壱岐島(読み)イキシマ

デジタル大辞泉 「壱岐島」の意味・読み・例文・類語

いき‐しま【壱岐島】

《「いきのしま」とも》⇒壱岐

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日本歴史地名大系 「壱岐島」の解説

壱岐島
いきしま

対馬海峡・壱岐水道(壱岐海峡)・玄界灘に囲まれる。面積一三四・八〇三平方キロで、名烏ながらす島・若宮わかみや島・たつノ島・手長たなが島など二六の属島がある。福岡県博多港から北西七六キロ、佐賀県呼子よぶこ港から二六キロにある。地勢は台地状が主体で、最も高いたけノ辻(二一二・九メートル)のほか、中央部に高尾たかお(一四二メートル)津の上つのかみ(一三三・七メートル)角上つのえ(一一四・三メートル)、北部にかみ(一二二メートル)などがあるにすぎない。これらを水源とする南部の幡鉾はたほこ川、北部の谷江たにえ川など主要な河川は東流する。海岸部は海食崖が発達するが、南東部は筒城つつき浜など砂浜が形成される。もと湾・半城はんぜい湾・内海うちめ湾などの入江では真珠養殖がみられる。古代、一島で壱岐島または壱岐国として令制が布かれ、壱岐郡石田いしだ郡の二郡が置かれ、明治二九年(一八九六)両郡の合併により新たに壱岐郡となる。現在は壱岐郡としてごううら町・勝本かつもと町・芦辺あしべ町・石田町の四ヵ町がある。壱岐対馬国定公園にはベラ科・スズメダイ科の魚類、イサキマダイ、キスや珊瑚類がみられる壱岐つましま海中公園(石田町)、ベラ科やスズメダイ科などの魚類、アワサンゴなどの珊瑚類のほか、アラメカジメなどの大型褐藻類からなる海中林の発達で知られる壱岐手長島海中公園(勝本町)、ベラ科の熱帯魚やハマサンゴなどの珊瑚類、アラメ、カジメなどが生息する壱岐辰ノ島海中公園(勝本町)が含まれる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「壱岐島」の意味・わかりやすい解説

壱岐島 (いきのしま)

旧国名。現在の玄界灘上の島で,全島が長崎県壱岐市。

対馬島とともに古くから日本と朝鮮間の海上交通の要衝として重視され,その名はすでに《魏志倭人伝》に〈一大(支)国〉として見え,対馬島よりも田地は広く,人口は3倍であったという。大化前代は壱岐県主に支配され,律令制下では石田・壱岐2郡を管して国に準ずる取扱いを受け,のちには名実ともに壱岐国と称された。《延喜式》では西海道に属する下国とされた。国府ははじめ壱岐郡に置かれたが,のちには石田郡に移され,壱岐直の氏寺をあてたとされる島分寺は壱岐郡に所在した。白村江敗戦後の664年(天智3)には対馬島や筑紫国などとともに〈防(さきもり)と烽(とぶひ)〉が配置されて国防上の要地となり,その後も対新羅関係が緊張するごとに弩師(おおゆみのし)の新設や防人(さきもり)の配置があり,その防備が強化された。997年(長徳3)には〈南蛮人〉の来襲を受け,1019年(寛仁3)の刀伊の入寇では島守藤原理忠の戦死をはじめとして大きな被害を受けた。
執筆者:

壱岐の荘園としては,筒城荘,物部荘,石田保,志原保が知られている。筒城荘は宇佐弥勒寺領であった。物部荘は1383年(弘和3・永徳3)今川仲秋が,その3分の1を兵粮料所として松浦(まつら)党の山代豊前守に預けている。石田保のうち薬師丸の地頭職は,鎌倉後期には尼長阿から草野氏が伝領し,南北朝期になると宗像大宮司が有していたが,浜田氏に下地を押領されている。のち宗像氏から博多妙楽寺に寄進された。志原保は主殿寮領で,官務壬生家に伝領された。1351年(正平6・観応2)に預所が石丸氏から筒野氏にかわっている。鎌倉時代の守護としては少弐氏(武藤氏)しか知られていない。当時の在地領主としては石田氏,草野氏,浜田氏,吉永氏などがいた。1274年(文永11)の文永の役では,モンゴル軍の襲撃をうけ,守護代平景隆以下100余騎が戦死し,島は大きな被害をうけた。81年(弘安4)の弘安の役でもモンゴル軍は壱岐を襲い,東路軍と江南軍の合流地としたため,日本軍との間で激戦が展開された。肥前鷹島でモンゴル軍が壊滅的打撃をうけた後,壱岐でも掃蕩戦が展開され,多くの鎮西御家人が壱岐に渡って戦った。

 のち島内には肥前の松浦党諸士がしだいに割拠するようになる。1471年朝鮮で成立した《海東諸国紀》には,当時の壱岐が〈7の郷,620町6段の水田,13の人居陸里,14の海浦がある。島の東西は半日ほど,南北は1日ほどの行程である。志佐,佐志,呼子(よぶこ),鴨打(かもち),塩津留(しおづる)などの松浦党諸士が分治している。市が3ヵ所あり,水田と旱田が同じくらいある。土宜,五穀,収税は対馬と同様である〉と記されている。7郷のうち加愁郷(加須)は佐志氏の代官,唯多只郷(湯岳)は志佐氏の代官真弓武,古仇音夫郷(国分)は塩津留経,小于郷(?)は呼子氏の代官牧山実,無山都郷(武生水)は鴨打氏の代官,時日羅郷(志原)と郎可五豆郷(?)は呼子氏および鴨打氏の代官がそれぞれ支配していた。これら松浦党諸士は壱岐を拠点として朝鮮へもしきりに通交している。1472年(文明4)に上松浦の波多泰が武力によって壱岐を支配下に置き,亀丘城を修築し,城代を置いて支配の拠点とした。しかし,1555年(弘治1)に立石,牧山,下条などの壱岐六人衆が波多氏に対して反乱を起こし,亀丘城代波多隆は敗死した。翌56年にも六人衆による反乱が起こり,城代波多重が敗死した。こうして波多氏の支配は弱体化し,かわって日高氏の勢力が台頭した。しかし日高氏も戦国大名化することができず,71年(元亀2)日高氏,立石氏などが平戸の松浦隆信の家臣となったことによって,壱岐は平戸松浦氏の支配下に入った。その後松浦氏は対馬宗氏と対立関係におちいり,84年(天正12)には壱岐の兵船が対馬三根郡を攻撃し,86年2月にも対馬仁位郡を攻撃したが,いずれも撃退された。86年3月には対馬の兵船が壱岐を攻撃したが,これを撃退した。こうした壱岐・対馬間の対立関係は,87年の豊臣秀吉の九州下向によって解消した。
執筆者:

1587年に秀吉は壱岐国を平戸松浦氏にあてがい,翌年勝本城が築造された。文禄・慶長の役には朝鮮への兵員や物資の中継地となり大きな影響を受けた。一方,検地などによって平戸松浦氏の支配が強まった。17世紀中ごろに壱岐国城代が置かれた。1652年(承応1)から領内総検地が行われ,56年(明暦2)には検地に基づいて田畑清帳が作成されて耕地の確定が行われ,以後の新開地は新清帳に記入するようになった。17世紀初めごろから瀬戸,芦辺,印通寺(いんどうじ)などの近海で捕鯨が行われて納屋場が設けられたが,61年(寛文1)に恵美須の捕鯨は松屋家,深沢家など8家の共同操業になった。80年代に網取法が考案され漁法が改良された。18世紀初期には勝本の土肥家,郷浦に許斐家,瀬戸に布屋家,芦辺に篠崎家が鯨組を統轄し,生月(いきつき)の益富家などと共同経営を行い,恵美須,田ノ浦の捕業場は1739年(元文4)に土肥家と益富家が隔年で操業するようになった。平戸藩は鯨運上銀を徴収したが92年(寛政4)に土肥家と益富家に御用金1万両の上納を命じたように,捕鯨は平戸藩の重要財源でもあった。土地制度の特徴は田畑の地割制がとられたことで,1662年から実施され,元禄・享保期に整備されたが,1798年に田畑地割のおりに郡方役人のほかに割奉行と名付けた者が数人で勝手に取り扱い,酒食の費用を田畑割で徴収し弊害が出ているとして,代官・庄屋・小役人の立会いで行うことを指示している。また田畑割が〈数十年滞候場所も有之〉(田畑割御定法)と1847年(弘化4)に指摘される事態にもなった。ところで,壱岐は朝鮮通信使の往来の際の滞在地であり,1763年(宝暦13)のおりには一行480余人が11月3日勝本に着港し,12月3日まで滞在したように日本と朝鮮との交流上で重要な役割を果たした。1805年(文化2)に伊能忠敬が島内を実測し,61年(文久1)には外国船が入港した。71年(明治4)11月に長崎県の一部となった。
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百科事典マイペディア 「壱岐島」の意味・わかりやすい解説

壱岐島【いきのしま】

旧国名。壱州とも。西海道に属し,現在長崎県壱岐島。《延喜式》に下国,2郡。朝鮮航路の要地として古くから重視される。《魏志倭人伝》に〈一支(一大)国〉とみえ,のち防人(さきもり)を置く。中世以後は主として松浦(まつら)氏が領有し,江戸時代は平戸藩が支配。
→関連項目壱岐九州地方長崎[県]

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