天野宗歩(読み)あまのそうほ

精選版 日本国語大辞典 「天野宗歩」の意味・読み・例文・類語

あまの‐そうほ【天野宗歩】

江戸後期の棋士。江戸の人。五歳で第一一代大橋宗桂に入門。近代将棋の定跡基礎をつくり、棋聖と称される。文化一三~安政六年(一八一六‐五九

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デジタル大辞泉 「天野宗歩」の意味・読み・例文・類語

あまの‐そうほ【天野宗歩】

[1816~1859]江戸末期の棋士。江戸の人。11代大橋宗桂に入門。近代将棋の定跡の基礎を築いた。七段。後世、棋聖と仰がれる。著に定跡集「将棋精選」がある。

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朝日日本歴史人物事典 「天野宗歩」の解説

天野宗歩

没年:安政6.5.14(1859.6.14)
生年:文化13.11(1816)
幕末の将棋棋士。「そうほ」とも。江戸本郷菊坂の生まれ。小幡甲兵衛の次男。幼名留次郎,天野家へ養子となり,のちに富次郎と改名。文政3(1820)年,11代大橋宗桂(宗金)に入門。「菊坂の神童」といわれた。弘化3(1846)年七段。嘉永5(1852)年将棋家別家を許されて宗歩を名乗り御城将棋に出勤した。別家のためその後の昇段はないが,技は当代随一でのちに「棋聖」と称された。たびたび旅に出て在野での逸話が多い。同6年の著書『将棋精選』は新定跡として高名。江戸時代にあって近代将棋の基礎を切り開いた。<参考文献>中原誠『天野宗歩』(日本将棋大系),内藤国雄『棋聖天野宗歩手合集』

(谷口牧夫)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「天野宗歩」の意味・わかりやすい解説

天野宗歩
あまのそうほ
(1816―1859)

将棋棋士。江戸に生まれる。幼名は留次郎。1820年(文政3)5歳で11代大橋宗桂(そうけい)に入門。18歳のとき将棋修業の旅に出る。1845年(弘化2)30歳のとき富次郎と改名、六段。翌1846年七段を許され京都に上る。1852年(嘉永5)剃髪(ていはつ)して宗歩と称す。同年11月17日、江戸城の黒書院で和田印哲、大橋宗珉(そうみん)と対局する。これらの強豪との実戦は旧来の定跡(じょうせき)を破り、将棋史上に多くの名局を残している。門人には市川太郎松、渡瀬荘次郎、小林東伯斎ら在野の強豪が多数いた。定跡集『将棋精選』は近代将棋の基礎になっている。段位は七段、実力は十三段とうたわれ棋聖と仰がれる。

[原田泰夫]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「天野宗歩」の解説

天野宗歩 あまの-そうほ

1816-1859 江戸時代後期の将棋棋士。
文化13年11月生まれ。11代大橋宗桂(そうけい)の門下。7段。嘉永(かえい)5年御城将棋に参加。棋聖と称された。定跡(じょうせき)集「将棊(しょうぎ)精選」「将棊方鑑」を刊行。門人に渡瀬(とせ)荘次郎,市川太郎松らがいる。安政6年5月13日死去。44歳。江戸出身。本姓は小幡。通称は留次郎,のち富次郎。

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百科事典マイペディア 「天野宗歩」の意味・わかりやすい解説

天野宗歩【あまのそうほ】

幕末の将棋棋士。江戸の生れ。11代大橋宗桂門下。全国各地に棋譜を残し,《将棋精選》はその120番を収める。将棋家の出でないため7段に終わったが,御城将棋にも参加,後世〈棋聖〉と称された。《将棋手鑑》(1853年)は近代将棋への扉を開いた定跡集。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「天野宗歩」の意味・わかりやすい解説

天野宗歩
あまのそうほ

[生]文化13(1816).江戸
[没]安政6(1859)
将棋棋士。幕末の棋聖とうたわれた天才棋士。在野の棋士であったため生涯7段で終ったが,棋力 11段と称され,門下生 3000人に及んだ。その著書『将棋精選』『将棋手鑑』は近代将棋の定跡の基礎とされている。

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