大熊氏広(読み)おおくまうじひろ

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「大熊氏広」の意味・わかりやすい解説

大熊氏広
おおくまうじひろ

[生]安政3(1856).6.13. 武蔵足立
[没]1934.3.20. 東京
彫刻家。 1876年工部美術学校入学,V.ラグーザに学ぶ。在学中は彫刻科助手をつとめ 82年卒業。同年旧有栖川宮御殿の建築彫刻部を担当。 84年工部省出仕となり,皇居造営の彫刻制作に参加。 88年渡欧パリローマの美術学校で彫刻を研究し翌年帰国。日本美術協会および東京彫工会の名誉会員,内外博覧会審査官,文展審査員をつとめた。日本彫塑界の先駆者で銅像制作にすぐれた。主要作品『大村益次郎像』 (1893,靖国神社) ,『有栖川熾仁 (たるひと) 親王像』 (1903,東京,三宅坂) 。

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朝日日本歴史人物事典 「大熊氏広」の解説

大熊氏広

没年:昭和9.3.20(1934)
生年:安政3.6.13(1856.7.14)
洋風彫刻の草創期に活躍した彫刻家。武蔵国足立郡(埼玉県鳩ケ谷市)の農家に生まれ,洋画家を志して上京明治9(1876)年,工部美術学校が開設されると彫刻科に入学し,イタリア人教師ラグーザに師事。在学中から優秀な成績人柄を認められて彫刻科助手を務め,15年同科を首席で卒業。17年より工部省に勤務。靖国神社前の「大村益次郎銅像」の依頼を受けて渡欧を決意し,21年より22年まで滞欧してフェルギエール,モンテベルデらに師事。写実を重視した西洋風のブロンズ像の開拓者として肖像を多く制作した。鳩ケ谷市立郷土資料館に多くの資料が所蔵される。

(山梨絵美子)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「大熊氏広」の解説

大熊氏広 おおくま-うじひろ

1856-1934 明治-大正時代の彫刻家。
安政3年6月13日生まれ。工部美術学校彫刻科でラグーザにまなぶ。卒業後工部省につとめ,明治21年渡欧。「大村益次郎像」などおおくの銅像をつくり,文展の審査員もつとめた。昭和9年3月20日死去。79歳。武蔵(むさし)鳩ケ谷(埼玉県)出身

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世界大百科事典(旧版)内の大熊氏広の言及

【銅像】より

…青銅の鋳造技術は古くから発達し,日本でも仏像彫刻などにすぐれた作品があるが,銅像という名称が使われたのは明治以後である。日本に洋風彫刻術をもたらしたのは,1876年工部美術学校開設のとき教師として来日したイタリア人ラグーザであるが,その門下生であった大熊氏広(1856‐1934)が,現在も靖国神社にある《大村益次郎像》制作の依頼をうけた。大熊は83年原型制作に着手したが,銅像制作研究のためイタリアに留学し,完成したのは93年であった。…

【明治・大正時代美術】より

… 一方,工部美術学校の彫刻教師としてV.ラグーザが1875年に迎えられ,本格的な洋風彫塑を初めて伝える。ラグーザは15年間同校にあって,その門下からは大熊氏広(1856‐1934),藤田文蔵(1861‐1934),小倉惣次郎(1843‐1913),佐野昭(しよう)らが育った。彼らに加えて,81年から5年間ベネチアで学んだ長沼守敬(もりよし)が洋風彫塑の開拓者といえようが,国粋主義の伝統復興運動のさなかに設立された東京美術学校では,木彫だけが採用され,竹内久一(きゆういち)(1857‐1916),高村光雲,石川光明,山田鬼斎(1864‐1901)が登用された。…

【ラグーザ】より

…日本に初めて肉付け(モデリング)の技法を紹介し,セッコウの型取りや大理石の彫法あるいは建築の装飾にいたるまで基礎実技を指導した。弟子には大熊氏広(1856‐1934),後に女子美術学校を創設する藤田文蔵(1861‐1934)などがいる。ラグーザはロダンの彫刻が紹介される以前の,日本における近代彫刻史の序章を担う重要な役目を果たしたが,82年工部美術学校彫刻学科廃止後,妻となる清原玉(1861‐1939)をともなって帰国。…

※「大熊氏広」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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