安倍泰親(読み)あべのやすちか

改訂新版 世界大百科事典 「安倍泰親」の意味・わかりやすい解説

安倍泰親 (あべのやすちか)

平安末期の陰陽家。生没年不詳。藤原頼長九条兼実に重用され,1182年(寿永1)4月陰陽頭に任じたが,翌年正月をもって記録類から消えており,このころ没したとみられる。系図類では年齢を74歳とする。《安倍泰親朝臣記》(一名《天文変異記》。《改定史籍集覧》所収)がある。
執筆者: 祖先安倍晴明に匹敵する卜占の天才とうたわれた泰親の伝承としては,1179年(治承3)11月の京都地震を大変事の予兆と判じた直後に平清盛クーデタが生じたこと,またその翌年5月,後白河法皇が幽閉されていた城南宮(鳥羽殿)で鼬(いたち)が走り騒いだのを〈今三日がうちの御悦(おんよろこび)並に御歎(おんなげき)〉と判じた直後に法皇は身柄を美福門院御所に移され,喜んだのもつかのま,皇子の以仁(もちひと)王と源頼政挙兵し,宇治で敗死するという憂目に会ったことなど《平家物語》が伝えているのがとくに名高く,その作者によると泰親は推理の的確さで〈指神(御)子(さすのみこ)〉の異名をとっていたという。他の伝承は《古今著聞集》にもみえている。
執筆者:

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朝日日本歴史人物事典 「安倍泰親」の解説

安倍泰親

没年:寿永2(1183)
生年:天永1(1110)
平安後期の陰陽家。安倍泰長の子。雅楽頭,陰陽博士,陰陽助,大膳権大夫を歴任,正四位上に上る。寿永1(1182)年に陰陽頭兼大膳権大夫に任ぜられた。天文密奏や陰陽道諸祭を務める。また占いがよく的中したことで有名であった。久安4(1148)年の土御門内裏の炎上を予見し,承安2(1172)年の斎宮の死や治承3(1179)年11月7日の夜京都で地震があったときに,重大な異変が起こることを予言し,泣きながら奏上したために,公卿の失笑を買ったという。しかし,直後に平清盛が後白河法皇の院政を停止させるという政変が起こり,泰親の予言の正しさが証明されたという。『平家物語』によれば,安倍晴明の血統をひき,天文学の根本を究め,その推論は正確で外れることのないことから,「さすの神子」と呼ばれていたという。<参考文献>藤原頼長『台記』,九条兼実『玉葉』,『安倍泰親朝臣記』(『改訂史籍集覧』24冊)

(林淳)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「安倍泰親」の解説

安倍泰親 あべの-やすちか

1110-1183 平安時代後期の陰陽師(おんようじ)。
天永元年生まれ。安倍晴明(せいめい)の子孫。藤原頼長や九条兼実に重用され,雅楽頭(うたのかみ),陰陽権博士などを歴任し,陰陽頭兼大膳権大夫にすすむ。源頼政の挙兵など,予言・占いがよく的中し,指御子(さしのみこ)とよばれたことが「平家物語」にしるされている。寿永2年死去。74歳。

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世界大百科事典(旧版)内の安倍泰親の言及

【陰陽道】より

…八十島(やそしま)祭・鎮火祭・道饗(みちあえ)祭・七瀬祓など朝廷の神祇的行事の陰陽道化は著しく,物忌(ものいみ)・方違(かたたがえ)は公家の間に有職故実化された禁忌で,とくに鬼門(東北方)や金神・太白・天一など諸神遊行の方向,往亡日・厭日・坎日(かんじつ)・道虚日・衰日などの日が禁忌の対象とされた。これらは院政期に入っていっそうはなはだしくなり,陰陽家には安倍泰親のほか一般公家にも大江匡房,藤原信西,同頼長,清原頼業らの精通者があらわれた。とくに泰親は〈さすのみこ〉といわれ,源平興亡の激動期には政局の前途を占ってよく的中し注目された。…

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