知恵蔵 「大塚家具」の解説
大塚家具
大塚勝久は桐だんす職人の子として生まれ、父の経営するたんす店から独立して同社を設立した。同社社長の久美子は長女、専務の勝之は長男である。それまでの家具店が、嫁入り道具中心の伝統的な販売方法であったのに対して、大塚家具は積極的な広告宣伝や店舗展開により業容を拡大した。93年には全店舗で会員制を導入し、店員が顧客に付き添って一括購入を促すという販売方法で成長。業界最大手4社の中で、ニトリや良品計画にははるかに及ばないが、島忠をしのぐ3位の売り上げを誇る。生活スタイルの欧米化などに伴い、良質な欧州家具なども取りそろえて、高級感を演出することで「結婚後のまとめ買い」需要に応えた。
2000年代に入るとこうした需要が陰りを見せると共に、ニトリやイケアなどの廉価品を扱う大型販売店が台頭し始め同社の業績は低迷した。更に07年にはインサイダー取引事件なども起こした。それらの責任を取る形で09年に勝久が社長から退き、富士銀行(現みずほ銀行)出身でコンサルティング会社を経営していた久美子が代表取締役に就任した。久美子社長は「入りやすく、見やすい、気楽に入れる店作り」や、ホテルなどの法人向け販売に力を入れて転換を図った。しかし、勝久会長はこれをよしとせず、久美子は14年に社長を解任された。社長兼任に返り咲いた勝久会長は、会員制の復活や宣伝広告など「10年前に戻れ」をスローガンに掲げたものの経営は赤字に転落。同社は創業家一族の持ち株が3割を超えるといわれる同族会社ながら、株式はジャスダックで店頭公開されており、内外の機関投資家なども相当数の株式を所有している。こうしたことから、15年1月には久美子が再び社長に就任した。しかし、親子の相克はやまず、互いにガバナンスを巡って対立を深めていた。こうした中で開かれた3月27日の株主総会では久美子社長の会社提案が可決され、「お家騒動」は終わりを迎えた(15年4月時点)。なお、オロナミンCで知られる大塚製薬のグループ会社に「大塚家具製造販売株式会社」があるが、同社とは無関係である。
(金谷俊秀 ライター/2015年)
出典 (株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」知恵蔵について 情報