大和郡山市(読み)ヤマトコオリヤマシ

デジタル大辞泉 「大和郡山市」の意味・読み・例文・類語

やまとこおりやま‐し〔やまとこほりやま‐〕【大和郡山市】

大和郡山

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日本歴史地名大系 「大和郡山市」の解説

大和郡山市
やまとこおりやまし

面積:四二・七四平方キロ

奈良盆地の北部にあり、北から東は奈良市に、南東は天理市に、西は生駒市と生駒郡斑鳩いかるが町・安堵あんど村、南は磯城しき郡川西町にそれぞれ接している。

西ノ京丘陵の南端に構築された郡山城を中心として発達した。西部は矢田やた丘陵で住宅地の発展があり、標高三一五・四メートルの松尾まつお山が生駒郡境にある。市域は南流する佐保川・富雄とみお川の流域にあたる。

〔原始〕

市の西北部の西ノ京・矢田両丘陵とその東南に開けた盆地部に大別される。当然ながら西ノ京・矢田などの低丘陵上には旧石器時代の遺跡の存在を予測させるが、現在のところ確認されていない。縄文時代になると後期の土器片が、横田よこた集落の北方にある下池から採集されている。弥生時代には盆地部の開発が進められた。昭和四八年(一九七三)美濃庄みのしよう町の北から前期の甕・壺・壺用蓋形土器などが発見され、大江おおえ町・発志院はつしいん町からも土器類が出土している。西ノ京丘陵地域でも慈光じこう院裏山から石鏃類や中期・後期の土器類が、西田中にしたなか町付近でもサヌカイトの剥片とともに後期の土器類が出土している。

古墳時代の遺跡は弥生時代から引続いた発志院遺跡がある。古墳時代前―後期の遺跡で溝や土坑、建物遺構が確認されている。古墳は矢田丘陵額田部ぬかたべの台地の二ヵ所を中心に分布する。小泉大塚こいずみおおつか古墳は矢田丘陵最大・最古の前方後円墳である。付近には中期前半と考えられる六道山ろくどうやま古墳その他の後期古墳が存在した。矢田町周辺では後期の円墳割塚わりづか古墳があり、丘陵の東裾、新木にき町には新木山にきやま古墳が存在する。額田部台地上には中期の円墳、松山まつやま古墳や後期の前方後円墳、額田部狐塚ぬかたべきつねづか古墳がある。また額安がくあん寺の西方に分布する九基の古墳は墓地や火葬場に利用されており、付近には鎌倉かまくら山・堂塚どうづか山などとよばれている小規模な古墳も点在する。

〔古代〕

古代大和には葛木かつらぎ高市たけち志貴しき曾布そふ十市とおち山辺やまのべの六御県があった(延喜式)。この曾布県は現奈良県の北部に位置し、大化の立郡により添上そふのかみ・添下両郡に分れた。現大和郡山市の地籍は旧添下郡を中心に旧添上郡の西部、旧平群へぐり郡東部に相当する。「日本書紀」神武紀には「層富県」、「姓氏録」には「添県主」の名がみえる。

地名「郡山」の初見は応保二年(一一六二)五月一日の官宣旨案(東南院文書)に「本庄并寺領郡山等」の地名がみえ、西大寺田園目録(西大寺文書)に「添下郡右京々南一条三里五六々切内一段コヲリ山ニアリ永仁四年三月日」とあり、このコヲリ山の条里は現城内じようない町に該当する。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「大和郡山市」の意味・わかりやすい解説

大和郡山〔市〕
やまとこおりやま

奈良県北西部,奈良盆地北西部にある市。 1954年市制。 57年片桐町を編入。中心市街地の郡山は,古くは東大寺の所領で,天正 13 (1585) 年豊臣秀吉の弟秀長が築城し,江戸時代に柳沢氏 15万石の城下町として発展。現在でも城下町の形態をとどめている。日本一の金魚の養殖地として知られ,海外にも輸出される。筆,赤膚焼を特産し,紡績,メリヤスなどの繊維工業も盛ん。農村部では野菜,果樹を栽培。南部には昭和工業団地がある。慈光院 (庭園は名勝・史跡) ,額田部窯跡 (史跡) があり,稗田は環濠集落として有名。西部の矢田丘陵には金剛山寺 (矢田寺) ,松尾寺などがあり,矢田県立自然公園に属する。 JR関西本線,近畿日本鉄道橿原線,国道 24号線,25号線が通り,南部に西名阪自動車道の郡山インターチェンジがある。面積 42.69km2。人口 8万3285(2020)。

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