大高源吾(読み)オオタカゲンゴ

デジタル大辞泉 「大高源吾」の意味・読み・例文・類語

おおたか‐げんご〔おほたか‐〕【大高源吾】

[1672~1703]赤穂義士あこうぎし一人。名は忠雄。浅野長矩あさのながのり中小姓吉良きら邸討ち入りに参加宝井其角たからいきかく俳諧を学び、子葉と号した。

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精選版 日本国語大辞典 「大高源吾」の意味・読み・例文・類語

おおたか‐げんご【大高源吾】

赤穂義士の一人。名は忠雄。俳号、子葉。討ち入り前日、宝井其角俳句をよみ合って別れる話は有名。「仮名手本忠臣蔵」では、大鷲文吾の名で登場。寛文一二~元祿一六年(一六七二‐一七〇三

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改訂新版 世界大百科事典 「大高源吾」の意味・わかりやすい解説

大高源吾 (おおたかげんご)
生没年:1672-1703(寛文12-元禄16)

大石良雄首領として1702年(元禄15)12月14日に吉良邸に討ち入った赤穂浪士の一人。大高は禄高20石五人扶持で,父忠晴の代に新たに浅野家に召し抱えられた。浅野家が断絶した後はおもに京都にいたが,翌年9月吉良を討つため江戸に下るにあたり決別の意をこめて母にあてた手紙には,浅野の家臣たちが吉良を討つ目的と意義を余すところなく述べており,赤穂事件の重要な史料である。
執筆者: 大高源吾死後浄瑠璃・歌舞伎・講談等に取り上げられた。浄瑠璃《仮名手本忠臣蔵》(1748年8月初演)には大鷲源吾(異版では〈大わしぶん五〉とも)の仮名で登場し,討入りのシーンで〈……大鷲源吾かけやと大槌引さげ引さげ〉と描写される。江戸歌舞伎で1749年(寛延2)6月中村座上演のおり,2世市川団十郎は水間沾徳(せんとく)遺品の大高源吾筆〈山を劈(さ)く(“抜く”とも)力も折れて松の雪〉の句を記した掛物を所蔵する縁で大館熊之助の役名で源吾役をつとめた。このとき以来菱皮鬘(ひしかわかつら)に一本隈という扮装荒事の演出が行われ,代々市川家の家の芸とされ,源吾は勇猛の士としての性格に強調点がおかれたが,この演出はいつか絶えた。宝井其角が両国橋で煤払(すすはらい)竹売りに身をやつし吉良邸の様子を探る源吾に出会い,〈年の瀬や水の流れと人の身は〉の発句に対し,源吾が〈あした待たるるその宝舟〉と付けたという巷説があり,1856年(安政3)5月森田座初演《新台(しんぶたい)いろは書初》(3世瀬川如皐作)で舞台化され,さらに90年5月歌舞伎座初演《実録忠臣蔵》(福地桜痴作,3世河竹新七補)に引きつがれ,その一部が独立して1907年10月初演《土屋主税》また《松浦の太鼓》となった。源吾の俳人子葉(しよう)としての側面は講談《義士銘々伝》中にも強調され,真山青果作《元禄忠臣蔵》(〈吉良屋敷裏門〉〈泉岳寺〉の場)でも俳人であり勇者である両面が描かれている。
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「大高源吾」の解説

大高源吾 おおたか-げんご

1672-1703 江戸時代前期の武士。
寛文12年生まれ。播磨(はりま)(兵庫県)赤穂(あこう)藩士。四十七士のひとり。中小姓,膳番元方,金奉行,腰物方を兼ねた。藩主浅野長矩(ながのり)の死後,江戸にでて,脇屋新兵衛と変名し吉良義央(よしなか)邸をさぐった。討ち入り後,元禄(げんろく)16年2月4日切腹。32歳。名は忠雄(ただたか)。俳号は子葉。著作に「丁丑紀行」,編著に「二つの竹」。
【格言など】梅で呑む茶屋もあるべし死出の山(辞世)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「大高源吾」の意味・わかりやすい解説

大高源吾
おおたかげんご

[生]寛文12(1672).赤穂
[没]元禄16(1703).2.4. 江戸
江戸時代中期の播磨赤穂藩主浅野長矩 (ながのり) の家臣で,いわゆる赤穂義士の一人。名は忠雄。大石良雄の吉良 (きら) 邸討入りに参画,のち切腹。子葉と号し,俳諧,茶事に通じ,榎本其角とも親交があった。 (→赤穂事件 )

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