大井川(静岡県の川)(読み)おおいがわ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「大井川(静岡県の川)」の意味・わかりやすい解説

大井川(静岡県の川)
おおいがわ

静岡県中央部を南流する川。一級河川赤石(あかいし)山脈北部の間ノ岳(あいのたけ)(3190メートル)に源流をもち、駿河湾(するがわん)に注ぐ河川で、延長168キロメートル、流域面積1280平方キロメートル。島田市から下流には扇状地を形成するが、流域の大部分は山間地を流れ、峡谷と曲流に特色をもつ。上流部の二軒小屋から伝付峠(でんつくとうげ)を越えて富士川水系へ、三伏峠(さんぷくとうげ)を経て天竜川水系への峠路がある。上流域の旧井川村は接岨峡(せっそきょう)で閉じられたため大日峠を越えて静岡市と結び付き、現在は静岡市に編入されている。支流の寸又川(すまたがわ)も穿入蛇行(せんにゅうだこう)の峡谷をもち、上流のシラビソトウヒモミなどの原生林は原生自然環境保全地域に指定されている。年降水量も上流部は3000ミリメートルを超えるため森林資源に恵まれ、その開発のため東俣(ひがしまた)線林道が建設されている。また、水資源も豊富で井川ダム、畑薙ダム(はたなぎだむ)がつくられ電源地帯となり、大井川水系の15発電所の最大出力は約68万キロワットとなった。また、接岨峡近くに建設が進められていた長島ダムは、調査開始から30年を経た2002年(平成14)に竣工(しゅんこう)した。開発に伴う鉄道の敷設もみられ、1931年(昭和6)には千頭(せんず)まで大井川鉄道が開設され、1954年(昭和29)にはさらに井川まで河川に沿って軌道が延びた。かつての運材は筏流し(いかだながし)であり、谷口の島田市は集材や林産加工を中心に発展した。中流川根(かわね)地方は曲流と河岸段丘の地形に特色をもち、鵜山七曲り(うやまななまがり)はその典型である。下流の扇状地は築堤前には洪水と氾濫(はんらん)が繰り返され、水害に対処した舟型屋敷や千貫(せんがん)堤などの堤防が旧河道とともに残り、水神や川除(かわよけ)地蔵の信仰もみられる。東海道の川越えは徒渉であり、島田宿の川会所(かわかいしょ)(島田宿大井川川越遺跡)は国指定史跡として整備されている。

[北川光雄]

大井川の渡し

大井川を渡る東西交通は、古くから徒渉のための渡船や橋の発達はみられず、江戸初期まで「自分越(ご)し」が原則であった。とくに江戸時代には「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」といわれ、東海道屈指の荒れ川のほかに、関所川でもある難所であった。幕府は防衛政策上、架橋も渡船も禁じた。1696年(元禄9)島田代官野田三郎左衛門のとき、徒渉制度が確立し、川庄屋(かわしょうや)、川会所が設けられた。川越(かわごし)は島田、金谷宿の両岸に配された川越人足によって行われ、肩車と輦台(れんだい)越し(渡し)があった。賃金は水深によって決まり、常水は2尺5寸(約75センチメートル)で、それから1尺(約30センチメートル)までの増水には馬だけを歩ませ、2尺(約60センチメートル)増となれば人を止め、2尺以上増水して4尺5寸(135センチメートル)の水かさになれば川留(かわどめ)となった。しかし、宿助郷や地域村民の不便は大きく、上流部のたらい舟による往復は黙認されていたといわれる。

[北川光雄]

『『大井川――その歴史と開発』(1961・中部電力)』『野本寛一著『大井川――その風土と文化』(1979・静岡新聞社)』


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