世界政府ではなく、加盟国に命令を発する権限は持たない(例えば総会決議なども、内容的にいかに重要であれ、加盟国が順守の義務を負う国際法規だとはみなされていない)。あくまでも加盟国の主権を尊重した上で、諸国の行動を調和させるための中心となることが目的。国際社会の相互依存度が高まる中、国連の存在はいまや不可欠になっている。ただ、主権平等原則に基づき、総会では国の大小・強弱にかかわらず一国一票制をとっている結果、財政の分担率の低い国々が主導権を握っているとして、一部先進国の間には根強い不満もみられる。2006・2007年分通常予算は38億9000万ドル強。ニューヨークに本部を置く国連本体のほか、ユネスコなどの専門機関、国際原子力機関(IAEA)などの自治機関、ユニセフなどの国連総会設立機関も数多くあり、それらを総称して国連システムと呼ぶ。

(最上敏樹 国際基督教大学教授 / 2007年)

出典 (株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」知恵蔵について 情報

旺文社世界史事典 三訂版 「国際連合」の解説

国際連合
こくさいれんごう
United Nations

第二次世界大戦後に国際連盟に代わって設立された国際機関,本部はニューヨーク
1945年10月に憲章が採択され,翌年1月にロンドンで第1回総会が開かれた。初めはヨーロッパと南・北両アメリカの第二次世界大戦戦勝国が中心の平和維持機関であり,原加盟国は51か国であったが,やがて敗戦国やアジア・アフリカの新興独立国も加わり,現在の加盟国は180を超えている。総会・安全保障理事会・経済社会理事会・信託統治理事会(1994年以降活動を停止)・国際司法裁判所・事務局の6機関があり,補助機関としてユネスコ・国際労働機関(ILO)・国際通貨基金(IMF)などがある。国際連合の大きな目的の一つは平和の維持だが,これに密接に関わる問題として,国際経済の諸問題の解決や,人権保障の推進なども活動の目的に加えている。ただし,国際連合は,加盟国の主権を尊重することを基本に,各国の活動の調和をはかる機関である。また,国際連合は世界政府ではなく,加盟国に対して命令を発することはできない。しかし,それでも,相互依存の度合いを深める今日の国際社会において,国連は不可欠の存在となっている。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「国際連合」の解説

国際連合
こくさいれんごう

国際連盟にかわる国際平和維持機構。1944年のダンバートン・オークス会議,翌年のヤルタ会談をへて,同年サンフランシスコ会議に連合国50カ国が参加し,国際連合憲章を採択。同年10月憲章が発効して発足。本部はニューヨーク。国際平和と安全の維持,福祉の増進を目的とする。原加盟国は連合国51カ国で,中立国・枢軸国は除かれた。主要機関(総会・事務局・安全保障理事会・経済社会理事会・信託統治理事会・国際司法裁判所)と補助機関があり,別組織の専門機関とは連携関係をもつ。総会は1国1票,多数決を原則とし,毎年9月に招集。日本は52年(昭和27)加盟を申請,日ソ国交回復後の56年に承認された。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社日本史事典 三訂版 「国際連合」の解説

国際連合
こくさいれんごう
United Nations

第二次世界大戦後設立された常設の国際平和機構
略称「国連」,UN。1945年4〜6月のサンフランシスコ講和会議において,国際連合憲章を採択,同年10月正式発足した。国際平和と安全の維持,福祉増進のための国際協力などを目的とし,本部をニューヨークに置き,総会,事務局,安全保障・経済社会・信託統治の3理事会,国際司法裁判所など多くの機関がある。加盟国は188〈‘99年現在〉に達し,日本は,日ソ国交回復が成立した'56(昭和31)年に80番目の国として加盟した。

出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報

世界大百科事典(旧版)内の国際連合の言及

【安全保障】より

…後者は,多数国家の合意によって戦争その他の武力行使を集団的に協力して防止または排除しようとするものである。国際連盟や第2次大戦後の国際連合がその例であるが,これらはそれまでも存在した協商あるいは同盟とは国家主権のあり方において本質的に異なる。主権国家の絶対性を前提とする個別的安全保障のもとでは,国家利益の衝突や同盟間の勢力均衡のための闘争が避けられず,その帰結として第1次大戦が起こったため,その不備を補うべく国際連盟が生まれたといえよう。…

【第2次世界大戦】より

…戦後構想は,1943年に入りイギリス,アメリカ間で考えられはじめた。問題はソ連が参戦以来要求してきた〈第二戦線〉であり,またソ連とポーランドの国境画定であり,イギリス,アメリカ側はソ連をつなぎとめるためにも,また〈国際連合〉として実現される新しい国際秩序への同意を得るためにもソ連の同意を必要としていた。43年10月モスクワで3国外相会談が開かれ,44年に〈第二戦線〉を開くことを伝え,国際連合の設置に同意する中国をも含めた〈四国共同宣言〉が出された。…

※「国際連合」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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