デジタル大辞泉 「大山」の意味・読み・例文・類語
おお‐やま【大山】[地名]
おお‐やま〔おほ‐〕【大山】
2 思いきった賭けや勝負。また、山師の大計画。「
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
県西部、中国山地北側にある死火山。群峰中の最高峰
大山の呼称は火山活動による地形・地質などからとらえた場合、県西部から中部にわたる広い範囲をさし、現米子市、日野郡
大山は大山系火山群を代表する死火山で、有史以来活動の記録はなく、現在は解体期に入っているとされる。
現在丹沢大山国定公園に含まれ、山麓の伊勢原市大山から徒歩またはケーブルカーで中腹まで登って頂上へ行くコースや、同市の
「延喜式」神名帳には「
大山町南東部、大山北麓にある。北部に
明治三年雲浄筆の大山寺領総図(理観院蔵)などにより近世末までの境内の主要堂社・施設をみると、大山道のうち
中世、
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
鳥取県西部の火山。標高1729mの剣ヶ峰(けんがみね)は中国地方の最高峰(主峰弥山(みせん)は1709m)。日本海に近くそびえ,山容はきわめて雄大で伯耆(ほうき)富士の名がある。第四紀更新世中期に始まる新旧2期の火山活動によって形成された複式火山。旧期大山の活動は大量の角セン石安山岩質凝灰角レキ岩の噴出に始まり,輝石安山岩質溶岩の流出が続いて,直径三十数kmの大型の成層火山を形成した。その時できたすそ野は長い年月の間に放射状谷に深く刻まれながらも,北および東斜面に広く残っている。旧期大山の山体上部はその後陥没によってカルデラとなったが,現在の船上山,矢筈ヶ山(やはずがせん)(1358m),甲ヶ山(かぷとがせん)(1338m)はカルデラの外輪山である。新期大山の主体はカルデラ内に噴出した弥山で,黒雲母角セン石安山岩からなる直径約5kmの巨大な溶岩円頂丘である。同じころ北方では豪円(ごうえん)山(891m),鍔抜(つばぬき)山(704m),南東に烏ヶ山(からすがせん)(1448m),擬宝珠(ぎぼし)山(1110m)などの寄生火山群が出現した。弥山の山体はその後の激しい爆裂によって著しく破壊され,山稜は南北両側からけわしい断崖によって狭められ通過困難である。爆裂の際に大量の火砕流(名和軽石層)を噴出し,大山北斜面の放射状谷を埋めた。その時期は約3万年前である。さらに約2万年前にも火砕流(弥山熱雲と呼ぶ)が噴出し,弥山周辺に桝水原(ますみずばら),鏡ヶ成(かがみがなる)などの広い緩斜面を形成した。しかし,有史以来の火山活動の記録はない。
大山の標高は富士山の半分にもみたないが,日本海に近く,直接北西季節風の影響を受けるため,気候の垂直的変化が大きく,生物相も多彩である。山麓一帯は栗,ナラなどの落葉樹や松,杉の針葉樹林で,標高660mの大山寺付近からブナ,ミズナラなどの落葉広葉樹林帯となる。ブナは大山を代表する樹木で,初夏は緑,秋はあざやかな黄色で山を彩る。特に標高1000~1370mの山腹はブナの純林帯である。それより急に視界が開け,1600mまでがノリウツギ,ダイセンヤナギ,ツガザクラなどの灌木林,その上は山頂にかけてダイセンキャラボク(特天)が群生する。動物相では,234種の野鳥が生息するといわれ,日本の野鳥500種の半数に近い。最も多いのはシジュウカラ,ヒカラなどで,ついでアオゲラ,セキレイの類が多い。
大山は古来山岳信仰の対象とされ,中腹に大神山(おおかみやま)神社と天台宗大山寺がある。江戸期,大山寺は幕府より3000石を与えられ,14坊42塔頭(たつちゆう)があった。明治の廃仏毀釈によりそれらの多くを失ったが,阿弥陀堂,本堂,それに四つの宿坊などが盛時のなごりをとどめている。1936年に国立公園に指定され,現在では大山寺の門前町を基地とする観光,登山,スキーが盛んである。65年には中腹を半周する大山環状道路が建設された(82年無料開放)。
執筆者:藤原 健蔵
大山は,《出雲国風土記》意宇(おう)郡の条に〈火神岳〉とあり,国引神話では〈杭(かし)〉に擬された。平安時代には南光院,西明院,中門院の3集団からなる大山寺が成立し,以降大山信仰の中核に位置してきた。大山信仰史のなかでは農耕の守護神としての信仰と地蔵信仰が卓越していること,中世以降,地蔵菩薩およびその垂迹(すいじやく)である智明菩薩(大智明神,大智明権現,地蔵智明権現ともいう)のミサキ神・眷属(けんぞく)神としての下山明神が,狐神信仰・御霊(ごりよう)信仰と習合しながら,大山信仰の普及に大きな役割を果たしてきた点が特筆される。農耕神とする信仰では,とりわけ牛馬の守護神としての信仰があつく,元禄~享保(1688-1736)ころに〈大山博労(ばくろう)座〉と称される牛馬市が成立するのも,この信仰を背景にしている。以来,旧暦4月24,25日の祭りには,〈奥参り〉と称して中国一円から多数の参詣者が訪れていた。また中国地方に分布し,牛馬の供養と作物の豊穣を祈願する〈大仙供養田植〉と称する大田植の習俗も,田の神を迎える神事に大山信仰が加わって特異な展開を遂げたものである。なお岡山県一帯では,大山は死霊のおもむく山としても信仰されている。
執筆者:宮本 袈裟雄
神奈川県中央部にある山。標高1252m。丹沢山地の南東端にあたり,南・東両斜面は断層崖をなす。ほとんど全山が丹沢大山国定公園に含まれる。山頂に石尊様と通称される式内社阿夫利(あふり)神社の奥宮,中腹に下社がまつられ,山麓の大山川沿いに講中登拝の宿坊街にはじまる門前町が発達する。古来信仰登山で知られ,箱根,高尾,御岳(みたけ)(武州御岳),三峰(みつみね)の諸山とともに関東西部修験道の中心地であった。江戸時代は大山不動を中心として,江戸をはじめ,関東,東海一円に信仰が広まり,登拝講社が発達した。大山は夏に南東季節風によって大量の降雨がもたらされるので,干ばつ時の雨乞いの神とされ,雨降(あふり)山とも呼ばれる。また農蚕漁猟をはじめ広く産業の神とされ,江戸時代には土建・料飲の諸業や火消(消防)団体など江戸市民層へも信仰が拡大され大山街道が諸方から開かれた。明治初年神仏分離が行われたが,大山不動は真言宗寺院(大山寺)としてほどなく復活した。大山信仰は今も盛大であり,春山,夏山の諸行事に秋の紅葉祭も加えて,宗教・観光の集まりが多い。門前が旧観を保持していることは全国でもまれな例で,山頂からの展望もよいため京浜向けの観光地ともなっている。
執筆者:浅香 幸雄 阿夫利神社の縁起によると僧良弁(ろうべん)によって開かれ,13世紀に鎌倉の大楽寺住僧願行により中興されたと伝え,大山寺の鉄造不動明王像(重要文化財)は願行の発願によるという。大山は1605年(慶長10)山内粛清がなされ,無学不律の僧を追放し,清僧中心の山内運営が確立するとともに,それまで山中に散在していた修験を山中の前不動より下に集居させて御師(おし)集落が形成された。《新編相模風土記稿》によると,江戸後期の大山寺の組織は,別当八大坊の下に大勧進(4坊),供僧(11),脇坊(6),修験(3),神家(6,御師兼帯),御師(166)の計197坊によって構成されていた。信仰の普及には主として御師の布教に負うところが大きく,彼らは各地の祈願檀家に対して12月~3月にかけて配札に回る(檀回り)ほか,講員の大山参詣に際しては宿(坊入り)をつとめてきた。
執筆者:宮本 袈裟雄
大山詣は江戸では,宝暦(1751-64)ころから盛んになった。6月28日が初山(はつやま)で7月17日まで登拝が許されたが,特に7月14日から17日の間を盆山といい,各町内が講をつくって参詣した。参詣者はまず両国橋の河岸の垢離(こり)場で垢離を取った。裸で飛び込み,手にした緡(さし)(藁しべ)を1本1本流して身を清め,大山のふもとの滝ではふたたび垢離を取った。納太刀(おさめだち)といって,木太刀を奉納し,代りに他人が奉納したのを持ち帰り,御守とした。また,参詣後は箱根や江の島,鎌倉で遊ぶ者や精進落しと称して品川の遊廓で一夜を過ごす者もいた。またハツヤマといって,若衆仲間に加入した者が初めて大山に登る習俗もあったが,これがすむと一人前と認められた。
執筆者:蛸島 直
鳥取県西部,西伯郡の町。2005年3月旧大山町,中山(なかやま)町,名和(なわ)町が合体して成立した。人口1万7491(2010)。
大山町南西部の旧町で,日本海に臨む。西伯郡所属。人口6730(2000)。町域に中国山地の主峰大山と寄生火山の孝霊山,鍔抜(つばぬき)山があり,北部には阿弥陀川の扇状地が広がる。県内でも最も早く開発の進んだ地域で,縄文~弥生時代の遺跡が多く,孝霊山麓には宮内,平などの古墳群があり,低地には条里制の遺構が残る。大山は平安時代以来山岳仏教の聖地で,中腹にある大山集落は,近世には3000石の寺領を有した天台宗大山寺の門前町として栄え,現在は大山登山と観光の基地となっている。また牛馬信仰の中心でもあり,日本四大牛馬市に数えられる牛馬市が開かれ,明治中期の最盛期には年間に牛馬合わせて2万数千頭が取引された。農業が基幹産業で,北部低地では米作,山麓では乳牛・肉牛の飼育,タバコ・野菜の栽培が行われる。第2次大戦後,香取などの開拓団により高位山麓面が開拓された。海岸線に沿って国道9号線,JR山陰本線が通る。大山隠岐国立公園に属し,キャンプ地,スキー場が多い。
大山町東部の旧町。西伯郡所属。人口5233(2000)。大山の北麓に位置し,北は日本海に面する。町域の大部分は火砕流堆積物や火山灰で覆われる。甲(きのえ)川,下市川などの河川が北流し,羽田井以南の甲川沿岸には河岸段丘がみられる。下市は近世には伯耆街道の宿場で,現在も国道9号線とJR山陰本線が通り,町の経済の中心地となっている。農牧業が主産業で,米作,二十世紀梨の栽培,大山のすそ野での酪農が行われる。沿岸部では漁業が営まれ,ウニ,ナマコが特産。下市川河口はハマナスの自生南限地である。
大山町北部の旧町。西伯郡所属。人口7598(2000)。大山の北麓に位置し,日本海に面するくさび形の町で,名和火砕流とよばれる大山火山の噴出物でおおわれる。中心集落の御来屋(みくりや)は隠岐を脱出した後醍醐天皇が上陸した地と伝えられ,建武新政に功があった名和長年ゆかりの地である。近世は山陰道の宿場町で,鳥取藩の藩倉が置かれた。農業が主産業で,米作のほか二十世紀梨,タバコの栽培,養鶏,酪農などが行われる。沿岸漁業も行われ,ウニ,テングサが特産。名和長年をまつる名和神社があり,桜の名所として知られる。JR山陰本線,国道9号線が通る。
執筆者:上田 雅子
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 日外アソシエーツ「事典 日本の地域遺産」事典 日本の地域遺産について 情報
出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
…人口9万8123(1995)。関東の農民の信仰を集めた大山(おおやま)参詣の宿場として早くから知られた。江戸から発した大山街道(矢倉沢街道)はここから分かれて坂路となり,大山山頂(1252m)に達する。…
…振付藤間大助。相模の雨降(あふり)山大山(おおやま)石尊大権現(阿夫利神社)へ参詣(さんけい)した江戸の勇みの男の帰途を描いたもので,木太刀や梵天(ぼんてん),わら細工のらっぱ等の小道具を使う。威勢のよい江戸の職人気質を見せ,新内節の《蘭蝶(らんちよう)》をはめこんだクドキ(口説)がある。…
…この不入の禁を解いて,その年に初めて登山を許すのが山開きで,近世にはこの日に信者や講中の人々が山に登って御来光を仰ぐ行事が盛んになった。江戸では,大山(おおやま)に初山と称して6月に登る慣行があったし,富士山の山開きの旧6月1日には,町の富士塚に参詣・登拝する習俗があった。また,修験の山である月山や大峰山では,山開きに堂を開く戸開(とあけ)式が行われ,ともに旧4月8日であった。…
…今日伝わる良弁僧正像は,1019年(寛仁3)11月16日に有慶が良弁忌を創行するのに際して作られたといわれ,持物の木造如意は奈良時代の製作にかかり,生前所持のものと伝えている。東大寺【堀池 春峰】
[伝承]
良弁は相州大山(おおやま)を開いたといわれ,その説話は大山縁起として江戸期の大山信仰とともに流布し,また《東海道名所図会》などによって広く世に知られるようになったとみられる。良弁は幼時に金色の鷲にさらわれ,両親は山々を探索したが行方不明となった。…
…このような状況を打開するため,1979年以来,1村1品運動が行政主導型で推進され,現在,地域の農水産物に注目して新しい産業を起こす〈村おこし〉が盛んになっている。この運動の先導的な役割を果たした日田郡大山町は,梅,栗の生産およびその農産加工業の育成を計り,成功した例として知られる。
[工業近代化への歩み]
大分県は近代化の過程において,藩政時代の小藩分立の歴史が大きな障害となって,大藩に起源をもつ鹿児島本線沿いの諸県に比べて,中心都市の発達,近代工業の育成がかなり遅れた。…
…鳥取県西伯郡大山町にある天台宗の寺。山号は角磐山。…
…山地は杉,ヒノキなどの林業地として利用され,扇ノ山,氷ノ山,三国山などにはブナの自然林が残されている。 県西部の大山(だいせん)は伯耆富士とも呼ばれ,中国地方随一の標高を誇る二重式火山で,直径30kmを超す雄大なすそ野を有している。山頂部は顕著な浸食作用によってやせ尾根となり,西日本には珍しいアルプス的な地形を示している。…
※「大山」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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