大岡忠相(読み)おおおかただすけ

精選版 日本国語大辞典 「大岡忠相」の意味・読み・例文・類語

おおおか‐ただすけ【大岡忠相】

江戸中期の幕臣。越前守。八代将軍徳川吉宗に登用され名奉行といわれたが、いわゆる「大岡裁き」は、和漢の裁判説話によって作為されたものが多い。町奉行ののち奏者番寺社奉行、三河一万石の大名となる。延宝五~宝暦元年(一六七七‐一七五一

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デジタル大辞泉 「大岡忠相」の意味・読み・例文・類語

おおおか‐ただすけ〔おほをか‐〕【大岡忠相】

[1677~1752]江戸中期の幕臣。8代将軍徳川吉宗に認められ、江戸町奉行となる。公正な判断を下す名奉行として有名。越前守えちぜんのかみと称した。のち寺社奉行奏者番三河1万石の大名。→大岡裁き大岡政談

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改訂新版 世界大百科事典 「大岡忠相」の意味・わかりやすい解説

大岡忠相 (おおおかただすけ)
生没年:1677-1751(延宝5-宝暦1)

江戸中期の幕臣,政治家。幼名は求馬,のち市十郎,忠右衛門。先祖は徳川氏三河以来の譜代。忠高の第4子。1686年(貞享3)同姓の忠真の養子となる。93年(元禄6)実兄が八丈島に流罪,96年一族の忠英(書院番)が番頭を殺害してみずからも死ぬという事件が起き,彼の一族とともに連座するという不幸にあうが,以降は順調であった。すなわち1700年に養父の遺跡1920石を継ぎ,02年書院番,04年(宝永1)徒頭,07年使番,08年目付を経て12年(正徳2)山田奉行となり,従五位下能登守となる。16年(享保1)普請奉行に転じ,17年2月3日町奉行に昇進,越前守と改める。22年関東地方御用掛を命じられ,45年(延享2)までこの職を兼務する。1736年(元文1)8月12日寺社奉行に栄進,48年(寛延1)閏10月1日奏者番を兼ねる。このとき1725年の2000石,36年の2000石との2度の加増に,さらに4080石を加えて都合1万石の大名となり,三河国額田郡西大平(現,愛知県岡崎市)に陣屋をおく。51年(宝暦1)11月2日病のため寺社奉行,奏者番両職の辞任を申し出たが,寺社奉行のみ許された。同年12月19日没。法名は松運院興誉仁山崇義大居士。同家本貫の地である相模国高座郡堤村(現,神奈川県茅ヶ崎市堤)の浄見寺に葬られた。

 彼は1717年41歳で町奉行となり,以降36年60歳までの約20年間この職にあり,その後75歳で死亡するまでの約16年間は寺社奉行という,いわば幕府にあって実質上もっとも重要なポストを占め,それら両ポストに付属する役務としての評定所一座の座を都合35年占めている。つまり徳川吉宗政権の全期間のみならず,つぎの家重政権下にあっても死ぬまでその地位を保っている。このことは彼が並々ならぬ有能かつ誠実な実務官僚であったことを示しており,その業績も多大である。そのなかでもっとも充実した40歳から60歳という年齢を過ごした町奉行時代の業績は抜群である。

 それを要約すると江戸市民生活安定のための努力ということになろう。彼は職につくや両替商ら当時の日本の金融界を握っていた巨大商業資本の猛烈な抵抗をうけながら,安価で豊富な商品の江戸流入をめざして努力した。元文の貨幣改鋳(元文金銀)も彼の発議により,彼みずからの指揮のもとで,この目的のために実施したものである。また彼は物価問題はまずなによりも流通問題であるとして,流通界を問屋-仲買-小売という各段階ごとに組織し(日本的流通組織の確立),江戸市民を火災から守るために,町火消〈いろは四十七組〉をつくり,火災時の避難用地としての空地造りとその管理に力をいれた。また板ぶきの屋根を瓦ぶきにするなど,その不燃化に力をいれた。そのほか江戸下層社会の貧窮者を救うために小石川養生所をつくった。彼は日本歴史でもまれにみる有能な実務官僚であったが,有名な〈大岡政談〉の話は実際の彼とはほとんど関係がなく,政治家とはかくあれかしという庶民の願望が託された架空譚である。
大岡政談物
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「大岡忠相」の意味・わかりやすい解説

大岡忠相
おおおかただすけ
(1677―1751)

江戸中期の幕府行政官。幼名求馬(もとめ)、のち市十郎、忠右衛門。旗本大岡忠高(2700石)の四男、同族忠真(ただざね)(1920石)の養子となる。1702年(元禄15)書院番士に任ぜられ、順調に昇進して12年(正徳2)山田奉行(ぶぎょう)となり、従(じゅ)五位下能登守(のとのかみ)に叙任。俗説ではここで当時の紀州藩主、後の8代将軍徳川吉宗(よしむね)に認められたというが疑わしい。16年(享保1)江戸に戻って普請(ふしん)奉行、翌17年町奉行に登用され、越前守(えちぜんのかみ)に改める。36年(元文1)旗本としてはまったく異例な寺社奉行に昇進、ついで奏者番(そうじゃばん)を兼ね、三河国西大平(にしおおひら)(愛知県岡崎市)に陣屋をもつ1万石の大名となる。

 忠相は名奉行として講談、落語、演劇などで有名であるが、その名裁判物語はほとんど彼の事績とは関係なく、中国やインドの故事、あるいは忠相以外の奉行の逸話などが彼の事績として集積、脚色されたものである。しかし忠相はその昇進の早さからみて、すでに吉宗以前からその才腕が認められていたと考えられる。享保(きょうほう)期(1716~36)の司法面の改革においても、審理の促進、公正化などに重要な役割を演じたばかりでなく、100万都市に膨張した江戸の行政官としても、防火、救貧、風俗問題や物価対策などと取り組み、さらに1722年から45年(延享2)まで地方(じかた)御用掛を兼務し、関東地方の幕領の経営や開発、治水工事などに尽力した。彼の性格は、逸話などでは機知に富み、人情味あふれた人物として描出されているが、その日記などを通じて推測するに、きわめてきちょうめんで勤勉かつ誠実な人物であったことが想像できる。また、その配下に国学者加藤枝直(えなお)、蘭学者(らんがくしゃ)青木昆陽(こんよう)、数学者野田文蔵、農政功者田中丘隅(きゅうぐ)、簑(みの)正高など多方面の識者を抱えていたことも注意を要する。宝暦(ほうれき)元年12月19日没。相模(さがみ)国高座(こうざ)郡堤村(神奈川県茅ヶ崎(ちがさき)市)浄見寺に葬られる。

[辻 達也]

『辻達也著『大岡越前守』(中公新書)』

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百科事典マイペディア 「大岡忠相」の意味・わかりやすい解説

大岡忠相【おおおかただすけ】

江戸中期の幕臣。伊勢の山田奉行在任中,徳川吉宗に認められ,1717年町奉行となり越前守を称す。1736年寺社奉行に転じるまで同職にあり(1722年からは関東地方御用掛を兼帯),元文の貨幣改鋳(元文金銀),物価安定のための流通界の組織化,町火消47組の創設,小石川養生所の開設など享保改革の市政面に活躍,名奉行とうたわれる。寺社奉行に転じた際,加増され大名に列す。→大岡政談大岡忠相日記
→関連項目青木昆陽天一坊遠山金四郎

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朝日日本歴史人物事典 「大岡忠相」の解説

大岡忠相

没年:宝暦1.12.19(1752.2.3)
生年:延宝5(1677)
江戸中期,享保改革期の幕臣,大名。幼名は求馬,のち市十郎,忠右衛門。一族は三河国(愛知県)八名郡の出で,徳川氏三河以来の譜代。旗本大岡忠高の4男で,貞享3(1686)年同族大岡忠真の養子となる。元禄13(1700)年養父の1920石を継ぎ,その後書院番,御徒頭,御使番,御目付を歴任。正徳2(1712)年に伊勢国度会郡に置かれた幕府遠国奉行のひとつである山田奉行となり従五位下能登守に叙せられる。享保1(1716)年普請奉行。翌2年将軍徳川吉宗により町奉行に登用され越前守と改め,町火消の「いろは組」の結成,屋根の瓦葺化,火除地の設定など防火体制の整備,私娼の取り締まりなど風紀の粛正,小石川養生所の設置など医療施設の整備,米価引き上げや物価引き下げなどの物価政策,金銀相場の安定化のための貨幣改鋳など,さまざまな施策を行った。 また,同7年,関東地方御用掛を兼務,延享2(1745)年まで関東地域の新田育成や治水事業を担当した。田中善古,蓑正高,川崎定孝ら地方巧者らを率い,本来の農政担当機関である勘定所と対立,競合しつつ武蔵野新田を中心に関東各地で農政を展開した。この影響で,享保改革末期に勘定所の体制はかなり強化される。さらにこの間元文1(1736)年寺社奉行,寛延1(1748)年奏者番を兼ね,たびたびの加増により計1万石の大名となり,三河国額田郡西大平(岡崎市)を居所とした。有名な「大岡政談」は,多くが中国や日本の説話を取り入れたもの。宝暦年間(1751~64)ごろから講釈師が世話講談として脚色し,急速に広まっていった。これは享保改革期の後半以降,機構整備を背景に,年貢増徴に邁進する勘定所,代官に対し,町奉行として市民生活の安定化に努め,また地方御用掛として必ずしも勘定所,代官らにくみさなかった忠相に,庶民がさまざまな思いを託したことによると思われる。<参考文献>辻達也『大岡越前守』,大石慎三郎『大岡越前守忠相』,大石学「大岡越前守支配代官と勘定所機構の改革」(『関東近世史研究』11号)

(大石学)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「大岡忠相」の意味・わかりやすい解説

大岡忠相
おおおかただすけ

[生]延宝5(1677).江戸
[没]宝暦1(1751).12.19.江戸
江戸時代中期の江戸町奉行として有名。大岡忠高の子。大岡忠真の養子となり,元禄 13 (1700) 年寄合,その後山田奉行。山田奉行時代,紀伊領と関係のあった問題を紀州藩に気がねせずに解決して,徳川吉宗に認められ,後年,吉宗が将軍に就任したとき江戸町奉行に抜擢されたといわれる。忠相は江戸南町奉行の職にあって越前守と称せられ,その事績と活躍ぶりは「大岡政談」となって世に親しまれている。享保9 (1724) 年の札差仲間官許とその取り締まり,同 14年の古借利金引下令による騒動の解決,罪刑の連座制廃止や拷問の軽減などを行なったが,一般的には刑罰を軽くしたことで江戸庶民のアイドルとして慕われたことは否定できない。町奉行を 20年間つとめ,元文1 (1736) 年 60歳で寺社奉行となり,江戸城雁間の末席に加えられて大名並みの待遇を受けた。寛延1 (1748) 年にはそれまでの領地に合せて三河国に 4080石の加増を受け,1万石の大名に列せられた。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「大岡忠相」の解説

大岡忠相
おおおかただすけ

1677~1751.12.19

享保の改革期の町奉行。越前守。父は忠高。1920石取の旗本大岡忠真(ただざね)の養子。1700年(元禄13)家督相続。書院番・御徒頭・使番(つかいばん)・目付・山田奉行・普請奉行を勤め,17年(享保2)8代将軍徳川吉宗によって町奉行に抜擢された。吉宗の享保の改革の実務を担当し,商人の仲間・組合の公認,町火消制度の創設,小石川養生所の設置など,江戸の経済・都市政策を実施。22年から24年間,関東地方御用掛を兼ね,地方巧者田中丘隅(きゅうぐ)らを用いて,酒匂(さかわ)川の治水工事や武蔵野新田の開発などを指揮。36年(元文元)寺社奉行に昇進し,48年(寛延元)奏者番を兼ね,三河国西大平藩1万石の大名となった。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「大岡忠相」の解説

大岡忠相 おおおか-ただすけ

1677-1752* 江戸時代前期-中期の武士,大名。
延宝5年生まれ。大岡忠高の4男。享保(きょうほう)2年8代将軍徳川吉宗によって江戸町奉行にとりたてられ越前守(えちぜんのかみ)と称した。公正な裁判,物価の安定,町火消の結成,小石川養生所の設立などに力をそそぎ名奉行といわれた。のち寺社奉行。寛延元年奏者番をかね,加増されて三河(愛知県)西大平藩主となった。1万石。宝暦元年12月19日死去。75歳。通称は市十郎,忠右衛門。
【格言など】下情に通じざれば裁きは曲がる(「甲子(かっし)夜話」)

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旺文社日本史事典 三訂版 「大岡忠相」の解説

大岡忠相
おおおかただすけ

1677〜1751
江戸中期の町奉行
旗本で山田奉行・普請奉行などを経て徳川吉宗の将軍就任とともに1717年町奉行に登用され,越前守と称した。米価調節・株仲間公認・町火消編成など20年間江戸の行政に敏腕をふるい,享保の改革を推進。のち寺社奉行にすすみ三河(愛知県)西大平藩1万石の大名となった。通俗小説の「大岡政談」に述べられている大岡裁きはほとんど創作である。

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世界大百科事典(旧版)内の大岡忠相の言及

【大岡政談物】より

…歌舞伎,講談,人情噺,浪花節などで江戸南町奉行大岡越前守が登場する作品群をいう。大岡忠相は,享保年間(1716‐36)に町奉行をつとめ,名奉行の聞こえ高かった人物。幕末から明治にかけて実録本《大岡仁政録》その他の読物から,講談,人情噺が創作され,大岡越前守にはまるで関係のない物語(たとえば天一坊事件は大岡越前守ではなく,伊奈半左衛門が審議をした)もすべて大岡越前守の裁判として,膨大な作品群を形成するに至った。…

【大岡忠相日記】より

…大岡忠相の寺社奉行時代の日記。忠相自身がしたためたとされる〈自筆本〉が59冊,右筆が清書したとされる〈書写本〉が115冊ある。…

【享保改革】より

…第3期(1736‐45)は36年(元文1)5月元文金銀新鋳という貨幣政策転換を画期とし,37年勝手掛老中松平乗邑(のりさと),勘定奉行神尾春央(かんおはるひで)が登場し年貢増徴にあたった時期で,45年9月吉宗退隠,10月吉宗の内意もあり新将軍家重に乗邑が罷免されて終わる。
[法制整備と文化・社会政策]
 幕府の行政・司法は主として慣習や不文律で行われてきたが,42年(寛保2)評定所が判例を集め修正増補し《公事方(くじかた)御定書》,44年(延享1)幕府法令を類別編集し《御触書寛保集成》を編纂,町奉行所では大岡忠相(ただすけ)らが関係法令を集め立法過程を含め《享保撰要類集》を作った。御触書集成撰要類集はこれが例となって以後編纂が続けられた。…

【火消】より

…しかし町方の自衛消防組織である火消組合の設立は容易に進まなかった。1718年町奉行大岡忠相(ただすけ)は,各町名主が火消組合の組織化が防火対策の第一であると答申したことにもとづき,各町名主に町火消設置を命じ,出火の際は風上2町,風脇左右2町,計6町が1町30名ずつの人足を出し,消火に当たることとしたのである。しかしこの火消組合の地域割が適切でなく消防の効率も悪いという理由で,20年あらためて編成替えが行われた。…

※「大岡忠相」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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