奄美(市)(読み)あまみ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「奄美(市)」の意味・わかりやすい解説

奄美(市)
あまみ

鹿児島県南部、鹿児島市の南方約380キロメートルの海上に浮かぶ奄美大島にある市。2006年(平成18)名瀬市(なぜし)、大島(おおしま)郡笠利町(かさりちょう)、住用村(すみようそん)が合併して成立。奄美大島の中央部から北東部を占め、飛び地の笠利地区は大島郡龍郷(たつごう)町を挟んで、島の北東端部に位置する。北部は東シナ海に面し、南部は太平洋に臨む。国道58号が走り、笠利地区に奄美空港がある。海路名瀬港に鹿児島、那覇(なは)などからフェリーが就航。笠利地区には宇宿貝塚(うしゅくかいづか)(国指定史跡)、城間(しろま)トフル墓群(県指定史跡)ほか原始・古代の遺跡が多く分布し、奄美の文化と歴史の発祥地であったとみる説がある。名瀬小湊(なぜこみなと)の小湊フワガネク遺跡(国指定史跡)は、弥生~平安時代の複合遺跡で、ヤコウガイ製貝匙(かいさじ)など大量の貝製品、その製作跡、在地系の兼久(かねく)式土器、鉄器などが発見され、注目を浴びた。古代には大和朝廷の朝貢圏に属し、7世紀から遣唐使の南島路の寄港地となった。しかし、9世紀末には遣使がとだえ、九州などとの交流も衰退。その後、アジ(按司)が割拠し、グスク(城)を築いて対立。伊津部勝(いつぶがち)城跡浦上(うらがみ)城跡、有屋(ありや)城跡などのグスク跡がある。平家の落人平有盛(たいらのありもり)(?―1185)・行盛(ゆきもり)(?―1185)・資盛(すけもり)(1158?―1185)の3人が奄美大島を三方に分けて領知したという伝承が残り、浦上には有盛(ありもり)神社、またグンギン(権現)とよばれる平家見張所跡の伝承地などもある。15世紀末以降琉球王国(りゅうきゅうおうこく)の統治下に入り、1609年(慶長14)島津氏の琉球侵略以後は薩摩(さつま)鹿児島藩直轄領となる。薩摩藩統治時代、代官所が置かれた伊津部は、島の政治・経済の中心地となった。伊津部の北東の大熊湊(でつくまみなと)は鹿児島から役人往来や砂糖の積み出しに利用。薩摩藩による砂糖の単一作物化政策は村々の疲弊を招いた。

 主産業は農林業。なだらかな北部地域では、サトウキビ、野菜の栽培、肉用牛の飼育といった複合経営が行われる。山地の多い南部では、海岸沿いの狭小な平地や傾斜地を利用して、ポンカン、タンカンのほか、パッションフルーツなどトロピカルフルーツの果樹栽培が盛ん。伝統工芸の大島紬(つむぎ)の生産も盛んで、大島紬資料館や、大島紬村がある。黒糖焼酎は奄美特産として知られる。奄美群島国立公園の指定域で、南部の神屋・湯湾岳(かみやゆわんだけ)一帯は国指定天然記念物。神屋・湯湾岳地区はシイを主体とする亜熱帯性の原生林が繁茂し、特別天然記念物のアマミノクロウサギなど特殊な動植物が多い。住用川、役勝(やくがち)川河口湿地帯のマングローブ(オヒルギ、メヒルギ)の群落は特別保護区に指定。ほかに大浜海岸や摺子(すりこ)崎、用安(ようあん)海岸、アヤマル崎などの観光地がある。笠利地区にある明治時代初期の民家、泉家住宅は国指定重要文化財。面積308.33平方キロメートル、人口4万1390(2020)。

[編集部 2019年5月21日]


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