大津皇子(おおつのおうじ)(読み)おおつのおうじ

日本大百科全書(ニッポニカ) の解説

大津皇子(おおつのおうじ)
おおつのおうじ
(663―686)

天武(てんむ)天皇の第三皇子。母は天智(てんじ)天皇の女(むすめ)大田皇女。幼少のころから文武に長じ、天智天皇の寵愛(ちょうあい)を受けた。672年(天武天皇1)の壬申(じんしん)の乱に際しては、いち早く近江(おうみ)京を脱出し、大分君恵尺(おおきだのきみえさか)らとともに伊勢(いせ)の鈴鹿関(すずかのせき)で父天武天皇と合流した。乱後683年太政(だいじょう)大臣となったが、皇位継承によって政治的野心を達成しようとする者が皇子のもとに参集し、そのため、686年(朱鳥1)9月に天武天皇が崩ずると、皇太子草壁(くさかべ)皇子に対して謀反を企てたかどで捕らえられ、訳語田(おさだ)の自邸において死を賜り、妃山辺(やまべ)皇女(天智天皇皇女)も後を追って殉死した。『万葉集』巻2の詞書(ことばがき)によると、皇子の屍(しかばね)はのち二上山(ふたかみやま)(奈良県葛城(かつらぎ)市)男岳頂上に移葬された。皇子は詩才に優れ、『懐風藻(かいふうそう)』には有名な「五言臨終一絶」を含む詩4篇(へん)、『万葉集』には石川郎女(いしかわのいらつめ)との贈答歌、死に臨んで詠んだ歌「百伝(ももつた)ふ磐余(いわれ)の池に鳴く鴨(かも)を今日のみ見てや雲隠りなむ」など4首が伝えられる。また同母姉大伯(おおく)皇女に会って帰るおりの皇女の歌、皇子の死を嘆いた皇女の歌も有名である。

[平田耿二]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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