奇跡(宗教)(読み)きせき

日本大百科全書(ニッポニカ) 「奇跡(宗教)」の意味・わかりやすい解説

奇跡(宗教)
きせき

理性ではとらえられない超自然な現象やできごとをいう。英語のミラクルmiracleということばを1883年(明治16)の『哲学字彙(じい)』では霊恠(霊怪)(れいかい)、神跡と訳しており、1912年(明治45)の『英独仏和哲学字彙』になって初めて、訳語のなかに奇跡なる語が出現する。つまり近代日本になって初めて成立した輸入の概念である。一般にキリスト教文化のなかでは、神の「みわざ」が通常の自然法則を無視するなり、あるいはそれを乗り越えるとみえる超自然的なできごとをさすものとされている。しかし5世紀の聖アウグスティヌスは次のように主張する。奇跡は自然と矛盾するものではなく、われわれ人間が自然について知っている範囲の知識とは矛盾するだけである。自然と奇跡との間には調和がとれている。つまり、奇跡的なものは神の意志によって起こるものであり、自然それ自体が神の意志にほかならないのだからと。また13世紀の聖トマス・アクィナスやスコラ学者たちは、自然のなかにある二つの秩序を区別する。つまり、われわれ人間に知られている秩序と、神に知られている秩序である。その低いほうの秩序とは矛盾するが、より高い秩序すなわち神のみに知られている秩序とは矛盾せず、そのようなできごとこそまさしく奇跡とよばれるのである。

[小野泰博]

科学と奇跡

ところが自然科学の勃興(ぼっこう)してきた17世紀の哲学者スピノザは、「奇跡などというものは起こりえないものだ。自然法則は神の計らい(神意decrees)なのであるから、かりそめにも自然の秩序の侵害は、神ご自身の自己矛盾を意味するからである」という。なお、同時代の理神論者も奇跡の可能性については反対を表明している。神はこの世界を定まった法則によって動くようお造りになった。そして自らの創造物にけっして干渉されることはない。つまり、時計師(神)がひとたびつくった時計は精巧なぜんまい仕掛け(法則性)に従って正しい運動を持続するものであると。次の18世紀になると、ふたたびJ・バトラーは、アクィナスやスコラ学者のことばを借りて、啓示宗教立場から理神論の立場に反論する。同じ18世紀のデビッド・ヒュームは、ときに無神論者とみなされることもあったが、「奇跡といわれるものが大きければ大きいほど、それを立証する証拠もよりいっそう実質的根拠のあるものでなければならぬ。自然法則を立証するには莫大(ばくだい)な証拠がある。奇跡という場合、例外的な証拠は断じてこうした経験に基づく証拠に勝ることはできない」とした。ヒュームはイエス・キリストの身体的な復活などありえぬこととみていた。ニュートンはこう考えた。自ら宇宙という機械をつくられた神は、ときどきねじを回したり、掃除したり、修繕なさることもあるのだと解した。しかしライプニッツは、全能であるはずの神が自らつくった機械に手を加えるとは自己矛盾ではないかと問う。そして神が宇宙全体を法則のままに保持されるのを一般摂理とし、常識的には治るはずのない病人が治されたりしたというのを特殊摂理として区別した。やがて19世紀の批判家は、キリストの生涯のできごとについて合理的な解釈を下そうとした。D・シュトラウスは、キリストの生涯のもつ超自然的な側面を否定し、奇跡は形而上(けいじじょう)学的な観念を象徴するよう伝説的に付加されたものであり、『イエス伝』を書いたルナンは、奇跡とは当時の人がイエスに対して行った歪曲(わいきょく)だと述べた。しかし、いまなおルルドの聖地への巡礼は後を絶たない。奇跡を求めての旅である。

[小野泰博]

未知への期待

およそ自然法則に反するようなできごとを立証するには、歴史的な立証と、科学的な立証法とがあり、前者は、当事者の明瞭(めいりょう)な記憶、それに証拠となる痕跡(こんせき)、それに証人が必要であり、後者では自然法則の正しい働きが立証されねばならない。しかし同じ条件下で反復実験を許さない1回きりのできごとが多いこの世の中で、神の介在を認めないまでも、偶然の一致coincidenceや同時性synchronicityなどの問題は、むしろ超心理学の名で、科学時代の未知の世界を探究するものとして多くの人々の興味をよんでいる。霊験(れいげん)というわが国古来からの超常現象に対する期待も、けっして消えているわけではない。

[小野泰博]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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