土御門天皇(読み)つちみかどてんのう

精選版 日本国語大辞典 「土御門天皇」の意味・読み・例文・類語

つちみかど‐てんのう ‥テンワウ【土御門天皇】

第八三代天皇。名は為仁。後鳥羽天皇第一皇子。建久九年(一一九八)、四歳で即位。承元四年(一二一〇)弟の守成親王順徳天皇)に譲位北条氏専権を喜ばない父が討幕計画を起こし、承久の乱となる。乱後、後鳥羽・順徳院の遠流に際して自らのぞんで土佐に配流され、のち阿波に移り、配所死去阿波院。法名行源。建久六~寛喜三年(一一九五‐一二三一

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デジタル大辞泉 「土御門天皇」の意味・読み・例文・類語

つちみかど‐てんのう〔‐テンワウ〕【土御門天皇】

[1195~1231]第83代の天皇。在位1198~1210。後鳥羽天皇の第1皇子。名は為仁ためひと承久の乱後、土佐に流され、のち、阿波に移された。土佐院。阿波院。

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百科事典マイペディア 「土御門天皇」の意味・わかりやすい解説

土御門天皇【つちみかどてんのう】

後鳥羽天皇皇子。1198年3歳余で即位。1210年父上皇命令で弟順徳天皇に譲位。承久(じょうきゅう)の乱後,討幕計画には無関係であったが,自ら進んで土佐(とさ)に配流。のち阿波(あわ)に移り同所で死亡。遺骨は母承明門(しょうめいもん)院により山城(やましろ)金原(現京都府長岡京市)に移葬された。
→関連項目後嵯峨天皇水無瀬神宮

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改訂新版 世界大百科事典 「土御門天皇」の意味・わかりやすい解説

土御門天皇 (つちみかどてんのう)
生没年:1195-1231(建久6-寛喜3)

第83代に数えられる天皇。在位1198-1210年。名は為仁(ためひと)。後鳥羽天皇の第1皇子。母は源通親の娘在子(承明門院)。1198年(建久9)後鳥羽天皇の皇太子となり,即日受禅。1210年(承元4)後鳥羽上皇の命により順徳天皇に譲位。父上皇の討幕計画には加わらなかったが,承久の乱後,みずから進んで土佐に流され,のち阿波に移って同所で没した。阿波国板野郡里浦で火葬に付し,遺骨は現京都府長岡京市の金原(かねがはら)陵に葬する。土佐院・阿波院とも称する。
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朝日日本歴史人物事典 「土御門天皇」の解説

土御門天皇

没年:寛喜3.10.11(1231.11.6)
生年:建久6.11.1(1195.12.4)
鎌倉初期の天皇。名は為仁。後鳥羽天皇の第1皇子。母は内大臣源通親の娘(実は法印能円の娘)の在子(承明門院)。誕生日は12月2日説もある。建久9(1198)年1月に4歳で皇位につき,承元4(1210)年11月,異母弟の守成親王(順徳天皇)に譲るまで13年間皇位にあった。その譲位は守成をことに寵愛した父の後鳥羽上皇の命によるもので,16歳の土御門天皇は父に遺恨を残したと伝える。こうした譲位の事情もあって,承久の乱(1221)では後鳥羽上皇の倒幕計画に直接にかかわらず,乱後幕府からの沙汰もなかったが,父上皇の配流を聞き,ひとり都に残ることを親不孝として,同年閏10月,自ら幕府に申請して土佐国に配流となった。のちに阿波国に移り,同国で没。和歌にすぐれ,『土御門院御百首』『土御門院御集』などがある。<参考文献>『承久記』

(土谷恵)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「土御門天皇」の解説

土御門天皇 つちみかどてんのう

1195-1231 鎌倉時代,第83代天皇。在位1198-1210。
建久6年11月1日(または12月2日)生まれ。後鳥羽(ごとば)天皇の第1皇子。母は源在子(ざいし)(承明門院)。父の譲位をうけて4歳で即位。父が院政をおこない,その命により16歳で譲位した。歌人としてすぐれ,「新三十六人撰」のひとり。父上皇が討幕の戦い(承久(じょうきゅう)の乱)に敗れたため,みずからのぞんで土佐のち阿波(あわ)に流され,配所で寛喜(かんぎ)3年10月11日死去。37歳。墓所は金原陵(かねがはらのみささぎ)(京都府長岡京市)。諱(いみな)は為仁(ためひと)。法名は行源。別名に土佐院,阿波院。歌集に「土御門院御百首」「土御門院御集」。
【格言など】しづかなる心のうちも久方の空に隈なき月やしるらむ(「土御門院御百首」)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「土御門天皇」の意味・わかりやすい解説

土御門天皇
つちみかどてんのう

[生]建久6(1195).11.1. 京都
[没]寛喜3(1231).10.11. 阿波
第 83代の天皇 (在位 1198~1210) 。名は為仁。後鳥羽天皇の第1皇子。母は内大臣源通親の娘,承明門院在子。建久9 (1198) 年後鳥羽天皇の皇太子となり即日即位。承元4 (1210) 年後鳥羽上皇の命により皇太弟 (順徳天皇) に譲位。承久の乱では土御門上皇は無関係のため罪を問われることはなかった。しかしみずから望んで土佐に移り,のち阿波に行き,配所で没した。それゆえ,土佐院,阿波院とも呼ばれる。和歌にすぐれ,詠歌が少くない。陵墓は京都府長岡京市金ヶ原金原寺の金原陵。なお徳島県板野郡堀江 (現鳴門市) に火葬塚がある。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「土御門天皇」の意味・わかりやすい解説

土御門天皇
つちみかどてんのう
(1195―1231)

第83代の天皇(在位1198~1210)。名は為仁(ためひと)。後鳥羽(ごとば)天皇の第一皇子。母は源通親(みちちか)の女(むすめ)在子(ざいし)(承明門院(しょうめいもんいん))。建久(けんきゅう)6年12月2日誕生。後鳥羽天皇の譲位を受けて4歳で即位。16歳のとき弟の守成(もりなり)親王(順徳(じゅんとく)天皇)に譲位。1221年(承久3)の承久(じょうきゅう)の乱では、討幕計画に積極的に参画はしていなかったが、乱後、後鳥羽・順徳両上皇が配流されると、土御門上皇も自ら望んで土佐(高知県)に配流され、ついで阿波(あわ)(徳島)に移り、寛喜(かんぎ)3年10月11日配所に没した。優れた歌人でもあった。御陵は京都府長岡京市の金原(かねがはら)陵。

[山本博也]

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「土御門天皇」の解説

土御門天皇
つちみかどてんのう

1195.11.1/12.2~1231.10.11

在位1198.1.11~1210.11.25

後鳥羽天皇の第1皇子。名は為仁(ためひと)。母は源通親の女承明門院在子。1198年(建久9)即位,1210年(承元4)父後鳥羽上皇の命で弟の順徳天皇に譲位。承久の乱には積極的に関与せず,後鳥羽・順徳両上皇は配流となったが,鎌倉幕府の追及はなかった。しかし同年みずから土佐に移り,のち阿波に移って同国で没した。土佐院・阿波院ともよばれた。

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旺文社日本史事典 三訂版 「土御門天皇」の解説

土御門天皇
つちみかどてんのう

1195〜1231
鎌倉初期の天皇(在位1198〜1210)
後鳥羽天皇の第1皇子。1210年後鳥羽上皇の命により,弟順徳天皇に譲位。上皇と意見を異にし,討幕計画に積極的に参加しなかったので承久の乱(1221)後も幕府から罰せられなかったが,みずから望んで土佐(高知県)に流され,のち阿波(徳島県)に移りその地で没した。

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367日誕生日大事典 「土御門天皇」の解説

土御門天皇 (つちみかどてんのう)

生年月日:1195年11月1日
鎌倉時代前期の第83代の天皇
1231年没

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世界大百科事典(旧版)内の土御門天皇の言及

【後鳥羽天皇】より

…源通親ら法皇の旧側近はこれと対立し,96年通親は策謀によって兼実を失脚させ政権を握った。98年後鳥羽天皇は通親の外孫にあたる皇子為仁(土御門天皇)に譲位,上皇として院政をはじめ,1221年(承久3)まで,土御門・順徳・仲恭天皇の3代にわたり院政を行った。院政開始後も通親が実権を持っていたが,1202年(建仁2)通親が没して後は後鳥羽上皇の独裁となった。…

【水無瀬神宮】より

…大阪府三島郡島本町広瀬に鎮座。後鳥羽天皇,土御門天皇,順徳天皇をまつる。社地は後鳥羽上皇の離宮水無瀬殿の跡。…

※「土御門天皇」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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